未来シコウのチートデータガール 70
箱の表面の向こうの世界が見えていた。
そこでは死が百花に迫っていた。
黒猫メアの魔力が増して。
白猫ヘルの体が大きくなって。
太っちょホプレスの輪郭がおぼろに広がって。
三匹の両目が開かれて。おどろおどろと輝いて。
「こらっ。やめるんだ! 待ってってば!」
声を上げるが、届かない。
メアの体は美しい毛並み。足は六本。尻尾はふさりと三本。既に百花の背丈を超えた。
ヘルの体は血の滴る白。骨の組み合わせで出来て、下半身は存在しない。
ホプレスの体はどんどん希薄。一つ目なのに、瞬きをするたびに巨大な瞳は右に現れ、左に現れ、天井にも床にも現れる。
一匹ずつが、この世界に来てから出会ってきた何よりも危険で、ハジメも認める正真正銘の化け物であった。
鏡の向こうで、ハジメのいない世界が繰り広げられている。
ハジメの為の怪物たちが、ハジメが望まない人へ向けて、恐ろしい殺意を巻き散らしている。
「嘘っ! なんで!」
いよいよまずい。
本当にまずい。
ハジメは本格的に焦った。
このままだと、三匹は百花を食い殺してしまう。どうにかしないと、と焦るのに、その箱の画面に手を伸ばしても向こうの世界には届かない。
左に浮かぶ箱に顔を向ける。その表面は鏡面状につるりとしていて、そこにも百花の姿。意味がないと頭では解っているのに駆けて向かっても結果は同じ。どの箱を選んでも、どれに触れようとも、箱の向こうには何も影響を及ぼぜない。そんな事は想像できていたし、当たり前だと解かってはいたけれども。
ただ、解っていても割り切れないでハジメは向こうに行けない苛立ちをぶつける様に箱を殴って吹き飛ばして粉々にした。
それほど無力で影響を及ぼせないというのに、向こうの声音はハジメに届く。
悪趣味に、百花の声をハジメに聞かせたいのだろう。
悍ましい悪意がそこにあって、それを悪意だと解かっているのに正面から受け止めざるを得ない。
そこまで察して。ハジメの心は悲鳴を上げる。
なんで私はこんな目に合っているんだ。どうして私の友達を狙うんだ。
ただゲームをしていただけだ。この世界に来たいなんて思わなかった。
ただこの世界にやってきただけだ。片目猫達がいるなんて思ってもいなかった。
ただ元の世界に帰りたかっただけで、ただいろんな人が力を貸してくれると言ってくれて、ただ嬉しかっただけだ。
――私が一体何をしたっていうんだ。
呪いたくなっている声が心の中で繰り返される。
私の能力で生まれた猫もどきで、私が、私の友達を殺してしまう?
見えているのに。
まだ、事が起きていないのに。
それは駄目だ。許さない。許したくない。
「どうし……よう」
しかし思いつかず、誰かに頼りたくいて、でも頼る事なんか出来なくて。
足元を沈ませる砂がまるで底なし沼のような重さだった。
『サキのプレイングの凄いところはさ、みんなが試そうと思っても出来なかったことを、何とかしてやってみて、出来ちゃうとこだよな。きっと、現実のピンチの時も――』
意味もなく好きな男の子の顔と言葉を思い浮かべて自身を鼓舞して。
――そうだ。みんなが思いついても、それは机上の空論で終わってしまう。絵に描いた餅で手に入らないままになる。
でも、ハジメは違う。少なくともこの場で何か思いつけば、多くの場合それを試す事が出来るだろう。
例えば魔力を斬り裂ける魔法の剣を作り出して――そんなものを作っても何を切ればいいか。斬る対象はどこにもない。
魔法の弾丸も、破壊槌も役立たず。
ならば発想を変えて次元を飛び越える方法を……。そんなものが解かっていたら元よりこんな有様に陥っていない。
結局、自分の発想の限界は可能性の限界である。こんなに焦っている状況で短期間に思いつける事などたかが知れている。その限界を超えてこそと言えたらいいが、ハジメは神様ではない。この世界は神様が沢山いるらしいので、だったらハジメは更に特別でもない。
だからただ願うだけに終わってしまいそうに、思考に傾く。
誰か、百花を救ってくれと思って。どうして今こんな空間にいるのかと嘆き、こんな所に隔離した笹月に怒り、こんなに魔法に自信があるのに無力にも百花の元に行けないのかと絶望して――。
「ちがう、静夜君が……やっていた……?」
――縋れるような可能性が脳裏に過る。
この世界に来てから一番頼りにした彼。
特別強いとか、凄まじい頭脳プレーを見せてくれたとか、そう言うのはないけれどただ親身になってくれて、ハジメの行き詰りそうな心を心配してくれた人物。
彼があのホテルのロビーで見せた一瞬の爆発的な不吉が脳裏に思い出された。
それはあのホテルで魔法で造られた空間に閉じ込められた事と、現状が酷似している事も思い出す理由になっているた。そう。ハジメを今襲っているのはあの異空間と同質のものだ。
だから思い出す。あの閉じられた空間を破壊した彼のした事を。
世界の終わりの要素を詰め込んだ様な何かが一瞬であの場に集まった事によって起きた、閉鎖的空間の崩壊。
あの場にいた全員が息を呑み、そして恐れおののいた。ここから世界が崩壊するのだと確信めいて、解っていても何もできないと瞬間的に絶望し、そして奇跡的に災害は何も起きなかったあの現象だ。
静夜だけが解かっていない様子だったが。と、思い出すと場違いにもクスリと心が笑う。
あの現象は、因数分解していけば膨大な魔力が異空間を満すという要素現象が起きたという事になる。
そうであるならば、この空間においても再現する事が出来はしないかと、ハジメは直感的に思ったのだった。
思いつく限りの全力を一気に。ただ魔力を放出するだけの魔法を組み上げる。
かけてみる価値があるか、ないか。そうではなく、今はそれにすがるしかない。
この世界の限界を超えてしまったような魔法の力を操れるハジメなら、きっとあれの再現ができる筈だ。
この仮定を正として、まずは実行しようとハジメの思考はまっすぐ思い描いた道筋を見る。
冷静に考えてしまえば、実現には少し自信がないと正直に言ってしまう。だが、やるかやらないかで言うなら迷わずやると言うし、迷わず実行する。出来ないかもなんて思わずに、歯を食いしばって血を流してでもするべきだと思いながらやるのである。だって、ハジメはこの魔法の存在する世界で最強に数えられる魔法使いだと自覚しているのだから。
不退転の覚悟を持ってハジメはすさまじい量の魔力を体中から放出する。
自分の体を広げるイメージ。自分の体を溶かして空気に飽和させて、範囲を広げて、この広い世界の隅々までを拡張した自分で埋め尽くす。そんなイメージ。
そして、それは出来ると確信した。
半径十キロ程度の球体。砂と鏡だらけの世界。
まだ余裕があるなら、この世界に広げた魔法の力の濃度を上げる。膨張も収縮もしない極めて安定した魔力の圧を、魔力災害を起こすレベルに切り替えて。
……少し眩暈がする。右の後頭部からこめかみに掛けて少し頭痛。けどまぁ、まだ無理はできる。
空間を満たす魔力が高濃度になって視界にすら青い揺らめきを見せるようになった頃に鼻血が出始めた。
数秒休みたくなる。そっちの方がきっと効率がいい。けれどそれが百花の死につながる気がして休みはなしとした。
そしてやがて――パキン。と何か硬質な音がした。
絶望の音だった。
ハジメの周りに、青い宝石のような結晶が現れて、それが下に向かって降り始めた。
ハラハラと、まるで光り輝く雪のように辺りに降り注がれる。
きっと時間をかけ過ぎたのだ。すぐに解った。最大出力で最高速度でやったつもりだった。けれども、静夜がやった様に瞬く間に怪物を呼び寄せた時に比べたら、その速度の違いは明白だった。
つまり、ゆっくりと空間に魔力を満たしてしまったから、魔力は想定外の変化を起こしたのだ。逃げ場を失う程の魔力は空間を破くのではなく、空間の内側で飽和し、あろう事か結晶化してしまったのだ。
いや――魔力の結晶らしき物の一つに注目して見れば、それは小さな四角い箱の様なもので、それは笹月の魔法の特徴に合致していた。
この現象にも笹月の悪意が介在しているのならば、きっとどれだけ魔法を広げても結果は芳しくないだろう。
どっちにしても、空間を満たしていた魔力は殆ど全て無に帰したと言っていい。自然でも悪意でも結果は同じである。
「ちっ……クソゲーっ」
鼻血を手の甲で拭って、忌々しい気持ちを隠しもせずに悪態を吐いた。
結晶化した魔力は足首に到達した程度の積もり具合だ。ここは見上げればおそらく高さも雲に届くほどの閉ざされた異空間である。どう考えても、結晶が積もるのを待ってこの空間を破くのには無理がある。諦めずに続けるのも一つかもしれないが、時間の経過は致命的な手遅れを招くだろう。
焦りながら、これを続けるか、他の方法を探すかの選択を迫られる。どちらがいいか結論が出ない。何もしないよりは命を削る様にこの空間に魔力の結晶を量産していく方がマシだが、だからと言ってこんなのは無駄であり、他の何かを見つける事に全力を注ぐ方が勝率が高いかもしれないとも思うのだ。
ただ、そんな迷いも無尽蔵だと思っていた自分の魔法の力も、どうやらこの空間では限界を見据えざるを得ないようだった。
止まらない鼻血。スプーンで目玉を抉りだされているかのような頭痛。ふと冷静になった時に感じる魔力の枯渇。
一瞬でも気を抜くとブラックアウトしそうな意識。 自律神経の挙動を自らの意思でコントロールするイメージで痛みも辛さも意識の揺らぎも全て自分の意思で制御する。それを成立させるのがハジメの異常性の最たるものだ。ただ、凄まじい集中力を要するこの処理にはどうにもできない障害が存在した。
箱だらけの世界にある、テレビのように百花を映すガラス状の箱。
自分の制御下を離れた三匹が、百花を今にも殺そうとしている光景が心を焦らせる。。
思考は許容範囲を超えて、集中力は途切れる。駄目だと思った時にはもう、鏡の向こうに視線が奪われていた。
三匹は今でもハジメの味方だと解かっている。知っているし、確信している。自分の手足が意志の通りに動かない事なんて、十七年生きてきて一度もなかった様に、それ位に三匹は味方なのだ。ただ、謎の力が働き、在り得ない確率を無理矢理作り出されて、そしてあり得ない行き違いが起こった事によって、百花を敵とみなして牙を向いたのである。
それもその場にハジメがいれば問題なかった。
怒り狂う三匹をハジメがいさめればそれでお終いだった筈だ。しかし、今彼等の手綱を握る物はいない。
制御されていた天災は、個人を狙ってその狂暴性を解放しているのだった。
三匹とも、もはや原型をとどめずに変貌して、元の可愛らしい猫の姿は取っていなかった。
馬や熊などと比べた方がよさそうな巨躯となり、なおも少しずつ肥大化している。
膨大な殺意にあてられて、周囲を飛んでいたカラスは全て死に絶え墜落していく。殺すという気持ちだけで、生物が本当に死んでいく。
自分がそのような事を起こしてしまう恐ろしい物を作り出していた事も、今その恐ろしい物が制御不能に怒り狂っている事も、実感はなく、今はだただただ絶望に近い感情だ。
声が、聞こえた。
「何がどうなっているかは解りましたが……。下限の加減を間違えると、これは死にますね」
……死ぬのだ。
そうはさせないと。努力をしたがそんなものは無駄である。
思いつく限りの魔法を放つ。しかし相変わらず空中に魔法は霧散して、踵を埋めるほどの青い石が積みあがっていく。
見上げた遥かな空を埋め尽くすまでに、どれだけの時間が掛かるだろうか? 少なくとも間に合うような物ではない。
それでも諦めずに魔法を発動させ続ける。
そもそも、魔法がきちんと発動したとして、ハジメはいったいどこに向かって魔法を打ち放っているのだろう。テレビ画面を壊したところで、テレビの向こうの絶望を壊す事なんてできないのに。
自分は苛立つと歯軋りをする。そんな事を今日初めて気が付いたほどに、ハジメは無力だった。
「百花ちゃん、逃げて……」
心の底から声が漏れる。
ハジメでは、百花の死を防ぐことができない。それは、今は確定した事に思えた。
逃げても無駄だとは解り切っている。あの三匹の強さには、獲物を逃さないというゲーム上の魔王の様な性質も含まれている。
三匹は怪物だ。ハジメの全力の魔法もきっとどうにか凌ぐ。
この世界の兵器の事は知らないが、おそらく爆弾やミサイルなどは通じないし、戦車の装甲や防空壕や核シェルターなどの強度は薄い紙の様に貫く攻撃力を有している。そのことをハジメは知っていた。つまりこの三匹だけで、ハジメがかつて居た世界であるならば、時間を掛ければ殆ど全てを蹂躙できる存在なのである。
そんな世界を滅ぼす事が出来るような三匹が、明確な殺意を持って百花に憎悪を向けている。
主に害をなす脅威である、愛凪百花をこの世から排除するべく、向けられるだけで命を諦める殺意を巻き散らしながら。
だと言うのに、百花はハジメの絶望を嘲笑うような態度で、怯えなど一切ない。
それどころか、暢気な様子で人差し指を唇に当てて、首を傾げてみせる。
可愛さの中に色気があるその姿。
その魅了の中で、百花のアメシスト色の瞳が妖艶に輝く。
濃く。
美しく。
蕩ける様に。
「そうね……。そう。グラムとマサムネが来なさい。わたしの為に死ねるわよ?」
百花が言う。
匂い立つような、色気が放たれる。
同性のハジメですら胸を締め付けられ、眩暈を起こしそうな色気は、きっと生物の枠を超えて魅了する。
ハジメが確信した直後、応える様に百花の目の前にむき身の剣が二振り、床に突き刺さった状態で現れた。
三匹が唸り声をあげ、百花は涼しく微笑んだ。
「……――釈迦誑し」
囁くように、耳にするだけで人生を捨てても良いような淫靡が漂った。




