横断歩道で転ぶと情けなくて恥ずかしくて申し訳ないのに、登山道で転んでもへっちゃらなのはなぜか
ここまで「転んだ日」というテーマで別々の状況をお読みいただいたわけだが、題名の通り、その時の感情には大きな違いがある。
横断歩道では脳内パニックを起こし、友人の話も聞けなくなるほどの羞恥心を抱いたのに対して、登山道では、恥ずかしさも若干感じただろうが、立ち上がってすぐに景色の美しさを認知できるほど落ち着きを取り戻していた。
この違いを生み出すものとして、あまりに単純だがもっともらしい答えを用意することができる。
それは「人の目」である。
しかし同時に矛盾があることにも気づく。
私は普段そこまで他人の目を気にする方ではない、ということだ。私の脳内を覗いた人ならわかってくれると思うが、私は日常的にやかましい人間である。初対面であろうと遠慮することなくマシンガントークを繰り広げ、最終的には「笑いすぎて疲れるから会うのはひと月後にしたい」と言われる。
横断歩道で颯爽と歩く洗練された人間だと思われたいのに、普段はおちゃらけたことしか言わない奴。
ここから導き出せるのは、私は一生に一度しかすれ違わないようなまごうことなき他者の前でだけカッコつけたくなる性質を持つということだ。
ではなぜ、他人の前でカッコつけたくなってしまうのか。むしろ一生に一度しか会わないのならどう思われたって構わないじゃないか、という自分もいる。
幸いにもこれに対する答えもいくつか思いつく。それは例えば、人間に備わる社会性であったり、私の幼少期の経験出会ったりというような社会学的な答えである。いやはや、誠につまらない。
よって別の答えを考えてみよう。何が二つの経験で違うのか。
それは「地面」ではなかろうか。
ご存知の通り、あの白と黒の縞模様は日本全国津々浦々どころか世界に行ったっておんなじ格好をしてそこに横たわっているのである。この多様性の時代にそっぽむいてふて寝しているようにしか見えない。一方で、土と岩と草が入り乱れる登山道は、一口に登山道と言ってもその表情は一歩ごとに全く異なる。沢登り、ロッククライミング、笹を掻き分ける獣道。何が起きても道は道である。汚さとは包容力という人がいるが、全くその通りだ。
手をついて転べば、否応無しに視界は道でいっぱいになる。白と黒の一辺倒な道は私に立ってスタスタ歩くこと以外を許さないが、何が起ころうとへっちゃらな山道は私が転ぶのももちろん構わない。
色々屁理屈を並べ立てたが、実際は他人の目が気になっただけかもしれない。今後、誰もいない横断歩道で転べばまた何かわかるだろう。
今日のところは、ここまで。




