月の無い森
目を覚ましたとき、最初に感じたのは寒さだった。
次に、腹の底を揺らすような空腹。
最後に、自分を見下ろす二本の腕だった。
灰色の肌。人間のものとは思えない太さ。指先には、黒い爪が生えている。
少年はしばらく、自分の手を眺めていた。
泣き声は出なかった。
泣くという行為を知っていたかどうかも、もう思い出せなかった。
ただ、木々の隙間から差し込む月明かりが、やけに遠く見えた。
森は深かった。
幹の太い木々が空を塞ぎ、湿った苔が岩を覆っている。どこかで獣が鳴き、枝の上では見たことのない鳥が羽ばたいた。
少年は立ち上がろうとした。
膝が折れた。
そのとき、頭の中で声がした。
――個体名、未設定。
――種族、オーガ。
――固有技能《万象喰らい》を獲得しました。
意味はわからなかった。
それでも、声だけははっきり聞こえた。
目の前に、淡い光の文字が浮かんでいる。
【進化点:0】
少年は、文字に手を伸ばした。
指は光をすり抜けた。
森の奥で、何かが動いた。
大きな音ではない。枝を踏む音ですらなかった。だが、少年にはわかった。
こちらを見ている。
暗闇の向こうに、赤い目が二つ浮かんだ。
獣の息づかいが近づいてくる。
少年の腹が、ぐう、と鳴った。
赤い目の持ち主が、低く唸る。
少年は逃げなかった。
逃げる場所がなかったからではない。
腹が減っていたからだ。
足元に落ちていた石を拾う。拳ほどの大きさだった。
獣が跳んだ。
少年は横へ転がった。
爪が肩をかすめ、熱いものが流れた。痛みよりも、獣の横腹が目の前を通り過ぎたことのほうが印象に残った。
石を握る。
立ち上がる。
振り向いた獣が、もう一度こちらへ向いた。
今度は、待った。
獣の足が地面を蹴る。
その瞬間、少年は一歩だけ前へ出た。
石を振り下ろした。
硬い感触が手のひらに伝わる。
獣の頭蓋が砕けた。
赤い目の光が消え、黒い身体が苔の上に落ちる。
静かになった森で、あの声が再び響いた。
――魔物の討伐を確認。
――進化点を獲得しました。
【進化点:1】
少年は倒れた獣を見つめた。
それから、牙を立てた。
肉は硬く、血は温かかった。
遠くで、誰かが笑った気がした。
――お前は、こちら側の者ではない。
意味のわからない言葉だった。
少年は顔を上げた。
月は、雲に隠れていた。
その夜、森には月がなかった。
第一章 名前のない子
森で生きるには、三つのことを覚えなければならない。
食べられるものを見分けること。
食べられないものから逃げること。
そして、逃げてはいけないものを見誤らないこと。
少年がその三つを理解するまでに、二年かかった。
最初のころ、彼は何度も死にかけた。
毒のある茸を食べて動けなくなった。沼に棲む蛇に噛まれた。木の上から落ちて、三日間まともに歩けなかった。
それでも、死ななかった。
死ぬ前に、たいてい何かを殺した。
角の生えた兎。
骨のような外皮を持つ犬。
翼のある蜥蜴。
強い魔物を倒すたび、頭の中に数字が増えていった。
【進化点:8】
【進化点:17】
【進化点:42】
数字が増えると、選べるものも増えた。
《身体強化Ⅰ》
《火属性適性》
《短剣術》
《毒耐性Ⅰ》
少年は、その中から必要なものを選んだ。
まず、火を選んだ。
次に、傷を治す力を選んだ。
そのあとで、武器を扱う力を選んだ。
選んだ能力は、最初から身体に馴染んだ。だが、使いこなせるわけではなかった。
火を出せても、風が強ければ消える。
傷を治せても、深く裂かれれば時間がかかる。
武器を扱えても、相手のほうが速ければ意味がない。
だから少年は、森を走った。
木々の間を抜け、崖を登り、濁流を渡った。
雨の日も、雪の日も、眠る前に必ず一度は武器を振った。
武器と呼べるものは、最初は折れた枝だった。
次に、魔物の骨。
その次は、石を削った刃。
どれも長くは保たなかった。
ある日、少年は黒樹の谷で大きな魔物を倒した。
赤い鱗を持つ四つ足の獣だった。首を斬り落としたあとも、身体がしばらく動いていた。
少年はその魔物の角を拾った。
硬く、軽く、刃物のように鋭い。
削って柄をつければ、今までの骨よりずっと使いやすかった。
それからの数か月、少年は角の刃を使った。
戦い方が変わった。
大きく振り回さなくなった。
相手の爪を避け、喉を狙い、必要な場所だけを切る。
森の獣は、力だけで動いていない。
足音がある。
呼吸がある。
動く前の沈黙がある。
少年は、それらを少しずつ覚えていった。
そのころには、彼の身体は最初のころよりずっと大きくなっていた。
角も伸びた。
肩幅は人間の大人を超え、牙は口を閉じていてもわずかに見えるようになった。
ある夕暮れ、少年は深緑の心臓と呼ばれる場所に立っていた。
そこには巨大な樹があった。
根は地面から露出し、まるで地中から這い出した蛇のように絡み合っている。幹の中央には、黒い空洞があった。
少年はその中へ入った。
奥には、石造りの部屋が残っていた。
森の中にあるものとは思えない、まっすぐな壁。
床には、読めない文字が刻まれている。
部屋の中央に、一本の刀が置かれていた。
鞘は朽ちていた。
柄には黒い布が巻かれ、鍔には欠けた月のような模様がある。
少年は刀の前にしゃがみ込んだ。
触れた瞬間、頭の奥が痛んだ。
知らない景色が流れ込んでくる。
白い天井。
眩しい光。
誰かの声。
走る車輪の音。
そして、雨に濡れた道路。
少年は反射的に刀から手を離した。
胸が苦しかった。
何かを思い出しかけた。
だが、思い出してはいけないような気もした。
石室の壁に、ひとつだけ読める文字があった。
――夜凪。
少年はそれを指でなぞった。
意味はわからない。
けれど、口に出してみた。
「……よなぎ」
声が、初めて森に響いた。
その瞬間、刀の鞘の内側で、何かがかすかに鳴った。
少年は刀を持ち上げた。
重かった。
今まで扱ったどんな武器よりも重い。
だが、持てないほどではなかった。
鞘から抜く。
刃は途中で折れていた。
残った刀身は細く、わずかに反っている。黒い刃の表面には、月明かりのような白い筋が一本だけ走っていた。
少年はそれを見つめた。
奇妙なことに、懐かしかった。
初めて見るはずなのに、ずっと前から知っていたような気がした。
その夜、少年は折れた刀を持って巣へ戻った。
洞窟の前で、巨大な影が待っていた。
灰色の肌。
頭から伸びる二本の角。
少年の三倍はある身体。
ヴェルグラン大森林の奥に住む、古いオーガだった。
少年は角の刃を構えた。
古いオーガは笑わなかった。
ただ、赤い目で折れた刀を見た。
「それを、どこで拾った」
少年は答えなかった。
答えられなかった。
古いオーガは、少年の顔を見て、それから刀へ視線を戻した。
「その刃は、お前を選んでいない」
風が吹いた。
木々の葉が一斉に揺れる。
「だが、お前もまた、選ばれるために生まれたわけではない」
少年は意味がわからないまま、刀を握り直した。
古いオーガは背を向けた。
「名はあるか」
少年は首を横に振った。
魔物の間に、名前は必要なかった。
古いオーガはしばらく黙ったあと、森の上を見た。
雲の切れ間から、細い月が現れていた。
「ならば、月を見たときに思い出せ」
「……何を」
「自分が、何者であったかを」
古いオーガはそれだけ言うと、闇の中へ消えていった。
少年は、折れた刀を見た。
それから空を見上げた。
月は細かった。
黒い空に、白い傷のように浮かんでいる。
少年は、石室で見た文字をもう一度口にした。
「夜凪」
その音は、自分のものではない気がした。
けれど、嫌いではなかった。
少年は考えた。
もし、名前が必要なら。
もし、自分で選んでいいのなら。
月を意味する言葉がいい。
森で見た最初の光を、忘れないために。
その夜、彼は初めて自分を呼ぶ言葉を決めた。
「レイ」
誰も返事をしなかった。
だから、もう一度だけ呼んだ。
「俺は、レイだ」
森は静かだった。
しかし遠く、黒樹の谷の方角で、何かが低く唸った。
まるで、その名を聞きつけたものがいるように。
レイは折れた刀を抱え、洞窟の奥へ戻った。
翌朝から、刀を直す方法を探し始めた。
十五歳になるまでに、人間の町へ行くことになるとは知らずに。
その町で、自分を敵と呼ぶ金色の髪の少女に出会うことになるとは知らずに。
ましてや、あの細すぎる刃が、いつか世界の夜を斬り裂くことになるなど、知るはずもなかった。
ただそのときのレイにわかっていたのは、ひとつだけだった。
腹が減っている。
そして、今日も森は危険だ。
ならば、狩りに行くしかない。
折れた刀を腰に差し、レイは朝靄の中へ歩き出した。
彼の背後で、石室の壁に刻まれた古い文字が、誰にも見られないまま淡く光った。
――黒月、再起動。
その光は、すぐに消えた。
森の朝は、何事もなかったように始まった。
第二章 森を出る日
レイが夜凪を拾ってから、七年が過ぎた。
折れた刃は、そのままだった。
魔物の骨を砥石にしても、炎で炙っても、黒い刀身には傷ひとつつかなかった。足りない部分を別の金属で継ごうとすると、その金属だけが灰になった。
それでもレイは、毎日振った。
短い刃で間合いを測り、足りない長さを一歩で補った。
十五歳になった朝、森に鉄の匂いがした。
血の匂いも混じっていた。
レイは木々の間を走った。
辿り着いた先で、三人の人間が牙熊に追われていた。二人はすでに倒れ、残るひとりは白い外套を泥に汚していた。
老人だった。
杖を構えているが、右腕が折れている。
牙熊が立ち上がった。
レイはその背後へ降りた。
夜凪を抜く。
黒い刃が、牙熊の膝裏へ入った。
巨体が傾く。
老人を狙って開いた口へ、レイは左腕を差し込んだ。
牙が肉に食い込む。
そのまま下顎を押さえ、夜凪を喉へ突き上げた。
牙熊が震えた。
やがて、動かなくなった。
――魔物の討伐を確認。
――進化点を獲得しました。
【進化点:4261】
レイは腕を引き抜いた。
傷口が塞がっていく。
老人は、その様子を黙って見ていた。
「助かった、と言うべきなのだろうな」
「好きにしろ」
人の言葉で返すと、老人の眉が上がった。
レイに言葉を教えたのは、古いオーガだった。
名をガルドという。
一年に数度だけ現れては、言葉と剣を教えた。理由を聞いても、答えたことはない。
老人は倒れた同行者を確かめた。二人とも息はあった。
「私はエルド・グレイベル。王立ルーセント魔法剣学院で教師をしている」
「レイだ」
「家名は」
「食えるのか」
エルドは一度まばたきをした。
それから、声を立てて笑った。
人間の笑い声を近くで聞くのは初めてだった。
嫌な音ではなかった。
エルドたちは、森の魔力脈を調べに来たという。
この数年、月のない夜が増えている。
森の魔物は凶暴になり、北では黒い灰が降った。
「お前の刀を見せてもらえるか」
レイは夜凪の柄に手を置いた。
「奪うなら斬る」
「見るだけだ。命を拾った直後に、捨てる趣味はない」
エルドは刀身に触れず、欠けた月の鍔を見た。
笑みが消えた。
「これを、どこで」
「森の石室だ」
「……黒月遺物」
その言葉を聞いた瞬間、夜凪が低く鳴った。
森の奥で聞いた唸りに似ていた。
エルドは懐から銀色の札を取り出した。学院の入学推薦状だった。
「その刃を直せる者が、王都にいる」
「誰だ」
「ドワーフの鍛冶師だ。ただし、気難しい」
レイは札を受け取らなかった。
「人間の町に、オーガを入れるのか」
「私の生徒には蜥蜴人も獣人もいる。前例は、作ればいい」
遠くで木が折れた。
ガルドが現れた。
老いたオーガは、以前より小さく見えた。左の角には新しい亀裂が入り、胸には黒い灰が付いている。
「行け、レイ」
それが最初の言葉だった。
「戻ってきたばかりか」
「森が、お前を隠せなくなった」
ガルドはエルドを見た。
二人の老人は、知り合いを見る目をした。
だが、どちらも何も言わなかった。
レイは気づかないふりをした。
「夜凪を直して、戻る」
「戻るころには、同じ森ではない」
ガルドは腰から小さな鞘を外した。
中には、折れた夜凪の先端が収まっていた。
白い筋の続きが、刃に浮かんでいる。
レイは動けなかった。
七年探しても見つからなかったものだった。
「なぜ持っていた」
「預かったからだ」
「誰に」
ガルドは答えなかった。
代わりに、刃先をレイへ渡した。
「月を呑むな。月に呑まれるな」
また、意味のわからない言葉だった。
ガルドはいつもそうだった。
レイは二つの刃を布で包んだ。
その日の夕方、洞窟を出た。
持っていくものは少なかった。
夜凪。
角の小刀。
黒パン三つ。
黒パンはエルドが分けてくれたものだった。硬かったが、焼いた肉とは違う味がした。
森の境で、レイは振り返った。
ガルドの姿はなかった。
ただ、木の幹に一本の傷が刻まれていた。
半月に似た、古い剣傷だった。
エルドが傷を見て、杖を止めた。
「懐かしいか」
レイが聞くと、老人は歩き出した。
「忘れたいものほど、よく覚えている」
町へ続く道は広かった。
木の根も、苔もない。
レイは落ち着かなかった。
夜になると、雲のない空に月が出た。
森の中で見るよりも大きかった。
夜凪が、布の中でかすかに震えた。
同時に、視界の端へ文字が浮かんだ。
【未解放進化:剣鬼】
【必要進化点:5000】
その下に、見たことのない黒い文字が滲んだ。
――器を見つけた。
レイが見上げると、月の縁がほんの少し欠けていた。
まるで、何者かが噛んだように。




