プロローグ クランクイン前夜の幕引き
木刀の切っ先が、寸分違わず正面の鏡の中心を貫く。
ピタリと静止した刃筋。道場に漂う乾いた白樺の香りと、四十代後半の男が流す汗の匂い。
「……ふぅーっ」
ゆっくりと息を吐き出しながら、霧島兼嗣は木刀を引き戻した。
足の指先から腰、背骨、そして両肩へ。
全身の関節を連動させ、音もなく納刀の所作をなぞる。木刀だから鞘などない。
けれど兼嗣の腰元には、まるでそこに名刀の漆黒の鞘が存在するかのような、淀みない手の動きがあった。
鏡に映るのは、鋭い眼光を宿した男の顔。
無精髭の生えかけた顎、引き締まった口元、そして歴戦の修羅を思わせる、冷徹なまでの眼差し。
――よし。目力はできてる。
兼嗣は心の中で小さくガッツポーズをした。
俳優歴三十年。今年で四十八歳。
兼嗣が歩んできた道は、華やかなスポットライトとは無縁の泥臭い下積みそのものだった。
名もなき足軽A。代官に斬り捨てられる町人B。夜道で主人公に峰打ちされる覆面浪人……。
いわゆる「大部屋俳優」だ。
酒も飲まない。タバコも吸わない。スキャンダルなど起こす暇も金もなく、浮いた噂の一つすら立ったことがない。
世間や業界の連中は、兼嗣のことを「芸の道に己を捧げたストイックな求道者」と呼んだ。
だが、真相はまるで違う。
(……本当はさぁ、俺だって若い頃は女優さんと浮名の一つも流したかったよ! 綺麗な共演者の胸元とかチラ見してドキドキしてただけだよ! 誰が求道者だ、ただの奥手なチキンだよ畜生!)
心の中では毎日のように愚痴と煩悩が渦巻いていた。
ただ、不器用だったのだ。
人付き合いが致命的に下手で、酒席でうまく立ち回ることもできず、女性を前にすると何を話していいか分からず顔が強張ってしまう。
その強張った顔が、監督たちには「重厚な佇まい」と誤解され、結果として悪役や硬派な斬られ役ばかりが回ってくる悪循環に陥っていた。
だが、その三十年は無駄ではなかった。
所作、呼吸、立ち回り。さらには合気道や古流柔術、剣道まで、すべて「画面映えする本物の武士」に見せるために地道に稽古を重ねてきた。
そして昨日、奇跡が起きたのだ。
『兼嗣さん、決まったよ! 秋からの大型時代劇! 時は戦国。地方の弱小領主役……あんたが主役だ!』
マネージャーから電話を受けたとき、兼嗣は一人暮らしの六畳一間で男泣きした。
三十年の苦節が、ようやく報われた。
戦国の荒波を、知恵と意地でのらりくらりと生き延びていく土豪の領主。まさに今の兼嗣が演じるためにあるような役柄だった。
「明日はいよいよクランクインだ。絶対に……最高の芝居をしてやる」
タオルで汗を拭い、稽古場の床に置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。
画面が激しく明滅していた。
「ん? なんだ?」
着信相手は、先日あんなにも興奮した声で吉報を届けてくれた事務所のチーフマネージャー中田だった。
「もしもし、兼嗣です! 明日の入りの時間、確認ですか?」
努めて落ち着いた声で出た兼嗣に対し、受話器の向こうから返ってきたのは、異様な沈黙だった。
ざらついた息遣い。そして、重苦しい声。
『……兼嗣さん。落ち着いて聞いてくれ』
胸がざわつく。何か嫌な予感がよぎる。
だがこういうときすらハッタリをかましてしまう自分が悲しい。
「いやだな、中田さん。俺を驚かせようって魂胆でしょ? ははは、この年になるとね――」
そう言いかけた兼嗣の言葉を、中田が遮った。
『さっき、製作委員会から連絡があった。……番組、白紙だ』
一瞬、言われた言葉の意味が脳に届かなかった。
ハクシ。白紙?
「ははは! 冗談きっついなぁ! けどね、中田さん。その程度じゃ、この俺を驚かせることはできないよ! んで、本題は何? ロケ弁のリクエスト。決まってるでしょ。俺はいつも魚って」
もう一度流れる沈黙。
すぅっと中田の息を吸う音で、ようやく兼嗣も冗談ではないことを確信した。
『中止だよ。打ち切りだ。撮影前にポシャったんだ』
中田の吐き捨てるような声が、冷たい氷水のように耳奥へ流れ込んでくる。
『主要スポンサーが降りた。今どき時代劇なんて数字も取れねえし、若年層のニーズもねえってよ。制作費が膨らみすぎてこれ以上は引っ張れないってさ。……すまん。俺の力不足だ』
「ま、待ってください! 俺のギャラなんてタダ同然でいい! スポンサー集めなら俺だって手伝うよ。だから――」
『もう決定事項なんだよ! 美術セットも全部バラすことになった! 悪いが……明日の現場はなくなった。そういうことだ』
ツーツー、と無機質な電子音が鼓膜を打つ。
兼嗣の手から、スマートフォンが滑り落ちた。
板張りの床にカツンと硬い音が響く。
「う……そ、だろ……」
目の前が急速に白んでいく……。
三十年だ。
若い頃は泥水を啜り、真冬の川に飛び込み、首を撥ねられる演技のために何千回と固い地面に肩から転がり落ちてきた。
甘いものばかりを唯一の楽しみに、誰にも文句を言わず、真面目に、ただ真面目にやってきた。
その果てに掴んだ夢が、たった一本の電話で、クランクインの前日に消え去った。
「あ……がっ……」
胸の奥が、万力で締め上げられたように痛んだ。
息が吸えない。肺に空気が入ってこない。
心臓が早鐘を打ち、視界がぐにゃりと歪む。鏡の中の自分が、まるで水底に沈んでいくように波打っていた。
(俺の……三十年は……なんだったんだよ……)
ドサリ、と倒れ込む音。
木刀が床を転がる乾いた音を最後に、霧島兼嗣の意識は深い闇へと沈んでいった――。
◇◇
どれほどの時間が経ったのだろうか。
頬に触れる、冷たくて湿った感触。
そして、鼻腔を突く強烈な異臭。
(……ん……ここは……救急車、か……?)
病院の消毒液の匂いではない。
これは、土の匂いだ。それも、腐った草と、肥溜めのような生々しい生活臭が混ざり合った、嗅いだことのない泥の匂い……。
兼嗣はうっすらと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、病院の白い天井ではなく、青く澄み渡った秋の空だった。
木々のざわめき。どこか遠くで鳴くカラスの声。
そして――。
「う……あたまが……」
身を起こそうとして、異変に気づく。
体がひどく重い。着ているものが、いつもの稽古着のジャージではない。
ゴワゴワとした麻の感触。泥で汚れ、ところどころが擦り切れたみすぼらしい小袖。足元には、すっかり泥水を含んだ藁草履。
そして何より。
腰の左側に、ずしりと確かな重量感があった。
恐る恐る手を伸ばす。
指先に触れたのは、縄で無造作に巻かれた柄と、ぼろぼろの木鞘。
親指を掛け、わずかに刃を押し出してみる。
――ジャリッ。
嫌な手応えとともに姿を現したのは、刃こぼれだらけで、赤茶色の錆がびっしりとこびりついた、本物の鉄の日本刀だった。
「うわぁああっ!」
兼嗣の喉から、間の抜けた声が漏れた。
立ち上がり、あたりを見回す。
そこは、見渡す限りのあぜ道だった。
黄金色に実るはずの稲は疎らで、荒れ果てた痩せた田畑が広がっている。遠くに見えるのは、藁葺き屋根の崩れかけた粗末な小屋の群れ。
電柱がない。
アスファルトがない。
車の走る音も、飛行機の飛ぶ音も、何一つ聞こえない。
「……ロケ地か? いや、セットにしては匂いまで生々しすぎるだろ。カメラはどこだ? ドッキリ番組か……?」
訳も分からぬまま、土埃の舞う細い小道へ差し掛かった、その時だった。
「きゃああああっ!」
裂帛の悲鳴が、秋の静寂を切り裂いた。
反射的に物陰から視線を向けると、十数歩先で、赤ん坊を背負った若い女が地面にへたり込んでいた。その周りには、ぼろ布をまとった二人の幼子が泣き叫びながらすがりついている。
そして、その女たちを取り囲むように、二人の男が立っていた。
乱れた総髪に、薄汚れた革当て。手にはギラリと鈍い光を放つ長槍と、刃こぼれした鉈。
男の一人が、女の着物の襟元を乱暴に掴み上げ、濁った唾を吐き捨てるように怒鳴り散らした。
「舐めた真似してんじゃねえぞ、アマ! 隠した麦をどこへやった! 出さねえってんなら、まずそのガキの喉笛から掻っ切って川へ放り込んでやるぞ!」
「お、お許しくだせえ……! 本当に、これしかねえのです……!」
女が泥に額を擦り付け、血を流さんばかりに震えている。
その光景を前に、兼嗣の脳内は激しく混乱した。
(な、なんだ……!? 撮影現場か? だが照明もいなければ、音声のマイクも見当たらない。……いや、それ以前に――)
兼嗣の目が、男たちの立ち居振る舞いに釘付けになった。
怒号を浴びせる男の、異様な眼光。
殺意に血走った瞳、浮き出た血管、握りしめた槍の切っ先から立ち上る、本物の「人を殺し慣れた者」特有の濁った空気……。
女の悲鳴も、子どもたちの怯え方も、エキストラや大部屋俳優の出すレベルを遥かに超越していた。
鳥肌が立つほどの、圧倒的なリアリティ。
(……なんだこの連中。誰だ? 劇団の若手か? いや、こんな芝居ができる役者、業界にいたか……!?)
逃げるべきだ。
頭の片隅で、現代人としての理性が警鐘を鳴らしていた。関わらずに立ち去れと。
だが――
三十年の歳月を大部屋の泥水の中で這いつくばってきた、霧島兼嗣という男の「役者魂」が、それを許さなかった。
(冗談じゃない。昨日まで主役に抜擢されていたこの俺が……この得体の知れない連中の『迫真の演技』にビビって尻尾を巻いて逃げ出すのか?)
ここで背を向ければ、役者としての自分は本当に死ぬ。
目の前の男たちが役者であろうと、本物の人殺しであろうと、もはやどうでもよかった。
この圧倒的な空気を前にして、引くわけにはいかない。
(……負けてたまるかよ。三流のチンピラ役ごときが、いい気になって主役の空気を吸うんじゃねえ!)
カチリ、と心の奥で何かのスイッチが切り替わった。
兼嗣は無駄な動きを一切削ぎ落とし、静かに草むらから歩み出た。
足の指先を大地に吸い付かせ、静止した水面を滑るような、完全なるすり足。
背筋をすっと垂直に伸ばし、顎をわずかに引く。
そして――三十年間、時代劇の現場で何万回と見て、身体に叩き込んできた「天下の剣鬼」の所作をなぞるように、親指で腰の刀の鯉口を、静かに弾いた。
――チャキッ。
秋風の吹き抜ける街道に、冷徹な金属音が小さく、けれど異様な明瞭さで響き渡る。
「ああん……? なんだてめえは!」
男たちがぎょっとして振り返り、兼嗣へ凶器を向けた。
兼嗣は眉ひとつ動かさない。
肚の底に息を溜め、大劇場の最後列まで届かせるための、深く、重く、地を這うような重低音を響かせた。
「……五月蝿いぞ、羽虫ども」
ただ一言。
吐き出された声の圧力だけで、男たちの足がピタリと止まる。
兼嗣は冷徹極まる眼光で男たちの喉元を射抜き、これ以上ない傲然たる面構えで言い放った。
「その薄汚い手を引け。……さもなくば、貴様らの首が落ちるのが先か、我が刀が鞘に収まるのが先か、試してみるか?」
大部屋俳優・霧島兼嗣。
四十八歳、独身。人を斬った経験、ゼロ。
彼の人生最大の、命を懸けた「大舞台」の幕が、今まさに上がろうとしていた。




