補遺6 個人ウェブサイト「房総民俗誌」
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【補遺6】
媒体:個人ウェブサイト「房総民俗誌」
管理人:及川 義隆(民俗学研究者・千葉郷土史会会員)
最終更新日:表示異常(後述)
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〔房総民俗誌〕 第38回
「骸ケ谷」の地名考
─消えた集落の民俗学的考察─
及川 義隆(記)
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1 はじめに
近年、千葉市内のある図書館に収蔵された埋蔵文化財関連の
報告書をめぐり、ネット上で奇妙な噂が流通している。
当該報告書の地名「骸ケ谷」について、
本稿では民俗学的観点からの整理を試みたい。
怪奇現象の真偽を論じる立場は採らず、
文献に残る記録の整理に限定する。
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2 地名の文献初出
「骸ケ谷」の地名は、現在の千葉市の行政地名としては
登録されていない。しかし、古文献を渉猟すると、
散発的に当該地名の登場が確認できる。
最も古い記録は、室町時代の文明十三年(1481)の
寺社縁起に見られる。当該縁起には、現在の千葉市某区に
相当する地域の谷地形について
「土の重なる順序の異なる場所」「骸ケ谷と呼ぶ」
との記述がある。
その後、江戸期の地誌・幕末の地租改正資料・大正期の
郷土誌などに散発的な記載があるが、いずれも詳細に立ち
入った記述はなく、「立ち入ることが避けられている谷」
として語られるに留まる。
明治二十二年の市制町村制の施行以降、当該地名は公式の
行政地名としては登録されていない。
ただし、地元の古老の口承には、昭和中期まで
「骸ケ谷」の呼称が残存していたことが確認できる。
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3 廣澤文彦の『千葉県下における埋没集落の伝承』
大正十一年(1922)、廣澤文彦という研究者が、
『千葉県下における埋没集落の伝承』と題する稿本を
著している。当該稿本は、千葉県下の集落消滅伝承を
収集・整理したもので、その第三章が「骸ケ谷の民俗
について」である。
廣澤の記録によれば、骸ケ谷の伝承は以下の三要素を
柱とする。
(一)「土が逆転する」という地形観念
(二)「爪に名前が刻まれる」という記録観念
(三)「百二十五枚目」という終端観念
当該の三要素は、民俗学的にはきわめて特異である。
日本各地の集落消滅伝承においては、洪水・火災・
疫病等の現実的な原因が伝承の核となるのが通例である。
しかし骸ケ谷の伝承は、現実的な原因をまったく欠き、
代わりに「記録」そのものを集落消滅の機序として位置
付けている。
筆者の管見の限り、これに類する伝承構造は、千葉県下
には他に確認できない。
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4 廣澤文彦という研究者
廣澤文彦という研究者については、その生没年・経歴の
ほとんどが不明である。
管見の限り、以下の事項のみが確認できる。
・大正十年〜大正十一年にかけて、上記稿本を執筆。
・千葉県下の各村において聞き取り調査を実施した記録あり。
・大正十二年以降、関連学会誌への寄稿が確認できない。
・没年・墓所・遺族の所在、いずれも不明。
筆者が複数の郷土史研究家に廣澤文彦に関する情報を
照会したところ、興味深い回答を得た。
複数の研究家が、廣澤の名を「学生時代に読んだ稿本の
著者として記憶している」と述べたが、当該稿本の現物の
所在については「どこかにあったはずだが、いざ探すと
見つからない」と答えた。
筆者自身、本稿の執筆にあたり廣澤の稿本を再確認しよう
としたが、所蔵していたはずの研究室の書架に、
当該稿本が見当たらない。
廃棄した記憶はないため、改めて捜索を続けている。
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5 近年の動向と今後の課題
令和5年度に刊行されたとされる『骸ケ谷逆山遺跡発掘調査
報告書』の内容は、本稿の筆者は未確認である。
ただし、当該報告書の校閲担当者として「廣澤文彦」の名が
記載されていると、複数の関係者から伺っている。
大正十一年に稿本を著した廣澤文彦と、令和5年度の報告書の
校閲担当者の廣澤文彦が同一人物であるとは、もちろん物理的
にあり得ない。
同姓同名の別人と考えるのが妥当である。
しかし、両者ともに「骸ケ谷」の伝承を取り扱う研究者で
あり、かつ後者の所在が確認できないという点で、
偶然の一致以上の何かを感じざるを得ない。
本稿の続編として、近日中に当該報告書を入手し、
内容の検討に進みたいと考えている。
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最終更新:(表示異常)
[管理人より]
本サイトの「最終更新」表示について、
閲覧のたびに異なる日付が表示される事象を確認しました。
原因を調査中です。
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[当該サイトのその後]
本稿が公開されたのは、令和6年6月25日と推定される。
ただし、サイトのトップページに表示される「最終更新」は、
閲覧のたびに以下のいずれかの表示に変動する。
・令和6年6月25日
・記入なし
・(システムエラー:日時を取得できません)
なお、本稿の続編「『骸ケ谷』の伝承構造の分析」が予告
されていたが、現時点で公開されていない。
サイト管理人の及川義隆氏は、所属していた研究会から
令和6年7月以降、連絡が取れなくなっている。
ご家族によれば、書斎に「廣澤の稿本がやっと見つかった」
と書かれた手書きのメモが残されていたという。
当該メモの日付欄は空白である。
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