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追憶のソルフェージュ〜永久より長い一瞬の中で~  作者: 益川屋兵右衛門


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Epilogue Coda ―~春風のその先へ~―

春が来た。


また。


去年と同じように。


桜は咲いて。


風は柔らかくて。


空はどこまでも青かった。


だけど。


去年と今年は違う。


決定的に。


取り返しがつかないくらい。


違っていた。


     ◇◇◇◇


校門の桜が揺れている。


花びらが舞う。


私は立ち止まる。


見慣れた景色。


見慣れた学校。


見慣れた春。


だけど。


その景色の中にいるはずの人がいない。


「兄さん」


小さく呟く。


返事はない。


当たり前だった。


もう。


どこにもいないのだから。


     ◇◇◇◇


私は二年生になった。


新しいクラス。


新しい教科書。


新しい時間割。


変わらないようで。


少しずつ変わっていく毎日。


一年前なら。


兄さんがいた。


朝になれば顔を合わせて。


学校へ行って。


帰ってきて。


夕飯を食べて。


何気ない会話をして。


それが当たり前だった。


でも。


今は違う。


隣に誰かがいることは。


決して普通《あたりまえ》じゃない。


失って初めて知った。


その重みを。


     ◇◇◇◇


放課後。


私は校舎裏の桜並木を歩いていた。


風が吹く。


花びらが舞う。


その向こうに二人の姿が見えた。


「陽香ー!」


奈津実さんだった。


少し伸びた髪。


以前より大人びた表情。


制服の胸には三年生の学年章。


受験生になった奈津実さん。


だけど。


笑い方は変わらなかった。


その隣には秋帆さんもいる。


「こんにちは、陽香ちゃん」


柔らかな笑顔。


優しい声。


秋帆さんも三年生になった。


受験勉強で忙しいはずなのに。


こうして時々会ってくれる。


「こんにちは」


私は頭を下げる。


「二人とも帰りですか?」


「そうだよ」


奈津実さんが答える。


「模試だった」


「お疲れ様です」


「疲れたー」


大袈裟に肩を落とす。


思わず笑ってしまう。


     ◇◇◇◇


三人で歩く。


去年と同じ道。


だけど。


一人足りない。


それは誰も口にしない。


口にしなくても分かるから。


     ◇◇◇◇


校門を出たところで。


奈津実さんが空を見上げた。


「桜綺麗だね」


「そうですね」


秋帆さんも頷く。


「去年もこんな感じでしたね」


その言葉に。


少しだけ沈黙が落ちた。


去年。


その単語だけで。


色々なことを思い出す。


文化祭。


病院。


夏祭り。


海。


勉強会。


放課後。


音楽室。


そして。


兄さん。


     ◇◇◇◇


「ねえ」


奈津実さんが言う。


「今年もお祭り行こうか」


私は少し驚いた。


「お祭りですか?」


「うん」


「行きたいです」


秋帆さんが微笑む。


「私も」


奈津実さんは笑った。


「決まり」


     ◇◇◇◇


去年。


四人で歩いた参道。


焼きそば。


たこ焼き。


みたらし団子。


何でもない会話。


何でもない時間。


だけど。


今なら分かる。


あれは奇跡だった。


     ◇◇◇◇


人は未来を知らない。


だから笑える。


だから夢を見る。


だから約束をする。


来年も。


また今度も。


そのうちも。


当たり前みたいに。


     ◇◇◇◇


だけど。


未来は当たり前じゃない。


明日だって。


来年だって。


保証なんてどこにもない。


     ◇◇◇◇


私たちは知ってしまった。


兄さんが教えてくれた。


残酷なくらい優しい形で。


     ◇◇◇◇


駅前まで来たところで。


奈津実さんが立ち止まる。


「そういえばさ」


「はい?」


「この前、ヒロの曲聴いた」


私は目を見開いた。


秋帆さんも少し驚いた顔をする。


「文化祭の録音」


奈津実さんが言う。


「たまたま見つけた」


     ◇◇◇◇


あの日。


講堂で演奏した未完成の曲。


兄さんが残した旋律。


     ◇◇◇◇


「どうでした?」


秋帆さんが聞く。


奈津実さんは少し考える。


そして。


「やっぱ反則」


そう言った。


     ◇◇◇◇


私たちは笑った。


少しだけ。


泣きそうになりながら。


     ◇◇◇◇


ヒロらしい。


兄さんらしい。


裕亮くんらしい。


それぞれの呼び方。


それぞれの距離。


だけど。


思うことは同じだった。


     ◇◇◇◇


忘れられない。


     ◇◇◇◇


病院のことも。


音楽室のことも。


文化祭のことも。


全部。


     ◇◇◇◇


この喪失《いたみ》を。


私たちはきっと一生忘れない。


     ◇◇◇◇


忘れたくない。


     ◇◇◇◇


悲しいからじゃない。


辛いからじゃない。


     ◇◇◇◇


大切だったから。


     ◇◇◇◇


本当に。


大切だったから。


     ◇◇◇◇


夕暮れが近付いていた。


春の光が少しずつ色を変えていく。


柔らかな金色。


優しい橙色。


去年。


兄さんが好きだと言っていた時間。


     ◇◇◇◇


『こういう時間が好きなんだ』


     ◇◇◇◇


放課後の教室で。


窓の外を見ながら。


兄さんはそう言った。


     ◇◇◇◇


何も起きない時間。


普通の毎日。


それが好きだと。


     ◇◇◇◇


今なら分かる。


     ◇◇◇◇


兄さんは特別なものを求めていなかった。


世界を変えたいわけでも。


有名になりたいわけでも。


奇跡を望んでいたわけでもない。


     ◇◇◇◇


ただ。


みんなと笑いたかった。


     ◇◇◇◇


それだけだった。


     ◇◇◇◇


駅前で別れる。


「じゃあね、陽香」


奈津実さんが手を振る。


「またね、陽香ちゃん」


秋帆さんも微笑む。


「はい」


私は頷いた。


「また」


     ◇◇◇◇


二人の背中を見送る。


そして。


空を見上げる。


     ◇◇◇◇


桜が舞っていた。


     ◇◇◇◇


春が来た。


また。


     ◇◇◇◇


兄さんのいない春。


     ◇◇◇◇


それでも季節は巡る。


時間は流れる。


私たちは生きていく。


     ◇◇◇◇


泣きながらでも。


迷いながらでも。


前を向いて。


     ◇◇◇◇


だって。


兄さんが残してくれたものがあるから。


     ◇◇◇◇


想い。


笑顔。


旋律。


記憶。


     ◇◇◇◇


そして。


あの日々。


     ◇◇◇◇


私たちは忘れない。


     ◇◇◇◇


あの時間《ひび》を。


     ◇◇◇◇


あの季節《じかん》を。


     ◇◇◇◇


ずっと。


     ◇◇◇◇


決して。


     ◇◇◇◇


忘れない。


     ◇◇◇◇


それは。


奇跡《まほう》のような瞬間だったから。


     ◇◇◇◇


永久より長い一瞬。


     ◇◇◇◇


その中で。


兄さんは確かに笑っていた。


     ◇◇◇◇


奈津実さんも。


秋帆さんも。


私も。


     ◇◇◇◇


同じ空を見上げていた。


     ◇◇◇◇


そして今も。


     ◇◇◇◇


心のどこかで。


あの未完成の旋律は鳴り続けている。


     ◇◇◇◇


追憶のソルフェージュ。


     ◇◇◇◇


それは。


失われた物語ではない。


     ◇◇◇◇


生き続ける物語だ。


     ◇◇◇◇


誰かを想う心の中で。


     ◇◇◇◇


永久より長い一瞬の中で。


     ◇◇◇◇


今もなお。


     ◇◇◇◇


静かに。


     ◇◇◇◇


優しく。


     ◇◇◇◇


煌めく想い《ねがい》の欠片として。



---


― End of Score ―

『追憶のソルフェージュ ~永久より長い一瞬の中で~』 完

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