この世で一番美味しく、この世で一番不味いもの
この物語は、もしも
「科学的な要望より先に政治的な理由で日本が有人宇宙飛行船を運用」
というシチュエーションでのシミュレーション小説です。
2021年頃の各国をモデルにし、組織名もそのままだが、
個人や計画そのものにモデルはあっても、実在のものではない、
あくまでも架空の物語として読んで下さい。
かつて徳川家康は家臣たちに聞いた
「この世で一番美味いものは何か?」
武将たちが様々な料理を並べる中、側室のお梶の方はこう答えた
「それは塩です。
塩が無いとどのような料理も昧を調えられず、美味しくなりません」
続いて家康は
「では一番不味いものは何か」
と問う。
これにもお梶の方は
「それも塩です。
どんなに美味しいものでも、塩を入れ過ぎたら、食べることが出来ません」
と答えたという。
有名ロボットアニメにて、敵の攻撃で倉庫が破損したのか、料理長はこう言った。
「私の不注意で塩が無くなりそうですが、手に入りませんか?」
更にこうも言った。
「塩がないと戦力に影響するぞ!!」
人間が生きていく上で、水は極めて重要である。
しかし、水が多過ぎると体内の赤血球や細胞は壊れてしまう。
適度な塩分が必要である。
これは生物が海という塩水から生まれた為であろう。
人間は塩分を摂取し、そして排泄する。
排泄し過ぎて塩分が不足すると
・脱水症状(口の渇き、頭痛、吐き気)
・倦怠感、脱力感
・低ナトリウム血症(筋肉の痙攣、昏睡)
等の症状を引き起こす。
宇宙ステーションにおいて、塩はペーストのような形で使用されている。
コショウもそうだが、粉末そのままであれば、無重力ゆえに飛び散る為だ。
粉塵と液体の飛沫は両方危険である。
飛沫は電気系統を故障させるし、粉塵も故障や人の呼吸器に入ってしまう危険性がある。
ISSでは調味料としてケチャップ、マスタード、マヨネーズという流動物が使用されている。
やはり飛び散らないものである。
この塩を宇宙ステーションで再生産しようという研究も、「こうのす」の水処理モジュールで行われていた。
塩そのものは、ちゃんと除湿をしていれば数万年でも保存が効く。
そしてそれ程大量には必要としない。
人間が1日に摂取する塩分量は、世界保健機関の目標値で5グラム未満。
単純計算で5グラムとして、6人が「こうのす」に100日滞在するなら必要量は3kg。
25kgで約2千円の塩大袋1個で、八次隊まで維持出来る計算になる。
この大袋1つで、一人辺り5000日は生活出来る。
火星まで往復約3年半としても、4人まで大丈夫だ。
保存用、補給用として問題は無い筈である。
塩生産実験は、自給自足をする必要性という面よりも、廃物再利用の為という側面が大きい。
人間は塩分を欲するが、一方で日々様々な形で排出もする。
直接の排泄の他、汗を洗い流した浴室からの排水、汗が付着した洗濯後の排水にも含まれる。
この排水は水処理モジュールに一元的に集められ、そこで再利用可能な水に浄化されている。
その過程で様々な不純物は除去される。
塩もそこにある。
「廃棄するより再利用出来ないか?」
どうせ水を処理する過程で出るものだったら、再利用出来ないか?
食卓の塩だって、電気やろ過膜等の工業的、化学的手法で生産されているものがあるのだから。
これはあくまでも研究レベルである。
商品レベルで塩生産に使う海水は、塩分濃度3%程。
それに比べれば、生活排水の中の塩分等なんて微量で、商業ベースなら元が取れないとして中止を求められるものだ。
海水から塩を精製する時も、大規模な設備が必要となる。
「こうのす」程度の設備で大量の塩を生産し、人の生活に使えるようには出来ないだろう。
正直、これくらい微量なら廃棄した方が安上がりである。
塩なんてまだ大量にあるのだから。
だが、遥か未来を考えたら違う。
もしも宇宙コロニーのような大人数が生活する密閉空間が出来た場合、もしも火星どころではないもっと遠くに長期間無補給で行く事になった場合、塩は再利用出来た方が良いだろう。
その為には、塩釜で水を沸騰させる方式よりも、酸素を使わず、熱も発生させず、水も出来るだけ蒸気にさせないような方法が望ましい。
採算ベースで考えれば塩釜とか塩田方式が良いのだが、宇宙では事情が異なる。
なので、まずは実験から始めるのだ。
微量でも、それを宇宙船という環境での効率良く取り出す方法を試す。
最初に「この世で一番美味いものは塩で、この世で一番不味いものも塩だ」という逸話を紹介した。
科学的に生成された塩は、正直不味い。
塩化ナトリウムのナトリウムは人間に必要な元素である。
しかし塩化ナトリウムの結晶体なんて、それだけでは塩辛いだけで不味い。
ブランドものの塩、地中海の天日塩とか、ヒマラヤの岩塩とか、そういうものに含まれている他のミネラルこそ塩の味となっている。
「完全な天然塩には及ばないにしても、取り出せた塩を加工して、多少なりとも美味い塩を。
加えるミネラルだって、排水の再生処理の際に不純物として取り出せるのだから」
地上でもまだ実験中である。
「こうのす」にはまだ開発途上の生成装置ではあるが、それを使って微量でも塩化ナトリウムの塊ではない「塩」というものを作る実験も行われていた。
いまだ耳かきで掬う程度にも届かない微量しか得られないが、最初はこんなものだ。
基礎から地道に始め、将来の役に立てようか。
(大量の水を使わず、蒸発させる為に火を使ったり、日数をかけたりせずに、電気や化学的な処理で塩分だけを集める事が出来るなら、塩害地で土壌再生と共に副産物の塩も売れる、その他にも何かしらの使い方が出来るだろうな)
この実験を提唱した者は、密かにそう考えてもいた。




