ホスト編4(欠けた心)
ホストクラブの営業が終わり、店内は静寂に包まれていた。
涼介はカウンターに腰を下ろし、手元のグラスを軽く回していた。
氷がカランと小さく音を立てる。
その時、ふと背後から声がかかった。
「——ずいぶん頑張ったな。」
振り向くと、そこには店のオーナー・桐生がいた。
いつものように落ち着いた表情で、煙草の煙をゆっくりと吐きながら、涼介を見つめていた。
「……何の話ですか?」
「とぼけるなよ。お前、もう初めて数ヶ月で売上が3番目に入ってる。」
桐生はカウンターの奥から酒を取り出し、グラスに注ぎながら続けた。
「新人が一瞬売れることはあっても、ここまで継続して売上を上げ続けるのは普通じゃねぇ。」
「……そうですかね。」
涼介は淡々と答えたが、桐生は小さく笑った。
「お前、数字に無頓着だけど、客の扱いは驚くほどうまい。女たちはみんな、お前に夢中になってる。」
「……ありがたいことです。」
「だが——その分、お前に執着する女も増えてきてるよな?」
涼介は、グラスを軽く揺らしながら視線を落とした。
「……どうでしょうか。」
桐生は、しばらく涼介の様子を伺っていたが、やがて少しだけ真剣な表情になった。
「お前、自分のことをどう思ってる?」
「どう……とは?」
「“俺は女を狂わせる”——そう思ってるんじゃないか?」
涼介は、ふと動きを止めた。
——図星だった。
自分に惹かれる女性たちは、最初こそ楽しげに笑っている。
しかし、いつの間にか彼に執着し、離れられなくなる。
愛が狂気に変わる瞬間を、何度も何度も見てきた。
ーーそれを引き起こしているのは、他ならぬ自分であることに違いない。
涼介は、指先をじっと見つめながらぽつりと呟いた。
「……もし、俺が人を狂わせる力を持っていたら?」
桐生は顎をなでながら少し考え、ふっと笑う。
「俺の女房に会わせてやるよ。」
「……奥さん?」
「ああ。もし本当にお前が女を狂わせるなら、うちの女房もお前に夢中になるはずだろ?」
「……冗談ですよね?」
「俺が冗談を言うタイプに見えるか?」
桐生は淡々と言い切る。
「試してみる価値はあるだろ。」
涼介は戸惑いながらも、妙な興味を覚えた。
この店で出会う女たちは、多くが彼に惹かれ、時に依存し、執着していく。
ただのモテる男という範疇を超え、彼に接した人間の多くが、まるで何かに取り憑かれたように彼を求める。
中には影響が軽く済んだ人間もいた。
少し関心を持つ程度で終わる者。
強く惹かれはしても、依存するまでには至らない者。
一歩引いたまま、それ以上踏み込まなかった者。
しかし、影響の大小はあれど、“完全に無反応”な人間は、健斗以外は今までいなかった。
もし、桐生の妻がそうであるなら——その理由を知りたい。
「……わかりました。」
そうして、涼介は桐生の妻と会うことになった。
⭐︎⭐︎⭐︎
数日後、涼介は桐生の家を訪れた。
繁華街の喧騒から少し離れた住宅街。その中でも一際広い敷地に、桐生の家は佇んでいた。
門をくぐると、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。
白砂の敷かれた枯山水の庭に、一本の見事なしだれ桜。その奥には木造の平屋があり、黒光りする瓦屋根が落ち着いた風格を醸し出していた。
「……渋いですね。」
「ガキの頃からこういうのが落ち着くんだよ。」
桐生はそう言いながら、引き戸を開ける。
中に足を踏み入れると、畳の香りがふわりと鼻をくすぐった。
廊下は磨き上げられた無垢の木でできており、縁側からは庭の景色が一望できる。
そこで彼を迎えたのは、小柄で穏やかな笑みを浮かべる女性ーー桐生の妻だった。
彼女は病弱で、長く体を壊しているらしいが、その表情にはどこか落ち着いた幸福感が漂っていた。
「はじめまして、篠宮さん。」
「……よろしくお願いします。」
涼介は、いつものように微笑みながら彼女の目を見つめる。
ーーその瞬間、わずかに心の奥を探るような感覚が走る。
彼は、これまで何度も経験してきた。
目を合わせた途端に頬を染める者。
ぎこちなく視線をそらす者。
無意識のうちに、もっと話したいと距離を詰めてくる者。
だが——
何も起こらなかった。
彼女の瞳には、一切の揺らぎがない。
まるで、初対面の他人に対する礼儀正しい微笑みのままだった。
涼介は、驚きとともに桐生を見る。
「……どうだ?」
「……俺の力は、奥さんには影響しないみたいですね。」
自分でも驚くほど素直にそう言った。
桐生はくっと笑うと、静かに言葉を紡ぐ。
「当然だろうよ。」
「……どうして?」
桐生はグラスを傾け、ゆっくりと続けた。
「俺も、あいつも、“欠けた心”を持ってねぇからだよ。」
「——欠けた心?」
「お前の力は、もともと歪んだ心を映す鏡みたいなもんだ。満たされない何かを抱えた奴ほど、お前に魅了される。そして、その埋められないものをお前に求めてしまう。」
涼介は、思わず息をのんだ。
「……」
「でもな、俺の女房は違う。たとえ病弱でも、金がなくても、どんな状況でも——アイツは”満たされてる”んだよ。」
涼介は、桐生の妻をもう一度見た。
彼女は微笑みながら、お茶を静かにすすっている。
本当に、揺らぎがなかった。
「お前が今まで出会った女たちは、みんな”何か”を欲しがってたんだろう。愛情だったり、承認だったり……何かを埋めるためにお前にしがみついた。」
桐生は淡々と続けた。
「でも、“満たされてる人間”には、お前の力は効かない。」
涼介は思い返す。
影響が軽かった人間はいた。
だが、それは単に執着が薄かっただけで、全く何も反応がなかったわけではない。
興味を抱いたり、少し惹かれたが、理性で踏みとどまれた者たち。
しかし、桐生とその妻のように、“完全に影響を受けない”人間には、これまで健斗を除いて、一度も出会ったことがなかった。
「——欠けてる者同士は、引き合っちまうんだよ。」
桐生はふっと笑い、グラスを傾ける。
「欠けた心は、お前も同じだろ?」
「……俺が?」
「そうだ。お前自身が満たされてねぇから、同じように欠けた奴らを引き寄せるんだよ。まるで磁石みてぇにな。」
涼介は何も言えなかった。
確かに、自分の周りに集まってきた人々——彼らは皆、何かが欠けていた。
そして、自分自身もまた、何かが欠けたまま、生きている。
桐生は涼介をじっと見つめ、静かに言った。
「お前が本当に満たされる時が来たら……その力も、必要なくなるかもな。」
涼介は、言葉を失った。
桐生の言ってる意味が、まだ完全には理解できなかった。
けれど——
なぜか、その言葉だけが妙に胸に残った。




