第14話 保育園のお迎え
一
午後五時二十分。
岡田は会社のオフィスを出て、夕闇が刻一刻と迫る秋の街並みを急ぎ足で歩いていた。
秋の日は釣瓶落としだ。
通り沿いの街灯や商業ビルの看板がぽつぽつとオレンジ色に点灯し始めている。
冷たい秋の夕風が、コートの襟の隙間から滑り込んで首筋を硬く冷やす。
路上には枯れ葉がカサカサと音を立てて風に舞い、家路を急ぐ通勤客の足音が響いていた。
岡田が向かっていたのは、最寄り駅から徒歩五分の静かな住宅街の角にある、私立の「さくら保育園」だ。
岡田には、四歳になる可愛い一人娘の葵がいた。
共働きの妻である真由美が今夜は一泊の地方出張で不在のため、岡田が残業をなんとか切り上げて保育園へお迎えに行く担当だった。
デスクの上の書類を慌ただしく片付け、予定より少し早くオフィスを飛び出してきた。
会社を出る直前に時計を確認したとき、文字盤の針はちょうど五時十分を指していた。
保育園の角を曲がると、ピンク色の明るい外壁の二階建て園舎が見えてきた。
保護者の子供用シート付き自転車が数台、整然とアプローチに停められ、園庭の遊具からは子どもたちの甲高い賑やかな声や笑い声が漏れていた。
岡田は保護者用ICカードを自動扉のかざし口にかざし、カチャリという解錠の電子音とともに園内へ足を踏み入れた。
温かいエアコンの暖房が効いた室内。
下駄箱には小さな子どもたちのカラフルな長靴やスニーカーが並び、廊下の掲示板には手作りの折り紙やクレヨンの絵が賑やかに飾られていた。
甘いホットミルクやおやつのお煎餅のような、保育園特有の懐かしい匂いが漂っていた。
岡田は年少組の「もも組」の教室のドアに向かった。
木製のガラス引き戸を静かに開ける。
教室の中では、数人の子どもたちが積み木やおままごとセットで遊んでいた。
担任の女性保育士である若い佐藤先生が、岡田の姿に気づいて即座に立ち上がった。
「岡田さん、お疲れ様です」
岡田は親しみのある笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「お世話になります。葵のお迎えに来ました」
二
佐藤先生の表情が、一瞬で凍りついたように引きつった。
立ち上がった姿勢のまま、岡田の顔を穴が開くほど強く注視している。
その目には、深い困惑と強い恐怖の色が混ざり合っていた。
手にした連絡帳の束を、指先で固く握りしめている。
「岡田さん・・?」
「はい? 何か?」
岡田は不思議そうに首を傾げた。
葵が急な発熱でも出したのか、それとも園庭で友達と喧嘩でもして怪我を負ったのかと思った。
佐藤先生は声のトーンを極限まで落とし、震える薄い唇を開いた。
「岡田さん・・今日のお迎えは、二回目ですよ」
岡田は言葉の意味がすぐには理解できず、その場でフリーズした。
「え・・? 二回目・・? 何を言っているんですか、先生。私は今、会社から直行して着いたばかりですが」
佐藤先生は周囲の子どもたちの目を警戒するように見回したあと、さらに声を殺して言った。
「そんなはずはありません・・。三十分前の午後五時ちょうどに、岡田さんがスーツ姿でちゃんとここにお見えになりましたよ」
「私が・・五時に?」
「はい。『今日は妻が急な留守なので早く連れて帰ります』とおっしゃって、葵ちゃんの手を優しく引いて一緒にお帰りになりました」
岡田の頭の中が真っ白になった。
「冗談でしょう? 私は五時まで会社で打ち合わせをしていましたよ。スマホの通話履歴や社内メールを見せてもいいです」
「ですが・・間違いなく岡田さんご本人でした。お声も、お顔も、背格好も、着ていらっしゃる黒いコートも・・それに葵ちゃんも『お父さん!』って嬉しそうに駆け寄って、抱きついていましたから・・」
佐藤先生の震える声は、嘘をついているようにはとても見えなかった。
三
岡田の手足から、血の気がすーっと一気に引いていった。
恐ろしい不審者が自分になりすまして、大切な娘の葵を連れ去ったのではないか。
「葵は・・葵は今、どこへ行ったんですか!」
岡田は激しく狼狽して取り乱し、ポケットからスマホを取り出した。
自宅の固定電話の番号へ発信ボタンを焦って押す。
妻が出張中のため、鍵のかかった自宅には誰もいないはずだった。
暗い電子コールの音が二回鳴った。
ガチャリ。
受話器が持ち上がる重い音が聞こえた。
『はい、岡田です』
受話器の向こうのスピーカーから聞こえてきたのは、他人の声ではなかった。
低く落ち着いた、岡田自身の声だった。
岡田は喉の奥で呼吸を止めた。
全身の毛穴が開き、冷や汗が吹き出した。
「お前・・誰だ・・! 葵をどうした!」
岡田は保育園の廊下で大声を張り上げた。
電話の向こうの男は、くすくすと静かに喉を鳴らして笑った。
『何を言っているんだい、自分自身に向かって。葵なら今、目の前で嬉しそうに折り紙で飛行機を作って遊んでいるよ。お腹が空いたって言っているから、これから夕飯の美味しいカレーを作る準備をするところさ』
声の独特のイントネーション、呼吸の混ざり方、滑舌の癖。
何から何まで、鏡に映る自分自身そのものの声だった。
『君はもう、ここに帰ってこなくていいよ。家族の父親は、僕一人で十分だからね』
プツリと、電話が静かに切れた。
四
岡田は保育園の自動ドアを飛び出し、夜の冷たい街をなりふり構わず全力で走った。
息が激しく切れ、脚がもつれそうになりながら、アパートへの暗い抜け道を猛スピードで駆け抜ける。
街灯の黄色い光が視界の脇を狂ったように流れていく。
靴底がアスファルトを力強く叩く音が夜の住宅街に響き渡った。
脳裏の中で、恐ろしい最悪の事態がぐるぐると渦巻いていた。
自分という存在が、自分から奪われる。
自分が愛する家族が、見知らぬ「偽物の自分」に奪われる。
自分がこれまで積み上げてきた大切な生活が、足元から崩れ去っていく。
葵の笑顔も、温かい我が家も、すべてが虚構に変えられていく。
アパートの外階段を一段飛ばしで駆け上がり、二階の自室の前の廊下にたどり着いた。
二〇二号室。
玄関ドアの前のコンクリートの上に、一組の男性物の黒い革靴と、葵の小さなピンク色のスニーカーが、綺麗に並べて置かれていた。
ドアの下の隙間から、温かい自室の明かりが漏れていた。
中から、葵の無邪気な高い笑い声と、テレビのアニメの楽しげな音が聞こえてくる。
そして、トントンとまな板で包丁を使う軽やかな料理の音が響いていた。
スパイスの効いたカレールーの香ばしい匂いが、廊下にまで漂っていた。
岡田はカタカタと震える右手でドアノブを掴んだ。
カチャリ。
鍵はかかっていなかった。
岡田はゆっくりとドアを押し開け、自室の室内へ足を踏み入れた。
五
玄関から狭い廊下を通り、明るいリビングの扉を開けた。
そこにあったのは、完璧な「我が家の温かい夕食の風景」だった。
ダイニングテーブルには、湯気が立つ美味しそうなカレーライスが並べられていた。
出張から予定を急遽早めて帰ってきたらしい妻の真由美が、笑顔でサラダを皿に盛り付けている。
葵が楽しそうにスプーンを握り、口いっぱいにご飯を幸せそうに頬張っていた。
そして、キッチン。
エプロンを身につけ、笑顔で味噌汁の味見をしている一人の男がいた。
その男の顔、髪型、体格、着ている服。
どこをどう見ても、岡田自身だった。
「ただいま」
リビングの男が、岡田の存在に気づき、静かに振り返った。
妻の真由美も葵も、ドアの前に立つ本物の岡田の姿を一度チラリと見たが、まるで空間の空気の塊か何かを見るような、完全に無関心な目を向けただけだった。
認知されていない。
家族の記憶と意識から、本物の岡田の存在が完全に抹消されていた。
妻も娘も、そこに誰かが立っていることすら認識していないような顔をしていた。
キッチンの「岡田」が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
その目は、ガラス玉のように冷たく乾いていた。
口元だけが、不気味で歪んだ笑みを浮かべている。
「言っただろう。ここはもう、僕の場所なんだ」
「岡田」は本物の岡田の肩を強い力で掴むと、力任せに玄関の廊下へ突き出した。
バタン。
リビングの扉が硬く閉じられ、中からカギが静かに施錠された。
暗い玄関の廊下に取り残された岡田。
ドアの向こうから、妻の楽しそうな会話の声と、葵の明るい笑い声が聞こえてくる。
岡田はドアノブを必死で叩き、回そうとしたが、鍵は二度と開かなかった。
自分の名前も、愛する家族も、居場所も。
すべてを奪われた男の悲鳴だけが、静まり返った夜のアパートの廊下に虚しく響き続けていた。




