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キボクマ  〜100体の熊と、普通のおじさんの静かな時間〜  作者: 一 十


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13/15

第十三話:ほどけた三十年

神奈川県三浦市三崎。潮風が錆びついたシャッターを撫で、京急バスのエンジン音が日常の通奏低音として流れるこの町に、フリースペース「キボクマ」はあります。


店主の「私」は、100体の木彫りの熊たち、そして密かなコレクションである11個の「飾り駒」とともに、訪れる人々の心の揺れを静かに見守っています。最近では、ここに新しく加わった柴犬の「こまる」も、この静かな時間の番人のひとりです。


今回は、大きな「馬」の文字が左右逆に刻まれた飾り駒が、30年の節目に立ち止まったひとりの女性の、震えるような葛藤に寄り添うお話です。

……。

三崎の午後は、時間が溶け出しているかのように穏やかだ。

15時を回ると、日の出バス停に停まるバスの「プシュー」という排気音が、築50年の古民家の土間に、どこか頼りなく響き渡る。


私はいつものように、土間の奥にある6畳間に身を潜めていた。足元では、最近この店に居着くようになった柴犬の「こまる」が、古い座布団の上で丸くなって寝息を立てている。私はこまるの背中にそっと手を置き、古い文庫本を捲っていた。


ここからは、10畳ほどの土間と、そこに並ぶ100体の木彫りの熊たちがよく見える。受付はない。入り口に置かれた料金箱に、客が自ら「大人1時間500円」を投入する。それがこの場所のルールだ。


今日の客は、私より少し年上だろうか。50代半ばと思われる、清潔感のある紺色のコートを着た女性だった。

彼女が料金箱に500円玉を落とした時、その指先がわずかに震えているのが見えた。カラン、という硬い音が土間に響き、彼女はしばらくその場に立ち尽くしていた。こまるが、ふと顔を上げて鼻をひくつかせたが、吠えることはなく、またゆっくりと目を閉じた。


彼女は、100体もある木彫りの熊たちには目もくれず、棚の一角に並んだ私の趣味のコレクション――11個の「飾り駒」の前で足を止めた。

その背中は、何か重い甲冑を無理やり脱がされたあとのように、痛々しいほど丸まっていた。


彼女は、その中から10センチほどの厚みがある、ツヤの美しい飾り駒を手に取った。

それは「左馬ひだりうま」と呼ばれるものだった。「馬」の字が左右反転して彫られており、逆から読むと「まう」になることからおめでたい「舞」を連想させ、また「馬に人が引き寄せられる」として千客万来や人生の転機に縁起が良いとされる駒だ。


彼女は壁に向かうカウンター席に座ると、その左馬を自分の正面、わずか数十センチの距離に置いた。まるで、自分を映す鏡にでもするかのように。


「……これ、私みたい」


消え入りそうな声だった。私は6畳間から立ち上がり、サンダルを鳴らして土間へ出た。こまるも「よっこらしょ」という風に身を起こし、私の後ろをてくてくとついてくる。


「それは『左馬』ですね。三崎の古い商家から譲ってもらったものです。何か、お悩みでも?」


私はつかず離れずの距離、少し離れた上り框に腰掛けて問いかけた。こまるは彼女の足元まで行くと、その靴先に一度だけ鼻を寄せ、安心させるように彼女の隣で座り込んだ。

彼女は、左馬の「馬」という文字の彫り跡を、細い指先で何度も、何度もなぞった。


「私、今日、30年勤めた会社に辞表を出してきたんです。……あんなに必死に、脇目も振らずに走ってきたのに、最後はこんなに、あっけないものなのね」


彼女の言葉には、長い年月をかけて蓄積された疲弊と、それ以上に深い「空虚さ」が混じっていた。


「ずっと、馬車馬のように働いてきました。止まったら終わりだと思っていた。止まったら、私が私じゃなくなるような気がして。底なしの不安に襲われて、いざ止まって見たら……自分がどこを向いて歩けばいいのか、全くわからなくなってしまったんです」


彼女の瞳から、一滴の涙が溢れ、カウンターに置かれた左馬の駒の上に落ちた。


「会社に残った方が良かったのかもしれない。もっと耐えられたはずじゃないか。自分は逃げただけじゃないのか。……さっきから、そんな声ばかりが頭の中で鳴り止まないんです」


30年という歳月は、人のアイデンティティを組織の一部に変えてしまうには十分すぎる時間だ。その絆を自ら断ち切った彼女の葛藤は、他人には推し量れないほど重い。


「逆を向いて歩くのは、前を向いて走るよりずっと勇気がいりますよ」


私は、近くにいた鮭を抱えた木彫りの熊を、彼女の隣にそっと移動させた。こまるがふいに「クゥ」と短く鳴いた。

その時だった。

置かれたはずの左馬が、カタ、と小さな音を立てた。


誰が触れたわけでもない。

しかし、その10センチの厚い木の塊が、彼女の涙を吸い込むようにして、ほんのわずかだけ、彼女の方へ身を乗り出したように見えた。


「え……?」


彼女が目を見開く。

左馬の駒は、夕刻の光を浴びて、じんわりと赤みを帯びていた。まるで、冷え切った彼女の心を温めるために、自ら熱を発しているかのように。


棚に並んだ他の10個の駒たちも、共鳴するように微かな光を放っている。


「逃げたんじゃないですよ。あなたは、ただ『左馬』になっただけだ。これからは、誰かに乗られる馬ではなく、自分で行き先を決め、人を招き入れる側になればいい」


私の言葉が届いたのか、それとも左馬の不思議な力が作用したのか。

彼女はもう一度、駒の文字をなぞった。今度はその指先に、迷いはなかった。こまるは、彼女の手のひらに自分の頭をそっと押し当てた。


不条理だ. 物理法則の向こう側にある、静かな幻想。

しかし、三崎の潮風の中では、こんな不思議なことも「日常」の一部として溶け込んでしまう。


やがて、遠くで船の汽笛が鳴った。

彼女は、左馬の駒をそっと両手で包み込んだ。その手のひらには、もう震えはなかった。


「……温かい。生きているみたいに、温かいですね」


彼女はそう言うと、初めて、ふわりと柔らかく微笑んだ。30年分の重荷を、三崎の海へと静かに放り出したような、清々しい笑顔だった。


彼女は席を立ち、左馬を元の棚へ、大切な宝物を扱うように戻した。そして最後に、足元のこまるの頭を優しく撫でた。


「店主さん、私……少し、三崎の海を見てから帰ります。これからは、ゆっくり、逆を向いて歩いてみますね」


彼女が店を出ていく後ろ姿は、最初に見かけた時よりもずっと大きく、そこで自由に見えた。

私は棚に戻された左馬を手に取ってみた。

木肌は冷たく、何の変哲もない、ただの重い木の塊に戻っていた。


100体の熊と、11個の飾り駒、さらに一匹の柴犬。

彼らは今日も、私の6畳間から見える風景の中で、迷える誰かの「立ち止まる瞬間」を待っている。


「……さて、俺たちもそろそろ、夕飯の支度でもするか」


私はこまるの頭を軽く撫で、冷え切った缶コーヒーを一口飲んだ。三崎の空は、彼女の未来を祝福するように、見事な黄金色に染まっていた。


……。


必死に走り続けている時は、自分がどんな顔をして、どちらを向いているかさえ分からなくなるものです。

立ち止まることは、後退ではありません。

それは、自分の本当の心の向きを確認するための、贅沢な時間なのです。


もし、あなたが「もう走れない」と自分を責めたくなったら、どうぞ三崎の「キボクマ」へお越しください。

「左馬」と、寡黙な熊たち、さらに小さな相棒のこまるが、あなたのその決断を、何よりの正解として受け入れてくれるはずですから。


次のお話もお楽しみに。

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