第十七話:嘘つきな辞書
穏やかな潮風が、古い木造の引き戸をがたごとと揺らす午後。神奈川県三浦市三崎、日ノ出バス停のすぐそばにあるフリースペース「キボクマ」には、今日も静かで、少しだけ不思議な時間が流れています。
今回お届けするのは、人生の道標を見失いかけた一人の女性と、不器用なポーズで立ち尽くす木彫りの熊、そして新しくキボクマの家族になった柴犬「こまる」が織りなす、小さなお話です。どうぞ、お気に入りの温かい飲み物でも片手に、のんびりとお楽しみください。
……。
5月の三崎は、どこを切っても潮の匂いがした。
日ノ出バス停に路線バスが止まり、ぷしゅーっと空気を抜く音が聞こえる。バタバタと何人かが降り、また静寂が戻る。
私――49歳、短髪にメガネ、年中ユニクロのチノパンにスニーカーという、これといった特徴のないおじさん――は、築50年の古民家の奥にある6畳間に寝転がり、文庫本を眺めていた。
ここはフリースペース「キボクマ」。
受付はない。入り口にぽつんと置かれた木箱に、大人1時間500円の料金をセルフサービスで入れてもらうシステムだ。
カラン
500円玉が小気味いい音を立てて料金箱に落ちた。
引き戸を開けて入ってきたのは、リクルートスーツに身を包んだ若い女性だった。就職活動の最中なのだろう。黒い髪を後ろで一つに結び、大きなトートバッグを重そうに抱えている。その表情は、今にもすり減って消えてしまいそうなほど疲れ切っていた。
彼女は土間を見渡し、壁際にずらりと並んだ100体の木彫りの熊たちに目を留めた。
キボクマの、というか、私の唯一の趣味。日本全国から集めた、形も大きさもバラバラな木彫りの熊たちだ。
彼女は迷うことなく、棚の最下段の隅っこにいた、一体の熊を選んだ。
その熊は、100体の中でもとりわけ珍しい、二本足で立つ『立ち熊』だった。
多くの熊が四つ足で走るようにして佇んでいる中、それだけが不格好にすっくと立ち上がり、両前足をぽかんと前に突き出していた。
何かを欲しがっているようでもあり、何かを諦めて万歳しているようでもある、なんとも愛嬌のあるポーズだ。鮭を抱えるでもなく、ただ空っぽの両手を前に差し出している姿は、どこか不器用で、けれど放っておけない愛らしさがあった。
彼女は、1人掛けのローソファーにその立ち熊を寄りかからせるようにして置き、自分は隣の椅子に腰掛けた。
すると、入り口の横に敷いたクッションの上で丸くなっていた柴犬の「こまる」が、むくりと起き上がった。少し高齢で小ぶりな柴犬。
いつも眉間にシワを寄せたような「困り顔」をしているから、こまる。
こまるはトコトコと土間を歩き、彼女の足元へ行った。そして、邪魔にならないよう静かに、彼女のパンプスを履いた足の上に、ちょこんと顎を乗せた。
「あ……」
彼女は小さく声を漏らしたが、こまるを退けようとはしなかった。ただ、その少し温かい重みを受け入れるように、ふっと肩の力を抜いた。
彼女はバッグから、一冊の分厚い本を取り出した。
それは、随分と使い込まれた、表紙の擦り切れた国語辞典だった。
彼女はページをめくった。何か特定の言葉を探しているようだったが、その指先がピタリと止まる。
「え……?」
怪訝な声が土間に響いた。
彼女は何度も目をこすり、それから別のページをめくった。めくるたびに、彼女の眉のしわが深くなっていく。
「あの……すみません」
細い声が、奥の6畳間に届いた。
キボクマのメニューには、夜の「ヨルクマ」同様、『店長との会話:0円』という、お節介な項目がある。呼ばれたら行くのが、この場所の数少ないルールだ。
私はヨレたシャツの襟を直しながら、土間へ出た。
「はい、何でしょう」
彼女は涙目をしながら、開いた辞書を私に突き出した。
「これ、見ていただけますか? 私の頭がおかしくなっちゃったみたいで……」
彼女が指さした単語は『面接』だった。
通常の辞書なら「人物の性質、能力などを知るために直接会って話合をすること」とあるはずだ。しかし、活字で印刷されているはずのそのページには、こう書かれていた。
【面接】
見ず知らずの大人が、あなたの価値を値踏みする風変わりな儀式。ただし、そこで不合格をもらったとしても、あなたの人間としての輝きが1ミリも減ることはない。ただ「席が足りなかっただけ」である。
「……ほう」
私はメガネを押し上げた。
「次、これもなんです」
彼女がめくったページには、『不採用』とあった。
【不採用】
「ここではあなたの良さを活かしきれません、ごめんなさい」という企業側の敗北宣言。落ち込む必要は全くない。もっと美味しいご飯を食べて、今日は寝なさい。
「変ですよね? 国語辞典なのに、こんなこと書いてあるはずないのに。私、不採用通知が5社連続で届いて、すっかり気持ちが落ち込んじゃって、幻覚が見えてるんでしょうか」
彼女の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
足元では、こまるが「ふぅ」と静かに息を吐き、さらに体重を預けて彼女を支えている。
私は、彼女の隣でぽかんと手を広げている木彫りの立ち熊を見た。
気のせいか、その熊の顔が、少しだけ誇らしげに見えた。この古い家では、たまに言葉やモノが、客の心に寄り添うように形を変えることがある。それを不条理と呼ぶか、奇跡と呼ぶかは、大した問題ではない。
「三崎の潮風は……」
私は穏やかに言った。
「たまに、本の文字を狂わせるんですよ。特に、頑張りすぎて心がすり減っている人の前では、おしゃべりになるみたいです」
「潮風の、せい……ですか?」
「ええ。その辞書が、ちょっとだけ、あなたに優しい嘘をつきたい気分なんでしょう」
彼女は呆然とした後、プッと吹き出し、それから泣きながら笑った。
「嘘つきな辞書ですね……。でも、ちょっと安心しました」
彼女はハンカチで涙を拭い、こまるの頭を優しく撫でた。こまるは満足そうに目を細めている。
それから1時間ほど, 彼女は辞書の「優しい嘘」を熱心に読み耽っていた。
時折、隣の不器用な立ち熊に「あなたも大変ね」と話しかけたりしながら。
日が傾きかけた頃、彼女は立ち上がった。
来た時よりも、心なしか背筋が伸びているように見えた。
「ありがとうございました。お騒がせしました」
「いいえ。またいつでも、風に当たりに来てください」
彼女がガラガラと引き戸を開けて出ていく。日ノ出バス停に、ちょうど三崎口駅行きのバスが滑り込んでくるのが見えた。
私は彼女が座っていた席を片付けようとして、足を止めた。
ソファーの上、立ち熊の、ぽかんと開いた木の前足の間。
そこに、ぽつんと、イチゴ味の飴玉がひとつ、大切そうに置かれていた。まるで、その空っぽの両手で、そっと受け取ったかのように。
「……お家賃かね」
私が呟くと、立ち熊は気のせいか、嬉そうにほんの少しだけ、首を傾げたような気がした。
……。
いかがでしたでしょうか。
就職活動という荒波の中で、自分を見失いそうになっていた彼女。でも、キボクマの潮風と、不器用な立ち熊、そして「こまる」のぬくもりが、彼女の心を少しだけ柔らかく解きほぐしてくれたようです。
もしあなたも、自分の進む道に迷ったり、言葉に傷ついたりしたときは、どうぞ三崎の「キボクマ」を探してみてください。ぽかんと両手を広げた立ち熊が、あなたの訪れを待っているかもしれません。




