朝の遠い国と幸せな竜
屋敷の中に連れ帰られた後、アンティは祖国の顛末を知った。
アンティが地下牢から消えた後、ハルヴェールは、ぼんやりではあるが竜の宝が失われた事に気付いたらしい。
驚いて王女に歌わせてみたところ、彼女は竜の宝ではなかった。
慌てて王宮中を調べ、ひと月程経った後、そこから失われたのが地下牢に追いやった女だと突き止めたのだそうだ。
アンティが壊して捨てた名前をハルヴェールが持っていたのは、星の系譜の竜が、少なからず願い事というものを司る竜だからである。
彼は、随分と大きな魔術を展開して辛うじて自分の宝の名前だけは拾い、結果としてその身の階位を大きく落とした。
その名前は今、ハルヴェールの手でアンティに戻されている。
「王女様には、触らなかったのですか?」
「…………触れたが、かけられた呪いのせいで分からないのだろうと考えていた」
「触れれば宝がそこにあると知る事が出来るのは、呪われていない竜だけだと考えていたのですね………」
「いや、呪いなどがなければ、竜の宝は香りや気配でも認識出来る。肌に触れ、その声を聞いて結論を出すのは最後の手段だ」
「…………少しだけぞくりとしました。何しろ竜は、勝手に無垢な人間を騙して伴侶にする乱暴な生き物ですから」
そう言ってやると、一見表情を動かしていないかのように見えるハルヴェールだが、実際にはとても狼狽えている。
そっとテーブルの上の焼き菓子のお皿をこちらに押し出したのが、その証拠だ。
「どちらにせよ、お前はここからは出られなかっただろうがな。花竜の一件を曖昧にする為に権限を借りた者からも、責任を持ってお前を管理しろと言われている」
「ふむ。美味しいお食事があれば、何も外に獲物を狩りに行く必要はありませんものね」
「…………なければ、また狩りに行くつもりか」
そう呟き顔を顰めたハルヴェールの手にはもう、見慣れた手袋はない。
考えてみればおかしな話だが、同じ屋敷で暮らしていても、彼が手袋を外している様子は見た事がなかった。
(……………もしかして、ハルヴェールがずっと手袋を外さなかったのは……………)
あの王宮で、決して手袋を外さなかった彼を、アンティは何て高慢な竜だろうと思っていた。
けれども、彼を信仰の対象としてしか知らなかった頃は、祀り上げられるような人外者なのだから、そのようなものだろうと気にも留めなかったに違いない。
それは多分、大衆というものがどれだけ無関心で残酷なのかを示していて、ハルヴェールは常に人間達のそんな眼差しの棘の上にいたのだ。
かつて、冬星の竜の王だった彼を調伏したのは、彼が壊した小さな国に現れた死者の王だったのだそうだ。
終焉を司り、疫病の跡地や戦場に現れて死者を死者の国に連れて行く魔物である彼は、人間好きの人外者としても有名なのだとか。
狂乱により多くの罪なき人々を殺したハルヴェールを大地に引き摺り落としてずたぼろにし、ラズィルの国の人間達に投げ与えた。
そんな死者の王の調伏はかなり荒っぽく、ハルヴェールは、最初の二年間は死者の王に潰された目が見えないまま、ラズィルの守護をしたという。
受けた傷が癒えずラズィルの国を守護した日々の始まりの十年は、無理をする度に手が落ち足が落ちと、文字通り血を吐くような苦痛の日々だったらしい。
ハルヴェールが傷を癒せずに、体を動かす事もままならない頃から、人間達は身勝手な願いを彼に押し付けていった。
あの国の領地が欲しい。
目障りな貴族を失脚させて欲しい。
あまり労せず、この仕組みで儲けが出るようにして欲しい。
もっと美しくなりたい。
あの女を辱めて欲しい。
偉大に見えるようにその権威を借りたい。
気に食わない相手を殺して欲しい。
気に入らない相手を、悍しい目に遭わせて欲しい。
そんなものばかり。
幾つも。
幾つも。
あの豪奢な王座と玉座の間を与えられ、ラズィルの人々の信仰を一身に集め祀り上げられながらも、彼は、人間という生き物を嫌悪し続けていたのかもしれない。
けれども、誓約を破りラズィルから逃げ出そうとすると、手足が裂け臓腑が潰れ、動くことも出来なくなる。
ハルヴェールに誓約を課した死者の王は、この世界に於いて最高位に等しい終焉を司る魔物。
冬星の竜の王ごときでは、その約定の鎖を外す事は出来なかった。
(もし、そんな事を私が予め知っていたならば………。ううん、…………それでも彼は、人間達が差し出した私を信用しなかっただろうし、私にも、彼の心を解くだけの力はなかっただろう………)
ラズィルの王宮は、天井が高く壮麗でとても美しかった。
淡い水色と艶消しの金色の装飾に、華やかな天井画。
宝石を掘り上げた装飾に、あちこちに飾られたラズィルによく咲く赤い花。
けれどもあの王宮は、きっとハルヴェールにとっても牢獄だったのだろう。
ずっと、ずっと。
アンティが生まれるずっと前から。
そうして、有力貴族達の出世の為の駒とされたアンティにとっても、そうだったように。
「あなたが階位を落とした事で、ラズィルは滅びたのですね」
「外から見れば、あの国はさぞかし豊かに見えた事だろう。だが、守護があったからこその豊かさだ。俺の力が及ばなくなれば、それも消え失せる。獲物を手に入れた諸外国は、当てが外れて失望したことだろうな」
守護の竜が階位落ちしたラズィルは、その弱体化を見逃さなかった周辺諸国に、すぐさま噛み千切られてばらばらにされた。
今ではもう、幾つかの国に統合されており、その中のかつて王都だった土地にラズィルという地名が残るばかり。
その混乱に乗じて、ハルヴェールは、人間の国になど縛られていなかった頃の従者達にラズィルから救い出されたのだとか。
約定の鎖は切れずとも、繋がれていた国が滅びた事で漸く何百年かぶりに自由を取り戻したのだ。
(それに、ラズィルに居た頃から既に、ハルヴェールがもう王様ではなかった事は知らなかった………)
最初に狂乱した段階で王としての資格は剥奪されており、冬星の竜の王としての地位は一族の他の者が引き継いでいたのだと教えて貰った。
ハルヴェール自身はその事をラズィルの人間達にも伝えていたのだが、なぜだか公表はされず、人間達の都合で冬星の竜の王として崇められ続けたらしい。
だが、ハルヴェールが王族である事は変わりない。
自国に戻ればそれなりの権限を行使出来る立場だったものの、そうはせずに、幾つもの国を渡り歩きながら、人間に紛れて暮らしていたのだとか。
ハルヴェールは、お前を探していたとは言わないし、アンティもそればかりが理由だとは思わない。
だが、己の宝を知覚した竜は、その死を感じ取れるという。
やっと見付けたのだと時折こぼす彼は、もしかしたら、自分にはもうその死の気配すら読み取れないと考えながらも、生きているかもしれない竜の宝を探していたのかもしれない。
(……………なんてね。いや、この凍えそうな眼差しとか気配とかはそのままなのだから、まさかそんな…………)
そう、竜の宝は思う。
何しろ現在、ハルヴェールからあまりにも酷い仕打ちを受けている真っ最中なのだ。
やはりこの竜は、竜の宝にすら冷酷な生き物であった。
「……………これは人間の口にするものではありません。沼の味のする、どろっとした飲み物です」
「花竜を食った障りを、完全に体から抜いておけと話しただろう」
「ぐぬぬ……………。私にこんな沼風味のものを与えるなど許すまじ…………」
アンティは、あの日から、ハルヴェールがどこからか手配してきた薬湯を毎日飲むことを義務付けられている。
数日の内に転居の話は立ち消えになり、その代わりに決定を持ち帰った日のハルヴェールは、使うつもりもなかったカードまで切らされたと、少しだけよれよれになっていた。
どうやら、このガーウィンには高位の竜すらくしゃぼろにする凄腕の権力者がいるようで、ハルヴェールの会話から推察するに、それは彼の表向きの上司である人物ではなく、実際に彼を使っている、ガーウィン中央に属する枢機卿の一人であるようだ。
屋敷の使用人は殆どが入れ替えられ、竜の国のどこかに今もあったらしいハルヴェールの城の使用人達が、今はアンティの世話をしてくれている。
リセルスが元々ハルヴェールに仕えていた侍女で、実は星竜だったと聞き、アンティはとても驚いた。
この蜂蜜色の髪の侍女は、主人が心配過ぎて付いてきたということではなく、単に、ガーウィンに求婚中の精霊がいるのでこれ幸いと付いてきたのだそうだ。
そんなリセルスは今、そっと薬湯の入ったカップをテーブルに戻したアンティに、にっこりと微笑みかけていた。
「まぁ、アルティーファ様。まだ残っておりますから、全部飲んで下さいまし。ただでさえ人間はとても儚いのですから、竜の伴侶としての魔術の繋ぎが定着するまでは、しっかりとお体を労って貰いますよ」
「……………ぐぬぅ」
そして、すっかりアンティの怖いお母さんのようになってしまった。
あの日以降、特にハルヴェールがアンティをこってりと甘やかす事もなく、彼は彼のまま、けれどもアンティを竜の宝として認識してそこにいる。
今回のことでの唯一の収穫は、アンティの食事のメニューが一新され、毎晩美味しいヴェルリア風のステーキや、ウィーム風のシュニッツェルが食べられるようになった事だろうか。
カップの底に残ったどろりとしている沼味の薬湯を最後まで飲む事を強要されてぜいぜいと肩で息をしたアンティは、かなり真剣にそう考えている。
添えられていた檸檬水をがぶがぶと飲み、口の中が花の香りになる砂糖菓子を貰ってやっと人心地だ。
「…………ったく。薬湯すらまともに飲めないのか」
「なぜ勝手に、私を持ち上げてお膝の上に乗せたのでしょう。椅子を変えるかどうかの確認は取られていませんが………」
「大人しくしていろ。頭痛に響く」
「…………まったくもう、困った竜ですね」
ハルヴェールは、今でも時折、酷い頭痛に悩まされていた。
これは契約を全うせずにラズィルを離れた後遺症のようなもので、特に真昼の光が障るのだそうだ。
ハルヴェールの司る星が力を持つ領域から最も離れている正午の光は、彼に残された魔術誓約の残滓を活性化させてしまう。
彼がアンティを宝だと認識して共に過ごす時間が増えると、そうして体調を崩し、時には苦痛のあまりに吐いていたり、倒れて動けなくなっている姿すら何度か見る事になった。
そこで初めて、この屋敷でハルヴェールを見る機会が少なかったのは、夏季など、彼がまともに動く事も出来ない日々がかなりの日数あったからだと知ったのだ。
(今日は、日中に外に出る仕事があったのかしら。もう夜なのに、まだ辛いのだわ…………)
「ほら、これで少し楽になりましたか?」
「……………ああ」
そっとその頬に手を当てれば、まるでよく懐いた獣のように擦り寄られ、こんな時ばかりは妙に無防備になる伴侶に、アンティはやれやれと眉を下げた。
けれども、ハルヴェールのこの苦しみも、来月までのものだ。
(……………私の持つ魔術の特性と引き換えに、死者の王は、ハルヴェールにかけた約定を破棄してくれると約束してくれた)
そんな交渉をしてくれたのが、実は死者の王の部下の一人であったという例の枢機卿だと言うのだから、ますますこのガーウィンにはどんな生き物達が集まっているのか謎めいてきた。
時折、舞踏会でも影のない人がいたり、逆に、明らかに人間ではない影を持つ人がいたりする。
ハルヴェールがそうであるように、ここには、相当数の人ならざる者たちが人間に紛れて暮らしているようだ。
今回はたまたま、その中の一人が死者の王と近しかったことで、幸運にもこの運びとなったのだ。
だが、よく考えれば、死を悼む儀式を司る教会というものは、死者たちに最も近い門である。
ガーウィンのような土地だからこそ、死者の王の側近が隠れていても不思議はないのかもしれない。
アンティの持つ修復の魔術は、その治癒や再生における特性が、既にこの世界から失われた要素であった。
アンティが迷い子という特殊な立場であった為に奇跡的に持ち込めたもので、もしアンティを呼び落としたものが、修復の魔術を持つものをと願い召喚したなら、それは叶わなかったくらいの希少魔術だと言う。
過度な修復は、今や死者の国の禁を侵しかねないものとして危険視されており、それを手放す事と引き換えであればハルヴェールを赦そうと言われたのだ。
こんな風に度々その後遺症に苦しまされているくせに、ハルヴェールは、そんな事はしなくていいと撥ねつけてたが、アンティが自らその条件を飲んだ。
ハルヴェールをどうしても救いたかったというより、禁忌となった力を持ち続けるとなれば、いつかどこかで厄介な事に巻き込まれかねない。
他の属性の魔術に置き換えて貰えるという事だったので、それならばいいやと決断したのだった。
(このガーウィンには、修復を司った魔物の最期の地があるらしい)
だとすれば、アンティがあの門に呼ばれたのは、かの鹿角の聖女に属する者としてだったのだろうか。
それとも、門のこちら側にハルヴェールがいたからなのだろうか。
「…………さては、このまま寝ようとしていますね?お部屋にお戻り下さい」
「おい、頭を押すな」
「治癒の魔術をお貸ししましたが、抱き枕にする許可は出していません。………おのれ、なぜ余計にぎゅっとしたのだ!」
「うるさい。黙っていろ」
「我が儘竜め!!!」
どれだけハルヴェールが弱っていても、ただでさえ長身の竜にへばりつかれたまま眠られてしまうと、アンティの背骨はきっとばきばきに折れる。
そんな拷問に耐えるつもりはないので、ここは厳しく躾けなければなるまい。
アンティは、リセルスの手を借りて伴侶を巣に戻そうと振り返った。
「リセルス、ハルヴェール様が……………リセルス?」
「申し訳ありません、アルティーファ様。私はこの後、リシャード枢機卿が夕べのミサに出られるということで、お休みをいただいておりまして」
「……………もしかして、その方がリセルスの想い人なの?」
「ええ。人間のふりをしておりますが、死の精霊の王族の方なのですよ」
「それはまさか、死者の王との繋ぎを取ってくれた方なのでは………?」
「ふふ、そのようですね。ハルヴェール様からあんな酷い対価を毟り取るだなんて。ますます、恋に落ちてしまいますわ」
柔らかな微笑みでうっとりとそう呟き、かつての王に遠い目をさせると、リセルスはさっさと退出してしまった。
頼みの綱だった頼もしい侍女にも逃げられてしまい、アンティはハルヴェールと二人きりで、部屋に残された。
視線を感じてぎりぎりと首を捻れば、こちらを見ている宝石のような水色の瞳がある。
居心地が悪くなるくらいに見つめられ、アンティは、勝手に伴侶になってしまった竜をお部屋に帰す方法を必死に模索した。
伴侶にされたとは言え、あのような結び方であったので、アンティは未だにハルヴェールと部屋を分けている。
ハルヴェールは何も言わなかったが、最近は少しだけ不服そうにしているので、そんな時は地下の牢獄がどれだけじめじめしていたかを語ると、どこからか美味しいお肉料理を持って来てくれる。
余談だが、最初は可愛らしい焼き菓子なども出していたが、アンティの食いつき方が段違いなので、ハルヴェールは、伴侶を宥めるときには肉料理を使うと決めたようだ。
だが、こんな風にもの問いたげにこちらを見る夜もあって、アンティはその度に、一人で部屋に帰り給えと心で念じながら無言でハルヴェールの瞳を見返している。
いつもならそれで諦めて部屋を出てゆくのだが、このままでは埒が明かないと踏んだものか、今夜は少し手法を変えて来たようだ。
「……………っ、」
ふいに視界が翳り、淡い温度が唇に触れた。
目を丸くして茫然と見上げたアンティに、口付けを落としたハルヴェールはどこか満足げに微笑む。
「伴侶なのだ。相当の祝福を与えるのが道理だろう」
「……………許可していません」
「守護の一環だ。気にするな」
あまりにもあっさりとそう言ったハルヴェールに、アンティはその晩、怒り狂ってハルヴェールの膝の上で大暴れをした。
アンティを何とか宥めた後、ハルヴェールはさっさと一人で部屋に戻ってしまったのでうんざりさせたかもしれないと少しひやりとしていたが、どうやら少し傷付いているらしい。
「坊ちゃんは、同族の中の継承争いで苦しみ、その後は長らく伴侶すら得られず狂乱に至った、お寂しい方でした。アルティーファ様を得られてたいそうはしゃいでおりますので、どうかお手柔らかに」
そう笑ったのは新しい家令で、漆黒の燕尾服姿の初老の男性は、ハルヴェールと同じ冬星の竜だ。
ハルヴェールより年長者で、彼の子供の頃から知っているそうで、よくこんな言い方をする。
「……………あれで、傷付いているのですか?」
「ええ。それはもう。ただ、竜の宝を得て嬉しくて堪らないのに、それをどう表現するのかも分からない不器用な方です。…………あの方は、憎む事と絶望する事、そして嫌悪を示す事には慣れておられますが、愛する事がたいそう苦手のようですな。どうか、アルティーファ様が躾けてやって下さい」
「まぁ。そこは躾でいいのですね………」
「坊ちゃんの方が体も大きく力も強いのですから、奥様は、それくらいの感覚で宜しいでしょう」
くすりと笑ってそう言いながらも、家令は悪戯っぽくアンティに微笑みかけてくれた。
「ですが、あの方は、アルティーファ様を大事にするでしょう。その方法が不得手で拙いばかりのものばかりだとしても、もう二度とあなたに手を上げ、傷付けることはありません。……………あなたをその手で牢獄に追いやったと知った時のあの方の慟哭は、長年お側にいた私とて、聞いていられるものではありませんでした。…………勿論、それを理由にあなたがハルヴェール様を許す必要はございません。ですが、…………どうか、我慢出来ずあの方と離縁するのだとしても、あの方の見える場所にいてやって下さい。高位の者として生まれ落ち、長きを生きるものというのは、あまりにも孤独なものなのです」
ではそれは、この家令やリセルスにも言える事なのだろうか。
そんな事を考え、アンティは、少しだけ王宮での孤独な日々を思い出した。
「………でも、私は良い伴侶ではないわ。そもそも、伴侶になる事すら同意の上ではなかったのだもの」
「それで宜しいのですよ。坊ちゃんの伴侶になった事で、アルティーファ様はその身の安全を得られました。気に入っている部下を狂わせる訳にはいかないのでと、あの精霊も死者の王との調停を引き受けてくれましたからね。元より、ハルヴェール様の目的はそちらにあります」
「……………もしかして、私の持っている修復の魔術は、ハルヴェール様の伴侶でなければ、こっそり葬り去られて終わるような程の厄介なものだったの?」
ぞくりとしてそう尋ねると、優しい緑色の瞳をした家令はゆっくりと頷いた。
穏やかな仕草だが、その肯定はきっぱりとしている。
「在るべきではないものは、世を騒がせます。ましてや修復の魔術は、今となっては信仰の対象にもなり得る。場合によっては、あなたは、ラズィルに繋がれていた頃のハルヴェール様のように、このガーウィンで囲い込まれたかもしれません。或いは、その身を巡って戦乱が起きないとも限らない。そのような懸念を許さない方々にとっては、見過ごし難いものでしょう」
「たった、四百ぽっち前のものなのに、あっという間にそこまで廃れてしまったのね…………」
「司る魔物の滅びは、その事象に紐付いた魔術の喪失を意味しております。それと、あなた様がラズィルの王宮に招かれた時期と、ラズィル滅亡の時期を、恐らく誤って計算されているのではありませんか?似たような年号の多い国でしたからな」
「…………そうなの?」
「ええ。私共は、ハルヴェール様が竜の宝を見失ったのは、今から千ニ百年前だと記憶しております」
「……………せんにひゃくねん。え、…………ハルヴェールって何歳なの…………?!」
「さて、それはご本人からお聞きして下さい。案外、気にされているかもしれませんからね」
最後に、家令は重ねてアンティの魔術属性を外で明かさないようにと言い含め、その言葉を、アンティはしっかりと心に命じた。
自分の為に身の安全を図れるようになりたかったし、何となくだが、自分が誰かに粛清されてしまった後に、一人で残されるハルヴェールの事を考えたくなかったのだ。
(…………ハルヴェールがラズィルに囚われていた期間は、千年に及んだという…………)
アンティが姿を消してからも、彼はニ百年以上、あの国に縛られ続けた。
「でも、……………あなたを一人悲しませたくないからと言って、あなたに恋をした訳ではありませんから」
「…………それを、わざわざ言いに来たのか」
そんな思いをぶつけに行った先で、夜明け前に叩き起こされたハルヴェールは、憮然とした表情でこちらを見ている。
水色の瞳はどこか眠そうで、寛いだ服装で髪の毛が少しだけくしゃくしゃになっていて、アンティは思わず手を伸ばしてその髪を直してやった。
相変わらず触れる者を許さないような冷たい美貌だが、ハルヴェールがその手を振り払う事はない。
ふっと緩んだ眼差しに、密かに喜んでいるのが透けて見えた。
「きちんと伝えておかないと、ハルヴェール様はよく分からないままに迷走しそうですから。取り敢えず、私の為に牧場を買い取る必要はありません」
「必要だろう。自分がどれだけ肉を欲しがっているのかを考えてみろ」
「これだから竜は!牧場で育てられているものたちは、専門家の管理で美味しいお肉になるのです。余計な事をしてその管理を落としてどうするのですか。買い上げるのは、お肉だけにして下さい!」
アンティの説得に、ハルヴェールは少しだけ途方に暮れたような目をしたが、つんとした感じで顔を逸らし、我が儘な女だなと呟いている。
あの家令の言う通り、伴侶とのお喋りはあまり得意ではないらしい。
「それに、牧場を買い与えなくても、私はここから脱走したりしませんよ」
「…………どうだかな」
「確かに一度、ハルヴェール様の事は完全にどうでも良くなりましたが、その後からまた、同居人としては割と好きだなとは思うようになりましたから」
「…………っ、」
なぜかここで、ハルヴェールはぴしりと固まってしまった。
じわじわと赤くなった目元を隠すように、口元を片手で覆い顔を顰めている。
おやこれでいいらしいぞと気付いてしまったアンティは、すかさず、棘牛という極上のお肉のタルタルが食べたい旨を伝えておくことを忘れなかった。
「ふふ、せっかく私なりの好意を伝えたのですから、もっとにこやかに受け止めて下さいね?」
「……………あれだけ竜を食ったんだ。暫く晩餐は抜きでいいな?そもそも、最近、肉を食い過ぎだ。どちらにせよ、その偏った食生活を近い内にどうにかするぞ」
「…………食生活の嗜好の不一致は、共同生活の最大の敵です。であれば、月に何回かお会いする方向にして、別居しませんか?」
美味しいお肉を堪能出来ない生活は断固拒否するという主張であるアンティがそう提案したところ、ハルヴェールは水色の瞳を瞠って黙り込み、アンティを部屋から追い出すと自室に引き籠もってしまった。
反論されなかったので、ハルヴェールも納得してくれたのだろうと考えたアンティが自室でいそいそと荷造りなどをしていたところ、ご主人様の様子がおかしいからとこちらの部屋に様子を見に来た家令に、どうか今暫くはこの屋敷に留まって欲しいと必死に説得されてしまう。
(別にずっと離れて暮らす必要はないけれど、このすれ違いを利用して、ひと月くらいの間、王都に暮らしてみたかったのに。ヴェルリアの港の名物料理な燻製肉を、好きなだけ食べてみたかったな…………)
アンティは、お持ち帰り禁止の憧れの料理を悲しく思い浮かべたが、家令からこの流れで別居となると、ハルヴェールが死んでしまうと脅され、渋々諦めた。
竜の宝を得た竜は、宝から引き離されるとすっかり弱ってしまうらしい。
かつては地下牢に隔離されていたアンティとしてはそんな馬鹿なという思いであったが、実際にハルヴェールは、そこから三日間寝込んでしまった。
どうやら、これだと認識すると離れるのが駄目になるらしいので、とてもややこしい種族だ。
その間はたいそう機嫌が悪く寝室には入れて貰えなかったものの、ちょっぴり不憫になってしまったのと、何だかその運命を握ってやったようで悪い気もしなかったので、アンティは、そのままハルヴェールの屋敷に暮らす事にした。
因みに、花竜の一件の犯人が誰なのかを知っているのはガーウィンのごく一部の者達に限られる為、花竜事件の犯人に懸賞金がかけられたから隠れている訳ではない。
春が来て、もうハルヴェールの苦しまない夏が来て、やがて冬になる。
ゆっくりと巡る季節は美しく穏やかで、二人を取り巻く日々の優しさは、これまでの人生では決して得られないものばかり。
それはまるで、はらはらと散った花びらの降り積もる道のように、優しい色に満ちていた。
その間、とてもべったりな日があったり、守護の口づけを落としたりするものの、ハルヴェールがアンティに愛情を請う事はなく。
ただ、アンティが無謀な真似をしたり、食べ過ぎたりするとすぐに叱りにくる。
けれど、その叱り方がまた下手なのだ。
(ここで働く使用人達は、ハルヴェールがこの朝の遠い国の幸せな竜だと言う………)
ガーウィンは一領なのだが、人外者達は新しい国の枠組みをあまり考慮せず、一国のようにそう言うのだ。
「つまり、ハルヴェール様は、私と暮らせてとても幸せなのですよね?」
「だとしても、その手の中のものは捨ててこい!」
「だとしても…………」
「……………っ、」
どうや、朝の遠い国で確かに幸せではあるらしい竜は現在、アンティがお庭で狩ってきた不法侵入者を、何とか伴侶の手から捨てさせようと奮闘していた。
「美味しそうな鳥さんです。これは是非、料理人さんに捌いて貰いましょう」
「それは、怨嗟の系譜の呪いを蓄えた黒鳥だ。食べたらお前ですら死にかねないものだが、そもそも、人間の手で狩り取れるものではない………」
「あら、簡単でしたよ?交換でいただいた魔術は攻撃に特化していますし、この鳥めは、ハルヴェール様を狙ったようですから、心置きなく始末する事が出来ました。またあの枢機卿の仕事で、いらない恨みを買いましたね?」
「…………標的を定めた刺客だったのなら、尚更一人で狩りに行くな。………だいたい、これまで確認して来なかったが、お前の魔術稼働域は幾つなんだ………」
「千五百くらいでしょうか。荒野に暮らしていた野生の牛が八百くらいでしたので、あまり大した事は……………ハルヴェール?」
これから夜会に出ると言う事で盛装姿であった美麗な竜は、アンティの示した数値を聞いて、ぐらりとよろめいてしまう。
反応の激しさに怪訝に思い首を傾げると、アンティの伴侶な筈の竜は、ふるふると首を横に振った。
何だか無防備で少し可愛い。
「…………八百もの可動域があるのは、特殊な牛くらいのものだ。いいか、………この魔術基盤の豊かなガーウィンですら、八百も可動域がある人間がいたら、大騒ぎになるぞ」
「…………まぁ。大袈裟に言ってらっしゃる?」
「ウィーム領ならまだしも、…………千五百?……………生粋の人間が?」
「………そう言われてみると、確かに曽祖母は妖精から転属したひとだったと聞いています。会った事はありませんが、元々は、竜を狩るのに長けた高位の妖精の一族だったとか。光竜を絶滅させた種族だったそうですよ」
「……………光竜はかつて、全ての竜種の中の王族の地位にあった者達だ。………それを滅ぼした一族の末裔…………」
すっかりくしゃくしゃになってしまった伴侶の背中を押して夜会のある貴族の館に向かう馬車に詰め込むと、アンティは、お仕事を頑張るのだぞとそっと髪を撫でてやってから扉を閉めた。
アンティの引き取り先との話を付けた枢機卿は、ハルヴェールに、これまで以上に社交の場に顔を出すように命じたそうだ。
中央から派遣された彼は、謂わば駐在員であり、同時に各教区の閉ざされた組織の中を探る諜報員のような役割だ。
かつてアンティが耳にした噂に名前の上がっていた女性との事も含め、本人が望まざるとも、狡猾で噂好きな人々と交わらねばならないのだった。
(とても嫌がっていて可哀想だけれど、対価の支払いはきっちり済ませておかなければならないわ…………)
アンティはもう、死者の王との約定の残骸に苦しみ、頭痛が酷い日には立っていられない程に弱っていたハルヴェールを知っている。
もう二度と、自分の大切な竜がそんな風に苦しむのを見るのは嫌なのだ。
「だから、これは仕方ないわよね」
相変わらず、ハルヴェールは配慮や注意が行き届かないところがある。
彼が可動域騒ぎですっかり失念してしまった獲物を持ち、アンティは使用人を探した。
(最初はもっとこう、腹黒くて計算高いひとだと思っていたけれど…………)
怜悧で冷ややかな美貌で誤解されがちだが、何事も大味で、道を通る為にそこにあった家をばりんと踏み潰してしまう竜種的には、実はこれくらいの方が平均的な気質であったと判明し、目を覚まされる思いであった。
絡み合って塊になっていた糸が解けてゆくと、ハルヴェールは何だか不器用で不運で、だからこそ人間が大嫌いな孤独な竜だったのかもしれない。
あの王宮で、アンティは自分を見ないまま立ち去ったハルヴェールを憎んだ。
だが同時に、彼がやっと宝を見付けたと思い込み警戒心を強めていた最悪の時期に目通りしてしまったアンティが、彼の心を慮る事もなかった。
利己的な人間は、だからといってハルヴェールをもっと早くあの牢獄から助け出してやるべきだったという後悔はしない。
やり直しの機会が得られなければ、アンティは死んでいただろうし、あの時のアンティがハルヴェールを憎んだのは確かなのだ。
だから、アンティは自分の心の中だけでこっそり反省するので、ハルヴェールにもきちんと反省して欲しかった。
(……………これまではね)
「まぁ、奥様。また刺客を狩られたのですか?」
「リセルス。これ、食べられない鳥だったのね。どうすればいいかしら?」
「では、リシャード閣下に送って差し上げましょう!閣下も喜ばれますし、ハルヴェール様の評価にも繋がりますからね」
「では、そのような手配を頼んでもいい?」
「ふふ、勿論ですわ」
「それと、今夜は夜会があるそうだから、例の告白を出がけにするのはやめておいたわ」
「それが宜しいでしょうね。大好きな奥様にそんな事を言われたら、多分、一週間くらいは使い物にならなくなりますから」
「……………そんな風には見えないのに」
「でも、ハルヴェール様は、この朝の遠い国で一番幸せな竜ですわ。それは、間違いありません」
昨晩、アンティは新しい決断をした。
そろそろ、ハルヴェールに伝えようと思うのだ。
二年近くもここで同居人として上手くやってきた結果、いつの間にかあなたが大好きになったのだと。
(これでやっと、私は、私の竜を好きなだけ大事に出来る)
今では、アンティの寝室にある小さな机には、月に一度どころか週に一度は、素敵な贈り物が届く。
それは、王都で流行り物となっている可愛らしい縫いぐるみや綺麗な宝石のブローチだけでなく、任務先の屋敷の庭に咲いていた、恐らく勝手に手折ってはならなかったであろう薔薇や、森の小道に咲いていた可憐な野の花だったりした。
そうして日々積み重ねられてゆく、不器用な竜の二度目の求婚に、アンティはとうに陥落していたのだ。
だから、今夜ハルヴェールが帰ってきたら、正面からその宝石のような水色の瞳を見上げて告げてみよう。
かつては上手く育たなかった思いを取り戻すのに随分と時間がかかってしまったけれど、やっと、もう一度あなたに恋をしたのだと。
もう手袋をする事もなくなり、時折声を上げて笑う事もある冬星の竜は、その告白にどんな顔を見せてくれるだろう。
だが、人間はとても狡賢いもの。
大事な竜になったハルヴェールが取り返しがつかないくらいに落ち込んでしまうかもしれないので、あの牢獄にいたアンティが、彼を苦しめる為だけに大人しく死のうとしていた事は、これからも秘密なのだ。
人間はとても執念深い生き物なので、そのくらいの秘密は許して貰おうと思っている。
本日で完結となります。
アンティとハルヴェールのお話に最後までお付き合いいただき、有難うございました!
なお、アンティが置き換えで手に入れたのは、割と一般的な水の系譜の魔術です。
本人はステーキを焼ける火の系譜も考えていましたが、ハルヴェールが大火事を起こすかもしれないと心配し、水の系譜となりました。