第十二話:珍客現る
三浦半島、潮騒が心地よい三崎の町。
バス停「日の出」のすぐそばに、ひっそりと佇む古民家があります。
そこは、時計の針が少しだけゆっくり回る場所。
100体の木彫りの熊たちと、つかみどころのない店主が待つフリースペース「キボクマ」に、今日は少し変わった「迷子」がやってきたようです。
それは、言葉を持たない、けれど誰よりも雄弁な瞳をした小さなお客さまでした。
……。
三崎の朝は、バスの排気音と、遠くで鳴くカモメの声から始まる。
築50年の古民家「キボクマ」の店主である私は、いつものようにユニクロのチノパンにサンダルを引っ掛け、土間の掃き掃除をしていた。
1階の土間は10畳ほどの広さがあり、そこには10杯のコーヒーを飲むより長く座っていたくなるような、低いソファーとカウンターがある。そして壁際の棚には、私の趣味で集めた100体の木彫りの熊たちが、それぞれの表情で鎮座している。
ここは、1時間500円で「何もしないこと」を買う場所だ。
「……おや」
竹箒を動かす手を止めると、入り口の開け放たれた土間の隅に、影がひとつ落ちていた。
それは1匹の柴犬だった。
少し高齢なのだろう、口の周りが白く、体つきも9キロ程度の小ぶりな個体だ。
首輪はついているが、リードの先には何も繋がっていない。犬は困ったように眉根を寄せ、申し訳なさそうにこちらを見上げていた。
「いらっしゃい。……いや、客でいいのか?」
私が声をかけると、柴犬はトテトテと土間へ上がり、1人掛けのローソファーの横に座り込んだ。そこには、鮭を背負った大ぶりな木彫りの熊が置かれている。
犬は慣れた様子で、その熊の鼻先を「ツン」と自分の鼻で突いた。まるで「隣、失礼しますよ」と挨拶でもしているかのように。
2. 届いた知らせ
その柴犬は、それから毎日やってくるようになった。
開店と同時に現れ、いつものソファーの横で夕方まで過ごす。
不思議なことに、受付に置いてある料金箱には、毎日きっちり500円玉が1枚入っている。誰かが代わりに払っているのか、あるいは……。
3日目の朝、土間を掃いていると、ゴミ出し帰りのおばちゃんが土間の隅にいる柴犬に気づき、ふと足を止めた。
「あら、あの犬……」
「知り合いですか」
私が手を止めると、おばちゃんは少し寂しそうに目を細めた。
「先週亡くなった、あそこのお爺さんの犬じゃないかしら。お葬式の時に逃げ出したって聞いたけど……。ここ、よく散歩で通ってたから、探しに来たのかもしれないわね」
おばちゃんはそれだけ言うと、軽く手を振って去っていった。
私は土間の奥、ちょこんと座る犬を見た。
犬は、いつまで経っても現れない「散歩の相棒」を、この100体の熊たちに囲まれた静寂の中で、今も待ち続けているのだろうか。
不条理な話だ。尽くした愛情の行き先が、消えてしまった場所を彷徨い続けることだなんて。
ふと見ると、犬の隣に置かれた「鮭背負い熊」が、心なしかいつもより少しだけ、犬の方へ身を乗り出しているように見えた。
100体の木彫りの熊たちは、普段から気づかない程度に動くことがある。頷いたり、首を傾げたり。
今の熊たちの表情は、どこかその犬を労っているようでもあり、同時に「俺たちの縄張りを荒らすなよ」と牽制しているようでもあった。木彫りの熊たちにとっても、この生身の侵入者は刺激が強すぎるのかもしれない。
「おい、あんまり近づくと齧られるぞ」
私が熊に釘を刺すと、熊は心外そうにほんの少しだけ首を横に振った……気がした。
3. 不条理な共同生活
一週間が過ぎた。
今朝の三崎は、潮風が少しだけ冷たい。
柴犬の毛並みは少し汚れ、その瞳には隠しきれない疲労が滲んでいた。どこかから話を聞きつけた親戚が引き取ろうと動いているようだが、柴犬という生き物は思ったより頑固なもので、犬は無理やり連れて行こうとすれば噛みつこうとするし、テコでもここを動こうとしない。その意外な頑固さに、引き取りもなかなかに難しいようだった。
ある朝、激しい雨が三崎の町を叩きつけていた。
開店準備のために引き戸を開けると、入り口の軒下で、ずぶ濡れになった柴犬が丸まって震えていた。
もう、どこかへ帰る気力も残っていないようだった。
私はため息をつき、奥の6畳間から使い古しのバスタオルを引っ張り出してきた。ずぶ濡れの体を包み込むようにして抱き上げる。
「……おい。そんなところで丸まってたら、風邪ひくぞ」
奥の部屋へ運び、バスタオルで犬を拭いてから、適当な皿に水を入れた。
「しばらくはここで預かってやる。だが、お前は本来あのお爺さんの犬なんだ。いつかは家に帰ることも考えろよ。……それから、熊たちを齧ったら即刻退場だからな」
その私の宣言を待っていたかのように、100体の熊たちが一斉に「カタッ」と音を立てた。
驚いて振り返ると、彼らはまるでお祝いでもするかのように、あるいは「よろしく頼む」と頭を下げているかのように、一斉にこちらを向いていた。
中には、自慢の鼻を齧られるのを心配してか、棚の奥に少しだけ身を隠した臆病な熊もいたが。
柴犬は、濡れた鼻先で私のサンダルの先をツンと突いた。
あの日、木彫りの熊にしたのと同じ挨拶だ。
この不条理で、少しだけ静かな三崎の日常に、新しい住人が加わった。
私は、冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードに、これからのルーチンを書き加える。
掃除、熊の埃取り、そして、犬の散歩。
「名前がないのも不便だな」
少し高齢で、どこか困ったような顔をした、9キロの新しい相棒。
私は、彼の眉間の皺を指先でなぞり、ふっと笑った。
「よし、とりあえずお前は今日から『こまる』だ」
こまるは、声を出さずにただ一度だけ深く頷いた。100体の木彫りの熊たちが醸し出す静寂の中に、たった一つ、温かな鼓動が加わった瞬間だった。彼はそのまま、キボクマの土間に深く腰を下ろした。
……。
いかがでしたでしょうか。
三崎の古い家で始まった、一人と一匹と100体の不思議な共同生活。
「こまる」という名前をもらった彼が、これからどんな風に熊たちと打ち解けているのか。店主のフツーの日々が、ほんの少しだけ賑やかになりそうですね。
三崎の風に乗って聞こえてくる、静かな足音。
もしあなたが道に迷ったら、日の出バス停の近くを探してみてください。
きっと、優しい木の香りと、少し困り顔の柴犬が迎えてくれるはずですよ。




