表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/25

第十七話:嘘つきな辞書

穏やかな潮風が、古い木造の引き戸をがたごとと揺らす午後。神奈川県三浦市三崎、日ノ出バス停のすぐそばにあるフリースペース「キボクマ」には、今日も静かで、少しだけ不思議な時間が流れています。


今回お届けするのは、人生の道標を見失いかけた一人の女性と、不器用なポーズで立ち尽くす木彫りの熊、そして新しくキボクマの家族になった柴犬「こまる」が織りなす、小さなお話です。どうぞ、お気に入りの温かい飲み物でも片手に、のんびりとお楽しみください。

……。

5月の三崎は、どこを切っても潮の匂いがした。

日ノ出バス停に路線バスが止まり、ぷしゅーっと空気を抜く音が聞こえる。バタバタと何人かが降り、また静寂が戻る。


私――49歳、短髪にメガネ、年中ユニクロのチノパンにスニーカーという、これといった特徴のないおじさん――は、築50年の古民家の奥にある6畳間に寝転がり、文庫本を眺めていた。


ここはフリースペース「キボクマ」。

受付はない。入り口にぽつんと置かれた木箱に、大人1時間500円の料金をセルフサービスで入れてもらうシステムだ。


カラン


500円玉が小気味いい音を立てて料金箱に落ちた。

引き戸を開けて入ってきたのは、リクルートスーツに身を包んだ若い女性だった。就職活動の最中なのだろう。黒い髪を後ろで一つに結び、大きなトートバッグを重そうに抱えている。その表情は、今にもすり減って消えてしまいそうなほど疲れ切っていた。


彼女は土間を見渡し、壁際にずらりと並んだ100体の木彫りの熊たちに目を留めた。

キボクマの、というか、私の唯一の趣味。日本全国から集めた、形も大きさもバラバラな木彫りの熊たちだ。


彼女は迷うことなく、棚の最下段の隅っこにいた、一体の熊を選んだ。

その熊は、100体の中でもとりわけ珍しい、二本足で立つ『立ち熊』だった。

多くの熊が四つ足で走るようにして佇んでいる中、それだけが不格好にすっくと立ち上がり、両前足をぽかんと前に突き出していた。

何かを欲しがっているようでもあり、何かを諦めて万歳しているようでもある、なんとも愛嬌のあるポーズだ。鮭を抱えるでもなく、ただ空っぽの両手を前に差し出している姿は、どこか不器用で、けれど放っておけない愛らしさがあった。


彼女は、1人掛けのローソファーにその立ち熊を寄りかからせるようにして置き、自分は隣の椅子に腰掛けた。

すると、入り口の横に敷いたクッションの上で丸くなっていた柴犬の「こまる」が、むくりと起き上がった。少し高齢で小ぶりな柴犬。

いつも眉間にシワを寄せたような「困り顔」をしているから、こまる。


こまるはトコトコと土間を歩き、彼女の足元へ行った。そして、邪魔にならないよう静かに、彼女のパンプスを履いた足の上に、ちょこんと顎を乗せた。


「あ……」


彼女は小さく声を漏らしたが、こまるを退けようとはしなかった。ただ、その少し温かい重みを受け入れるように、ふっと肩の力を抜いた。


彼女はバッグから、一冊の分厚い本を取り出した。

それは、随分と使い込まれた、表紙の擦り切れた国語辞典だった。


彼女はページをめくった。何か特定の言葉を探しているようだったが、その指先がピタリと止まる。


「え……?」


怪訝な声が土間に響いた。

彼女は何度も目をこすり、それから別のページをめくった。めくるたびに、彼女の眉のしわが深くなっていく。


「あの……すみません」


細い声が、奥の6畳間に届いた。

キボクマのメニューには、夜の「ヨルクマ」同様、『店長との会話:0円』という、お節介な項目がある。呼ばれたら行くのが、この場所の数少ないルールだ。


私はヨレたシャツの襟を直しながら、土間へ出た。


「はい、何でしょう」


彼女は涙目をしながら、開いた辞書を私に突き出した。


「これ、見ていただけますか? 私の頭がおかしくなっちゃったみたいで……」


彼女が指さした単語は『面接』だった。

通常の辞書なら「人物の性質、能力などを知るために直接会って話合をすること」とあるはずだ。しかし、活字で印刷されているはずのそのページには、こう書かれていた。


【面接】

見ず知らずの大人が、あなたの価値を値踏みする風変わりな儀式。ただし、そこで不合格をもらったとしても、あなたの人間としての輝きが1ミリも減ることはない。ただ「席が足りなかっただけ」である。


「……ほう」


私はメガネを押し上げた。


「次、これもなんです」


彼女がめくったページには、『不採用』とあった。


【不採用】

「ここではあなたの良さを活かしきれません、ごめんなさい」という企業側の敗北宣言。落ち込む必要は全くない。もっと美味しいご飯を食べて、今日は寝なさい。


「変ですよね? 国語辞典なのに、こんなこと書いてあるはずないのに。私、不採用通知が5社連続で届いて、すっかり気持ちが落ち込んじゃって、幻覚が見えてるんでしょうか」


彼女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

足元では、こまるが「ふぅ」と静かに息を吐き、さらに体重を預けて彼女を支えている。


私は、彼女の隣でぽかんと手を広げている木彫りの立ち熊を見た。

気のせいか、その熊の顔が、少しだけ誇らしげに見えた。この古い家では、たまに言葉やモノが、客の心に寄り添うように形を変えることがある。それを不条理と呼ぶか、奇跡と呼ぶかは、大した問題ではない。


「三崎の潮風は……」


私は穏やかに言った。


「たまに、本の文字を狂わせるんですよ。特に、頑張りすぎて心がすり減っている人の前では、おしゃべりになるみたいです」

「潮風の、せい……ですか?」

「ええ。その辞書が、ちょっとだけ、あなたに優しい嘘をつきたい気分なんでしょう」


彼女は呆然とした後、プッと吹き出し、それから泣きながら笑った。


「嘘つきな辞書ですね……。でも、ちょっと安心しました」


彼女はハンカチで涙を拭い、こまるの頭を優しく撫でた。こまるは満足そうに目を細めている。


それから1時間ほど, 彼女は辞書の「優しい嘘」を熱心に読み耽っていた。

時折、隣の不器用な立ち熊に「あなたも大変ね」と話しかけたりしながら。


日が傾きかけた頃、彼女は立ち上がった。

来た時よりも、心なしか背筋が伸びているように見えた。


「ありがとうございました。お騒がせしました」

「いいえ。またいつでも、風に当たりに来てください」


彼女がガラガラと引き戸を開けて出ていく。日ノ出バス停に、ちょうど三崎口駅行きのバスが滑り込んでくるのが見えた。


私は彼女が座っていた席を片付けようとして、足を止めた。

ソファーの上、立ち熊の、ぽかんと開いた木の前足の間。


そこに、ぽつんと、イチゴ味の飴玉がひとつ、大切そうに置かれていた。まるで、その空っぽの両手で、そっと受け取ったかのように。


「……お家賃かね」


私が呟くと、立ち熊は気のせいか、嬉そうにほんの少しだけ、首を傾げたような気がした。


……。


いかがでしたでしょうか。

就職活動という荒波の中で、自分を見失いそうになっていた彼女。でも、キボクマの潮風と、不器用な立ち熊、そして「こまる」のぬくもりが、彼女の心を少しだけ柔らかく解きほぐしてくれたようです。


もしあなたも、自分の進む道に迷ったり、言葉に傷ついたりしたときは、どうぞ三崎の「キボクマ」を探してみてください。ぽかんと両手を広げた立ち熊が、あなたの訪れを待っているかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ