9 その先には、手を血だらけにした上崎君がいたのです。
階段を下ると、古ぼけた木のドアがありました。微かにピアノの音が聞こえます。イチサンがドアを開けると、リリンと鈴の音が鳴りました。
「いらっしゃい」
ドアの向こうは、とてもお洒落な空間でした。九時を回ったところだというのにお客さんがひとりもいないところが気になりましたが、全て木でできた空間は、私の心を和ませてくれました。
バーカウンターの後ろには、たくさんのビンが置いてあります。全てがお酒なのだとしたら、私は一生かかっても全てのお酒を知ることはできないと思いました。
「寒い夜ですね」
「ええ」
マスターの言葉にイチサンは相槌を打つと、カウンター席に腰かけました。白いひげを生やしたダンディなマスターが、今日のターゲットです。
「ギムレットを」
イチサンがお酒を飲むところを、私は初めて見ました。私は未成年ですから、イチサンと一緒に飲みに行こう、なんてことはできないのです。
「オレンジジュースもありますよ」
イチサンに言われ、私はそれで、と答えました。私の隣に座る上崎君も、小さく「俺も」と言います。緊張しているのでしょうか、それともやはり疲れが取れないのでしょうか、少しだけ元気がありません。さっきの減らず口はどこにいったのでしょう。
「では、オレンジジュースをふたつ」
マスターは静かに頷くと、よく磨かれたガラスのコップに、オレンジの粒が入っているジュースをついでくれました。差しだされたコップをイチサンが受けとり、私たちの前に置いてくれます。
イチサンが頼んだギムレットというカクテルは、黄色のお酒でした。館長をイメージさせる色だから頼んだのかな、と思いました。
イチサンは、すぐに本題にはいりました。少しだけ身を乗りだし、マスターに問います。
「藍野さん、ですね」
マスターはぴくりと眉を動かしました。返事はしませんでしたが、反応そのものが答えになっていました。イチサンは続けます。
「質問があります。あなたは、十年と少し前に、妹さんを亡くしましたか?」
世間話もせず、挨拶と注文を終えたらすぐに本題に入る。その度胸はさすがだと思いながら、私はだまって二人の会話を聞いていました。
マスターはふう、とひとつため息をつくと、手にしていたグラスを静かに置きました。両手ががらあきになり、私は少しだけ警戒を強めます。
「亡くしましたが、何か?」
平静を装ってはいるようですが、明らかに少しいらついた語調で、マスターは言いました。一方のイチサンは、変わらずに飄々と質問を続けます。
「貴方は犯人を恨んでいる。そのために始めたバーですね? 取引のために使える場所として、貴方はこのバーを開いた。どんな取引があっても黙っている代わりに、大量の報酬を得る。そのお金で、殺し屋を雇う予定だとか」
「お客様も、このバーを使用したいのですか?」
マスターは肯定も否定もせず、あくまで落ち着いた様子で交渉を始めました。私は、マスターから目を離しませんでした。イチサンがにこりと笑います。
「そうなるかもしれません。その前に質問を」
いつものはったりです。しかしマスターは、イチサンを客と判断したのか、少しだけ表情を緩めました。
「殺し屋の話は本当でしょうか」
「ええ。どこから仕入れた情報か知りませんが、別に隠していることでもありません」
「貴方自身の手で殺しはしないのですか?」
「私が人殺しになってしまったら、妹が悲しみます」
「なるほど賢明です」
イチサンは楽しそうに頷くと、最後に、と言ってカクテルを一口飲みました。
「貴方の妹さんが受けた傷は、バツ印でしたね。首元の傷だと伺っています」
「……ええ、そうでした」
客になり得る相手からの質問だからでしょうか、マスターは正直に頷きました。
「辛い記憶を呼び戻してしまい、申し訳ございませんでした」
会話は終わりです。イチサンは今頃、考えていることでしょう。この人は十年もの間、自分を恨み続け、自分を殺す、そのためだけに生活をしてきた。そんな生活を、もう終わらせてあげなければ。彼を救わなければ、と。
イチサンが、手にしていたカクテルをマスターの目にめがけてかけました。突然の攻撃に、マスターは身体をそらしましたが、上手くよけることはできませんでした。強い酒が、目に入り、反射的に目を強くつむります。
ここまでは予想内でしたが、ここからが予想外でした。パン、とはじけるように、ガラスの割れる音がしたのです。イチサンの援護をしようとしていた私は、反射的に音のした方向を見ました。
その先には、手を血だらけにした上崎君がいたのです。




