第一編 始まりの対局
1879年・イギリス — アレクサンドル
第一章 白のキングには顔がない
アレクサンドルがエドガーの屋敷を訪れたのは、11月の雨が降る夜だった。
屋敷の主人エドガーは、黒い手袋をはめた指でチェス盤をなぞっていた。
「君には、どうしても取り戻したいものがあるそうだね」
「妹です」
アレクサンドルは迷わず答えた。
「妹は死にました。でも、もし本当に死者を取り戻せるのなら、僕は何だって差し出します」
エドガーは微笑んだ。
「その言葉を忘れないことだ」
テーブルの上には、黒檀の盤と三十二個の駒が並んでおり、ただ1つ…白のキングだけが異様だった。
他の駒には精巧な顔が彫られているのに、そのキングの顔は真っ白に削り取られていた。
「なぜこの駒だけ顔がないのですか?」
「まだ、誰のものでもないからだよ」
エドガーは答えた。
その瞬間、アレクサンドルは奇妙な寒気を感じた…まるで、その駒が自分を見ているようだった。
対局が始まった。
アレクサンドルは強かった。中盤にはエドガーの駒を次々と追い詰め、勝利まであと一歩のところへ迫った。
しかし深夜2時を回ったころ、奇妙なことが起きた。
白のキングが、誰も触れていないのに1マス動いた。
「この盤には、1つだけ特別な決まりがある」
「何ですか?」
「勝負を途中でやめることはできない」
エドガーは白のキングを指した。
「王が盤上にいる限り対局は続く。勝つか負けるか…そのどちらかが決まるまでね」
アレクサンドルが駒を握りしめたその時、盤の裏側から小さな音がした。
コツン
彼が盤を持ち上げると、底に三本の傷が刻まれており、傷の脇にはかすれた文字がある。
『王を盤の外へ』
「これは何ですか?」
エドガーの顔から、初めて笑みが消えた。
「触るな」
その声は先程とは別人のように冷たく、思わずアレクサンドルは手を引いた。
その一瞬の隙にエドガーが黒のルークを動かし、盤面が崩れた。
そして、白のキングが黒のキングの前に立った。
「チェックメイト」
エドガーが囁いた直後、アレクサンドルの身体が硬直し、視界が暗くなる。
意識が消える直前、彼は聞いた。
「お前は、最初の王になる」
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第二章 消えた妹
気がつくと、アレクサンドルは暗闇にいた。
床も壁もない。
ただ遠くにチェス盤が浮かんでいた。
盤の向こう側には、妹のエミリアが微笑みを浮かべ立っていた。
「お兄ちゃん」
アレクサンドルは駆け寄ろうとしたが、足が動かない。
自分の身体を見下ろすと、指先が象牙のように白くなっていた。
「エミリア、待ってくれ!」
妹は少しずつ遠ざかっていく。
「どうして…こっちに来てくれないの?」
その問いに、アレクサンドルは答えられなかった。
自分は妹を取り戻したかった。
だが本当に望んでいたのは、妹が死ななかった世界ではなく、自分が妹を救えなかったという後悔から逃れることだったのかもしれない。
その事実に気付いた時、エミリアの姿は消え…暗闇の中にエドガーの声だけが残った。
『次の対局者を待て』
アレクサンドルは叫んだ。
「僕をここから出してくれ!」
返事はなく、遠くでチェスの駒が動く音がした。
コトン…
それから百年以上、アレクサンドルは暗闇の中で、終わらない対局を待ち続けることになる。
なぜ白のキングだけ顔が削り取られているのか、盤の裏に刻まれた「王を盤の外へ」とは何を意味するのか、エドガーはなぜその言葉を恐れたのか…




