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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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18/25

第十八話:溶けない氷

潮風が優しく頬を撫でる三崎の港町。日ノ出バス停のすぐそばに佇む古民家「キボクマ」、そして夜の「ヨルクマ」には、今宵もそれぞれの事情を抱えた方が暖簾をくぐります。


今回お届けするのは、静かな夜のヨルクマで起きた、少し不思議で温かいお話です。最近、大切な旦那様を亡くされた一人の女性。彼女が持ち込んだグラスの中の氷は、なぜかいつまで経っても溶けることがありません。


新しくキボクマの家族になった柴犬の「こまる」と、地面に耳を澄ませる木彫りの熊。彼らがそっと寄り添う中で、頑なだった氷と心がどのように解けていくのか。店主の静かな眼差しとともに、どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください。

……。

夜の帳が下りる頃、三崎の町は急速にその色を濃くしていく。日ノ出バス停に停まる路線バスのプシューという排気音が、静まり返った通りに小さく響いた。


築50年の古民家の引き戸を開け、私はいつものように黒漆喰の壁と天井に囲まれた空間を見渡す。天井には、星空を模したスローテンポのイルミネーションが、またたくとも言えないほどの穏やかさで光を放っている。


夜の「ヨルクマ」の始まりだ。


私は土間の奥にある6畳間に引っ込み、スウェットの袖をまくり上げて、文庫本をパラパラとめくっていた。足元には、最近この店に迷い込んできて、そのまま住み着くことになった柴犬の「こまる」が丸くなっている。

少し小ぶりで、眉間のあたりが八の字になった、なんとも言えない「困り顔」の老犬だ。

こまるはキボクマの「静かに過ごす」というルールを理解しているらしく、滅多に吠えない。

ただそこにいて、空間の空気を柔らかくしてくれる、頼もしい相棒だ。


入り口の引き戸が、カラカラと控えめな音を立てて開いた。

料金箱に1000円札が落とされる、カサリという微かな音が6畳間まで届く。


夜のヨルクマは、大人1000円。それを料金箱に入れさえすれば、あとは時間の制限なく、誰にも邪魔されずに気が済むまで滞在していいシステムになっている。とは言っても、21:30の終バスとともに閉店だけども。


入ってきたのは、60代半ばほどに見える初老の女性だった。品の良い藤色のカーディガンを羽織り、小さなトートバッグを大切そうに抱えている。彼女は初めて入る空間に少し戸惑うようにあたりを見回した。


ヨルクマの壁際や棚には、100体の木彫りの熊たちが並んでいる。

鮭をくわえた定番のものから、寝そべっているもの、空を見上げているものまで、どれも表情が違う。


彼女はしばらく迷った後、棚の隅にいた1体の熊を選び、そっと両手で抱き上げた。それは、他の熊よりも少し大きな耳を持ち、地面にじっと耳を澄ませるような姿勢をした、少し変わった木彫りの熊だった。


彼女は1人掛けのローソファーに腰を下ろし、選んだ熊を目の前のサイドテーブルに置いた。そして、トートバッグから丁寧に取り出したのは、一つのコースター、重厚なグラス、そして、飾らない佇まいの小さなステンレス製の保冷ボトルだった。


コースターは、使い込まれて深い艶を帯びた、上質な本漆塗りの木製のものだった。彼女はそれをテーブルにそっと置き、その上に、底が深く、繊細なカットが光を反射してきらめく、見るからに高級なウイスキーグラスを載せた。


保冷ボトルのキャップを外すと、トクトクトクと無色透明な液体がグラスに注がれる。最後にボトルを少し傾けると、コロン、と大きな四角い氷がひとつ、グラスの底に滑り落ち、涼やかな音を立てた。


飲食物の持ち込みが自由のヨルクマには、缶ビールやペットボトルを持ち込む客はよくいる。けれど、こうしてグラスやコースターまで自前で用意し、まるで一流のバーのようなしつらえを自ら整える客は珍しかった。


私は6畳間の特等席から、過度な干渉はせず、ただ静かに彼女の気配を観察することにした。


1時間が過ぎ、2時間が経過しようとしていた。時間を気にしなくていいこの空間で、彼女は急ぐ様子もなく、ただ静かに佇んでいる。

バスが通り過ぎる音と、時折聞こえる潮騒 だけが店内に流れる。


その間、彼女は一口もグラスに口を付けなかった。ただじっと、地面に耳を澄ます熊を見つめている。


私はふと、ある異変に気づいた。

5月の夜とはいえ、店内の室温は20℃前後に保たれている。それなのに、彼女のテーブルにあるグラスの結露が、一向にコースターへ垂れていかない。それどころか、中に浮いている大きな四角い氷が、最初に入ってきた時と全く同じ形を保っているように見えた。


普通なら、2時間も放置すれば氷はすっかり溶け、液体と混ざり合っているはずだ。しかし、その氷はまるで時間が凍りついたかのように、角を尖らせたまま、美しいカットグラスの中で静かに佇んでいる。


「……ふぅ」


彼女が小さく、深い溜め息をついた。

その音に反応したのか、私の足元で寝ていたこまるが、のそりと立ち上がった。こまるはトコトコと土間に歩み出ていき、彼女のソファーの横で、お辞儀をするようにして再び丸くなった。邪魔をしない程度に、けれど「ここにいるよ」と伝えるような絶妙な距離感。


彼女は驚いたように目を見張ったが、すぐに優しい目でこまるを見つめ、その頭をそっと撫でた。


「お利口ね。あなた、お名前は?」

彼女の呟きは、私に向けられたものではなかったが、私は6畳間からそっと声をかけた。


「『こまる』と言います。聞き上手なんですよ」


彼女は驚いて振り返り、それから申し訳なさそうに微笑んだ。

「あら、すみません。静かにしなきゃいけないのに」


「いえ、うちは『店長との会話0円』という裏メニューもありましてね。もしよければ、炭酸水でもいかがですか。料金は結構ですので」


私は冷蔵庫から冷えた炭酸水の瓶を取り出し、土間へと歩き出た。彼女のテーブルに近づき、グラスを覗き込む。やはり、氷は1ミリも溶けていなかった。


「ありがとうございます。……不思議に思われるでしょう、この氷。それに、このグラスも」

彼女は愛おしそうに、繊細なカットグラスの縁に指を這わせた。


「最近、夫を亡くしましてね。このグラスとコースターは、あの人が特別な夜にしか使わなかった、本当にお気に入りのものなんです。普段は食器棚の奥の奥に大切にしまって、私にも絶対に触らせてくれなかった。頑固で、こだわりが強くて、自分の世界を頑なに守るような人でした。これは、そんなあの人が生前、最後に自分で製氷皿に入れて作った氷なんです。あの日からもう2週間が経つのに、どうしても溶けないのよ」


私は彼女の正面にあるカウンター席に腰掛けた。

不条理な話だった。科学的にはあり得ない。しかし、三崎の港町にひっそりと佇むこのヨルクマでは、時折、理屈の通らないことが起きる。

私はそれを否定せず、ただ受け入れることにしている。


「旦那様は、どんな方だったんですか?」


私が尋ねると、彼女は目の前の『耳を澄ます熊』の頭を優しく撫でながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「本当に、自分の意見を絶対に曲げない人でした。私が何を言っても、ふん、と鼻で笑って、まともに話を聞いてくれないの。定年退職してからは特にひどくて、毎日小さなことで口喧嘩ばかり。このグラスだって、私が少しでも触ろうとすると『割れたらどうするんだ』って怒るんです。もっと私の話を聞いてよ、私の存在をちゃんと認めてよって、いつもイライラしていました」


彼女の目に、うっすらと涙が浮かぶ。


「それなのに、ある日突然、心臓の発作で逝ってしまって。お葬式が終わって、静かになった家でこの氷を見つけた時、なんだか無性に腹が立ってね。『あなた、死んでからもそんなに頑固なの? 私をのけ者にして、自分のお気に入りの場所に閉じこもっているつもり?』って。だから、あの人が誰にも触らせなかったお気に入りのグラスに氷を注いで、誰にも邪魔されないこの場所に持ってきました。今度こそ私の目の前で溶かして、思い出を終わりにしようと思ったんです。でも……溶けないの。まるであの人が、まだそこにいて、私の話を突っぱねているみたいで」


彼女はグラスを見つめた。

四角い氷は、相変わらず冷然と、美しいカットの向こう側で存在している。


「でもね」と、彼女は続けた。「ここに来て、このお耳の大きな熊さんを見つけて、お隣にこまるちゃんが来てくれたら、なんだか不思議と、愚痴じゃなくて、別のことを思い出しちゃって」


「別のこと、ですか」


「ええ。あの人、口数は少なかったけれど、私が風邪を引いた時は、黙って枕元にスポーツドリンクを置いてくれる人でした。私がパートで失敗して落ち込んでいた夜は、何も言わずに、私が好きな三崎のマグロのお寿司を買ってきてくれた。……このグラスにしても、実はね、結婚して初めての記念日に、あの人がなけなしのお給料で、ペアで買ったものだったんです。でも、私が不注意で一つ割ってしまってからは、あの人は自分のものも戸棚にしまって、使わなくなってしまった。……割れたら怒るんじゃなくて、私との思い出の品だからこそ、傷つけたくなくて、触らせたくなかったんだろうなって……」


彼女は言葉を詰まらせ、涙を流した。


「ごめんね、もっと一緒にいたかった。もっとあなたの優しさに、耳を傾けてあげればよかった。ごめんね……」


彼女がそう言った瞬間だった。


天井の星空イルミネーションが、一瞬、瞬いた。

そして、彼女が選んだ「耳を澄ます熊」が、まるで重い溜め息を吐くように、ゆっくりと、しかし確実に、その大きな耳を彼女の方へと傾けた。


動かないはずの木彫りの熊が、静かに彼女の言葉を肯定したようだった。


そして。


――パキン


静まり返った店内に、硬く、澄んだ音が響いた。


見ると、グラスの中の頑固な四角い氷が、中央から完璧な十字に割れ、そこから光が溢れるように見えた。


光が収まると、氷は跡形もなく溶けていた。

グラスに入った透明な液体は、いつの間にか琥珀色に輝いている。


結露の水滴が、一滴、また一滴と本漆塗りのコースターに落ちる。


彼女は呆然とグラスを見つめ、それから、子供のようにぽろろと涙を流した。それは悲しい涙ではなく、張り詰めていた心の糸が、解けたような、温かい涙だった。

彼女はグラスを手に取り、その香りを嗅ぐ。


「これ、あの人の……」


それは、亡き夫が宝物にしていた、ヴィンテージ・ウイスキーの、芳醇でスモーキーな香りだった。


彼女は震える声で店主に言い、グラスの中の液体を一口飲んだ。

ウイスキーのコクと、上質な水が、彼女の口の中で完璧に溶け合っている。


「美味しい……。あの人、こんな美味しいものを隠してたのね」


彼女は微笑み、再び涙を流した。

彼女の心は、罪悪感から解放され、彼と一緒にいるような感覚に包まれていた。


こまるは静かに彼女の足元に顎を乗せ、その涙が止まるのを一緒に待っていた。


「……すっかり、遅くなってしまいましたね」


しばらくして、彼女はハンカチで目元を拭き、スッキリとした、晴れやかな笑顔で立ち上がった。


「いえ。良い夜でした」


私は炭酸水の瓶を片付けながら静かにそう言った。

彼女は『耳を澄ます熊』を丁寧に元の棚へと戻し、こまるの頭をもう一度撫でてから、店の引き戸へと向かった。


「ありがとうございました。今度は、お昼にもお邪魔させていただきますね」

「ええ、いつでもお待ちしています」


カラカラと引き戸が閉まり、彼女の足音が三崎の夜風の中に消えていく。


私は棚に戻された熊を見た。その大きな耳は、心なしか先ほどよりも少し柔らかい表情で、夜の静寂を聞いているように見えた。足元では、こまるが満足したように、丸くなって眠りについていた。


……。




いかがでしたでしょうか。

旦那様の残した「溶けない氷」は、きっと、お互いの不器用な想いが形になったものだったのかもしれませんね。


奥様が心からの感謝と、旦那様の本当の優しさに気づき、そして彼の「ここぞ」という特別な夜の願いが、ヨルクマの奇跡によって叶えられた時、氷は役目を終えたように、そして新たな思い出を生み出すように、劇的に溶けていきました。


ヨルクマの熊たち、そして柴犬のこまるは、いつでもあなたの言葉にできない想いを静かに待っています。


日常に少し疲れた夜は、どうぞ三崎のヨルクマへ、温かいお荷物を置きにいらしてくださいね。それでは、また次のお話でお会いしましょう。

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