タイトル未定
第十九章 皆
前よりもゆっくりだった。
セレナの鼓動と同じ速さだった。
彼女も気づいたらしい。
銀の瞳を見開いている。
「あとで説明してください」
「わからない」
「では、一緒に調べます」
ノクスが吠えた。
空の黒い月が砕け、すべての欠片が身体へ集まる。
今度は山より大きくなった。
胸の穴が世界を吸い始める。
海水が浮き、船が引かれる。
遠くの島から木々が抜ける。
空の星まで揺れた。
――私は飢えだ!
声が大陸を震わせる。
――生きる限り、誰も私を捨てられぬ!
レイは否定しなかった。
腹は減る。
力を欲しいと思う。
セレナと永く生きたいとも願った。
「捨てない」
夜凪を鞘へ収める。
「ただ、お前には渡さない」
セレナが背後で剣を掲げた。
銀の光が夜凪へ集まる。
学院の競技で、一度だけ使った形だった。
今度は、月冠の光ではない。
彼女自身の光だった。
ミラが壊れた義手を上げた。
ロウが折れた弓を空へ向けた。
ユリウスが大剣を掲げる。
エルドの杖から火が昇る。
船にいる冒険者も、騎士も、生徒も、それぞれの魔力を放った。
色の違う光がセレナへ集まり、銀に変わる。
そのすべてが、夜凪の白い筋へ入った。
刃は食わなかった。
預かった。
レイはノクスの胸の穴を見た。
空腹の中心。
何もない場所。
そこに、動く前の沈黙があった。
足を踏み出す。
空間が割れた。
一歩で、ノクスの前へ着く。
黒い月が口を開く。
世界ごと呑もうとする。
レイは刀を抜いた。
「黒月――夜凪」
振った。
音はなかった。
黒い月に、白い傷が走った。
傷は空の端から端まで伸びた。
ノクスの身体を通り、胸の穴を二つに分ける。
黒い月が止まった。
――飢えは、消えぬ。
「知っている」
――ならば、私は戻る。
「そのたび斬る」
ノクスの顔が歪んだ。
怒りではなかった。
笑っていた。
十五年前、森で聞いた笑いと同じだった。
――それでいい。
黒蝕王の身体が、夜へほどけた。
黒い月も消えた。
あとには、本物の月があった。
欠けた半月だった。
その光が鏡海を照らす。
海は静かだった。
けれど、もう鏡ではない。
小さな波が、岸へ向かって進んでいた。
第十九章 夜明けの岸
夜が明けた。
それだけのことに、皆がしばらく気づかなかった。
黒い月のあった場所から、朝の光が差している。
海に浮いていた骨は崩れ、白い砂になった。
船は半分以上沈んだ。
無傷の者は一人もいなかった。
それでも、生きている者の声がした。
名を呼ぶ声。
泣く声。
笑う声。
レイは海の上に立っていた。
足元には、セレナの風がある。
刀を鞘へ戻すと、急に身体が重くなった。
海へ落ちる前に、セレナが腕を掴んだ。
「死なないのではなかったのですか」
「死なない。疲れた」
「先に言ってください」
二人で海へ落ちた。
冷たかった。
近くの船から縄が投げられる。
甲板へ上がると、ミラが座り込んでいた。
砕けた義手を足元に置いている。
「派手にやったね、鬼神様」
「そう呼ぶな」
「じゃあ、神様」
「斬るぞ」
「元気そうで何よりだ」
ロウは甲板に仰向けになっていた。
狼の耳だけが動く。
「魔物じゃないとは聞いた。神とは聞いてない」
「俺も今知った」
「お前はいつもそうだな」
ユリウスがエルドを連れてきた。
老人の腹には包帯が巻かれている。
傷は深いが、命に別状はないらしい。
エルドはレイを上から下まで見た。
「角以外は、あまり変わらんな」
「大きくなる必要がない」
「その考えを入学した日に持ってほしかった」
「門のことか」
「机も、壁も、炉もだ」
セレナが目を逸らした。
王城の門を思い出しているらしい。
救助は夕方まで続いた。
黒い巨人に囚われていた者も全員助かった。
ヴィクトルは鎖で繋がれ、船底へ運ばれた。
黒い石を失った彼は、ひどく老いていた。
白い髪。
痩せた腕。
見た目はエルドより年上だった。
レイが会いに行くと、鉄格子の中で目を開いた。
「殺しに来ましたか」
「聞きに来た」
「何を」
「なぜノクスを戻した」
ヴィクトルは笑おうとした。
咳だけが出た。
「私は五百年前、飢饉で家族を失った」
セレナが息を止める。
人間が生きられる年月ではない。
「黒蝕蟲に寄生させ、不死を得たのか」
「不死ではありません。奪った命を継ぎ足しただけです」
ヴィクトルは自分の手を見た。
「王も神も、腹を満たした者だけが正義を語る。ならば、一度すべてを空にすればいい。誰も持たず、誰も奪われない世界に」
「何もなければ、誰も生きられません」
セレナが言った。
「だから、苦しまない」
「死者の望みを、生きている者へ押しつけたのですか」
「あなたにわかるものか。死なぬ王女よ」
セレナの顔が強張った。
レイは鉄格子の前に立った。
「こいつは死んだ」
ヴィクトルが見る。
「痛みも知っている。お前より多く死ぬかもしれない」
「何を――」
「生きるたびに、失うからだ」
セレナがレイを見た。
銀色の瞳が、ゆっくり緑へ戻っていく。
ヴィクトルは黙った。
「王都へ連れていきます」
セレナが告げた。
「あなたが奪った者の名を、一人ずつ答えてもらいます」
「覚えていない」
「思い出すまで待ちます」
彼女には、その時間がある。
それを刃ではなく、裁きに使うと決めたのだ。
港へ戻るまでに、七日かかった。
各地の黒い月は消えていた。
灰に侵された魔物も、少しずつ元へ戻った。
戻らないものもいた。
すべてが救われたわけではない。
港には大勢の人が集まっていた。
歓声が船まで届く。
黒月を斬った冒険者の噂は、先に渡った伝令鳥が運んでいた。
レイは船尾へ隠れた。
「何をしているのです」
「目が多い」
王都へ来た日と同じだった。
ただ、向けられる目が違う。
恐れより、期待が多い。
レイには、どちらも落ち着かなかった。
セレナが隣へ立つ。
「逃げますか」
「森へ行く」
「同じことです」
「お前は王都へ戻るのか」
セレナは港の先を見た。
王都は遠い。
その向こうに、父のいない王城がある。
「一度は戻ります。報告することがあります」
「そのあとは」
「冒険者の依頼が残っています」
灰峰と鏡海の調査報告。
壊した下水管の弁償。
逃げた猫の飼い主から、もう一匹探してほしいという指名依頼も来ていた。
「猫は嫌だ」
「黒蝕王には勝てたのに?」
「あれは逃げない」
セレナが笑った。
朝日を受けた金色の髪が揺れる。
レイはその横顔を見ていた。
百年後も変わらないのだろう。
自分も変わらない。
その事実が、今になって胸へ落ちた。
「セレナ」
「何ですか」
「俺も行く」
「猫探しに?」
「そのあともだ」
セレナは何も言わなかった。
代わりに、冷たい手を差し出した。
レイは握った。
港の歓声は、まだ苦手だった。
それでも二人で船を降りた。
第二十章 帰る場所
王都へ戻ると、門は新しくなっていた。
以前より厚い。
表面には魔力を散らす銀の線が入っている。
門番がレイを見て、次に門を見た。
「壊さないでください」
「開けば壊さない」
すぐに開いた。
学院の食堂では、肉が本当に二倍になっていた。
ユリウスが約束を守ったらしい。
レイは三倍食べた。
セレナは以前と同じ席に座り、その様子を見ていた。
生徒たちはもう距離を取らなかった。
近すぎるくらいだった。
鬼神の角に触ろうとする者。
夜凪を見せてほしいと頼む者。




