9 私も、もうすぐ
上崎君は、血まみれの手を震わせながら、ガラスのかけらを手にしていました。おそらく、握力のみでガラスのコップを割ったのでしょう。ゆっくりとした動作で、彼は椅子を降りました。
殺す、と彼は叫びました。何が起こったかを判断することはできませんでしたが、私は立ちあがると同時に、背の方にいるイチサンに向かって叫びます。
「任務優先を」
了解の返事の代わりに、ばきりと何かが折れる音がしました。それと同時に、マスターの唸る声が聞こえます。きっと、顎かどこかにイチサンの拳が当たったものと思います。マスターのうなり声をかき消すかのように、上崎君がもう一度叫びました。
殺す。
上崎君が握っているガラスのかけらが、手に食い込んでいきます。振りあげた右手がどこへ向かうのかは分かりませんでしたが、私はがらあきになった彼の右わき腹に、迷いなく蹴りをいれました。
まるで獣のような叫び声をあげながら、彼は後ろに飛んでいきました。倒れた彼に、私はまたがり、右手からガラスのかけらを取りあげました。
「邪魔をするなっ、邪魔をするなよ、邪魔を、あああっ」
両手両足、ありとあらゆるところをばたつかせ、上崎君は私から逃れようとしました。
「どうした急にっ」
私が訊くと、上崎君の口からとんでもない発言が飛び出しました。
「バツ印の傷って言いやがった、俺の、姉ちゃんの傷も、首元にバツ印だったんだ」
うそ、と私は言いました。もちろん、上崎君の言葉は、嘘でも何でもありませんでした。
「あいつを殺すために俺は」
あいつを殺すために俺は。
言葉を、失いました。はっと私が息を吸い込んだその隙を、上崎君は逃しませんでした。
彼は横に転がって私を振りほどくと、傍にあった椅子に手をかけました。それを両手で持ち、思いきり振りあげながら、イチサンに向かっていきます。イチサンは、ちょうどマスターを殺害しているところでした。机の上に跪いているイチサンと、その向こうに沈んでいくマスターの足が見えました。いつものように首にナイフを突きつけたのでしょう。
イチサンは血を浴びながら、無表情で上崎君の方向に顔を向けます。私はすぐに立ちあがり、上崎君の方へ向かいました。
上崎君は机の上にのぼると、訳の分からない叫び声をあげながら椅子の脚を持ち、振りまわしました。椅子の背が、壁に並べられている酒という酒をなぎ倒していきます。
イチサンはその椅子を、身体を後ろにそらすことで避けました。思いきり振りまわし過ぎたのでしょう、上崎君がふらりとバランスをくずします。
私が手を伸ばすと、ぎりぎり椅子に手が届きました。それをひっぱると、上崎君は完全にバランスを崩し、背中から地面に向かって落ちていきました。
落ちていく彼に私は手を伸ばし、首元をつかまえると、身体の方向を無理やりに変えさせ、彼の後頭部が私の方を向くようにしました。うなじの下に向かって、手加減なしで手刀を繰りだすと、上崎君の身体全体からすぐに力が抜けました。
血と酒の匂いが混ざった妙な香りが、部屋全体を包みました。イチサンは机から軽々と降りると、顔についた血を拭いました。
「ヨーちゃん」
彼が私にかける言葉を、私は聞きたくありませんでした。声になりません。首を何度も横に振り、イチサンの言葉を拒みましたが、イチサンはいつものように微笑むと、あっさりとその言葉を口に出してしまったのです。
「二十番君は、どうやら私を殺したいほどに恨んでいるようですね。私が、彼のお姉さまを殺害した、そう、彼は言いましたか」
イチサンは、歯を見せ、とても嬉しそうに言いました。
「私も、もうすぐ死ねるのですね」
いつかこの日が来るのは分かっていました。
しかし、辛くて辛くて、私は初めて、死んでしまいたいと思いました。
神様か、誰か、きっと自分で死ぬことを許してはくれなさそうな人に、私は祈ったのです。
私を今すぐここで殺してください。
死は、安らぎなのでしょうか。
しかし確かに、私はあのとき、死ぬほどに、本当に死ぬほどに、辛かったのです。
イチサンが、もうすぐ死んでしまうのですから。




