緊張と加速度と無重力との戦い
この物語は、もしも
「科学的な要望より先に政治的な理由で日本が有人宇宙飛行船を運用」
というシチュエーションでのシミュレーション小説です。
2022年頃の各国をモデルにし、組織名もそのままだが、
個人や計画そのものにモデルはあっても、実在のものではない、
あくまでも架空の物語として読んで下さい。
日曜のアイドル出演の番組は、いよいよ宇宙への出発が描かれた。
スタッフを含め、宇宙に行くメンバーだけが隔離施設に入り、最終調整を行う。
この24時間で体調が崩れたら、宇宙行きは中止とされる。
最後の難関と言えよう。
折角ここまで訓練に耐えて来ながら、この段階で体調不良となれば、全てが無駄となる。
これはチーム全体の問題だ。
1人が伝染病と確認された場合、他のメンバーも症状が無いだけで感染している事が有り得る。
その状態で宇宙ステーションに行くと、現在任務中の隊員にも迷惑がかかる。
故に、本人がどんなに気をつけていても、他のメンバーの都合で中止という事もあるのだ。
全員、いつにない緊張をしている様子が映し出された。
その番組だけでなく、別の番組からも病人は出ず、揃って宇宙船に乗り込む事になる。
「いやあ、こんな場所中々カメラ入りひんなあ」
いつも冷静で明るく振る舞っている男も、緊張の面持ちである。
もう1人の若手アイドルの方は、正直緊張の余り挙動不審となっている。
交換した電話番号から、歳も近い小野に電話かけまくって
「この後どうなるんですか?」
「俺、死んだら家族の事お願いしたいんですけど……」
「トイレ行きたくなったらどうしたらいいでしょうか?」
とか聞いて来る。
そんな事を聞きたいのではなく、英語も話せない中、誰か頼りになる人と話をしていたいだけなのだ。
小野の方は相変わらず塩対応だ。
打ち上げのリポートをする為に訪米した、
「俺も宇宙に行きたかったんだよぉ!」
と最後まで諦め切れていないアラフィーアイドルが
「この人、面白!
ちょっと思い上がった事言うけど、普通、俺たちが元居た事務所の人間にこんな態度取らねえぜ。
ちょっと色々と怖いからさ。
まあ、アメリカ在住なら大丈夫か」
と笑っている。
……その怖いものが、時差や国境を超えて攻撃して来る事を、後から小野は知るのだが。
そして緊張の余り言動がおかしくなっている後輩に対し、
「よし、代われ!
今からでも俺が行く!
お前、降りろ!」
と大先輩が言ったので、後輩も
「いや、行きますってば。
大丈夫っす!」
と虚勢を張るようになって来た。
「ありがとうございます。
助かりました。
こちらもする事他にありまして」
礼を言う小野だったが
「いや、手助けしちゃいねえよ。
本当に俺が行きたかったんだわ」
と返すアイドル。
(今から変更とか、それはそれで大変なんだが)
冗談が通じない小野だが、何はともあれ頻繁な電話が無くなった事で、ほっと一息つけた。
日本で訓練を見て来た秋山たちは、その時のデータを見ながら、
「あの先輩の方が、若手全員よりも、他の番組スタッフよりも、好成績だったんですよね。
特に機械操作、息を止めての行動が抜群。
バックアップ要員ではなく、あの人を乗せた方が良かったのは確かなんですよね」
と呟いていた。
彼が宇宙に行けないのは、ひとえに「3人しか居ない事務所で、万が一事故が有った場合に2人同時に失ったら取り返しがつかない」というリスク分散が理由である。
3人それぞれが仕事を持っているし、リスク管理は大事な事だ。
打ち上げ2時間前、いよいよ宇宙船に乗り込む。
6時間前には最後の食事を終え、宇宙船に乗る前にはトイレを済ませておく。
若手アイドルの方は、固形物は口に出来なかった。
喉は乾いたようで、頻繁にミネラルウォーターを飲み、大先輩のアイドルから
「お前、やめといた方がいいで。
いい加減にせんと、宇宙服着てからトイレ行きたくなってしょうがなくなるで」
と注意された程だ。
そして実際、2時間前には10分おきにトイレに行く有り様に。
「すみません、この先もどうしましょう」
「どうせこの先、オムツ付けんねんから、その中で漏らしや」
「そんな、俺、赤ちゃんじゃないっすよ」
「大の大人でもな、加速度の関係で漏らす人居るようやん。
せやから打ち上げ時はそうするんやで」
なお、加速度によって排泄物が飛び散らないよう、オムツではなく吸引式の服内トイレも開発されているが、幸か不幸か日本製のオムツは性能が良過ぎて「このままで良いんじゃね」となってもいた。
「俺、こういうの履くの、あと30年後かと思ってたわ」
アラフィーアイドルが、堂々と着替えている。
その股間はちゃんと黒丸で隠されていたが。
そして宇宙服着用。
若手の方は、更に緊張は極まって、今度は出るものも出なくなったようだ。
そして宇宙船に乗り込み、シートベルトを締め、カウントダウンを迎える。
若手アイドルの方は、もう片方の番組の方から聞こえた出演者の発言で、やっと開き直れたようだ。
「どうせ爆発したら一瞬でしょ?
もうジタバタしたってしょうがないでしょ。
僕も死ぬけど、君たちを道連れに出来るんなら本望だよ」
「大丈夫ですから。
君がそうして落ち着いている時は事故は起きない。
危ない時は、君は本能的に大騒ぎするから」
「僕は炭鉱のカナリアですか?」
死亡フラグをへし折った程度の気休めだが、何となく落ち着けたようで、静かに打ち上げの時も待つ。
そして打ち上げ。
昔の、真っ先に弾頭で敵地に落とす為に物凄い加速度で打ち上げられたミサイル改造ロケットと違い、最近のロケットは中のもの、人間であれ機械であれ、それを壊さないようにじわっと加速するように調整されている。
打ち上げ3分経過で
「もう宇宙やで。
外見てみい、真っ暗やで」
と言う声に、後輩アイドルは目を丸くする。
「え?
マジ?
もう?
え?
スゲー!
もうスか?」
少し時間が経過し、シートベルトを外せるようになる。
今度は逆に、後輩アイドルがはしゃぎ始めた。
「なんか旅客機と変わんないっすね。
見て下さいよ、浮いてますよ。
うおー、スゲー!」
微笑ましく見ている周囲の面々。
だが宇宙ステーションまでの道中、今度は無重力が彼等を襲う事になる。
若手アイドルは、吐き出す物なんて無い筈なのに、苦しそうに胃液を吐きまくる事になるのだった。




