プロローグ
「……忘れないでね」
暗闇の中に落ちた儚げな女性の声を最後に、俺の意識は途絶えた。
◇
ノイル・デトリスは目を覚ました。
重たくなった瞼を薄く持ち上げ、怠い体を起こす。
ぼやけた視界は徐々に鮮明になり、瞬きを重ねて正常を取り戻した眼球で周囲を見渡す。
蒼い瞳に映った光景。それは、辺り一面が緑に染まる広大な草原だ。
ぽつぽつ、とまばらに生えた木。自由気ままに蛇行する小川。
晴天の空には雲が優雅に泳いでおり、それら全てを煌々と輝きを放つ太陽が鮮やかに彩っていた。
その中でもノイルの視線を独占したのは、地平線の先に映る小洒落た雰囲気の街だ。
その景色は実に長閑で、美しい――知らない世界だった。
吹き抜けた風が純白の髪をさらりと揺らす。
(どこだ、ここ……? 俺、何してたんだっけ……?)
まだ朦朧とする意識の中、ノイルは曖昧な記憶を辿った。
「っ……」
蒼い瞳が激しく揺れ動く。
「ちょっと待て……」
視線を足元に沈めたノイルは頭を抱え込んだ。
「何も、思い出せねえぞ……?」
記憶が——空白になっていた。
覚えていることは自身の名前と、年齢が十七歳ということ。そして、微かに残る夢の記憶だ。
「誰かと一緒にいたような……」
薄く残るのは、夢の中で長い時間を共に過ごした女性の影だ。
ノイルは座り込んだまま瞳を閉ざし、淡い夢の内容を辿った。
記憶の輪郭。
思い出せそうで思い出せない。
必死に掴もうと腕を伸ばすも、その輪郭は指の隙間からすり抜けていく。
探れば探るほどに記憶の影は形を失い、暗闇に溶け込むようにあっさりと消えた。
何か大切なものを忘れてしまったのではないだろうか。
そんなことすらも分からない。
心の底から噴き出した喪失感は、鋭い寂しさに形を変えてノイルの胸を突き刺した。
「くっ……」
奥歯を軋ませたノイルは、俯いたまま思考停止。
孤独な不安が弱った心を圧迫した。
重たい溜息が零れると同時に、薄く瞼を持ち上げる。
その瞬間、眼前に白い影が落ちた。
『ドォンッ!!』
衝撃が響き、砂埃が舞い上がる。
咄嗟に腕で顔を覆ったノイルは、細めた瞳で状況を確認する。
「っ……!?」
眼前には、白銀の髪を持つ長身の男が立っていた。
全身を白いローブで覆う男は、白い鱗の装飾が施された背丈ほどある太刀を背負っている。
表情は乏しく、ノイルと同様の蒼い眼光が、真っ直ぐにノイルを見据えていた。
「誰だよ、お前……?」
震えた声で尋ねる。だが、返事はない。
男は沈黙のままゆっくりとノイルの元へと歩み寄る。
「く、来るな!」
足に力が入らず、腕の力で後退る。
溢れ出す凄まじい威圧感が、ノイルの体の自由を奪ったのだ。
男の足は一歩ずつ着実に歩みを進め、ノイルの目の前で止まった。
目線を合わせるように屈み込む白い男。
直後、分厚い掌がノイルの前頭をガッツリと掴んだ。
「くっ、離せ!」
必死に藻掻こうとも、その腕はびくともしない。だが、不思議と痛みはなかった。
微風だけが吹き抜ける静寂の中に、白い男の抑揚のない低い声が落ちる。
「詳しいことは話せない」
その途端、分厚い掌から淡い光が溢れ出した。
「この力はきっと役に立つ。ノイルよ――山頂を目指せ」
そう言って、手を離した男はそっと立ち上がり、呆然と固まるノイルを見下ろした。
「終わらせよう」
そう言い残した男は、一瞬にして上空へと姿を消した。
「なんで、俺の名前知ってんだ……?」
見知らぬ世界と、突然の出来事に理解が追い付かないノイル。全身に動揺を滲む。
「落ち着け……。落ち着け……」
深呼吸で中途半端な冷静を取り戻したノイルは、男の言葉を思い出して辺りを見渡した。
「山頂を目指せって、山なんかどこに——」
その途端、異様な気配を背中でひしひしと感じ取り、そこで言葉が止まった。
恐る恐る振り返るノイル。
その蒼い瞳に映った光景。それは、世界を区切るように聳え立つ巨大な壁のような山脈だ。
想像もできないほどの規模感に、ノイルは息を呑んで唖然と固まる。
壁のような山脈は、西側から東側を囲うように塞いでおり、中央にかけて徐々に高くなる標高。
山頂は遥かに雲を突き抜けていた。だが、何よりノイルが動揺を覚えたのは、山頂から天高く伸びた一筋の『光の柱』だ。
「なんだ、あの光は……。あそこを目指せってのか?」
到底、人間が登れる高さとは思えない。無理に決まっている。
想像の範疇を遥かに超えた難易度に、明確な不可能を感じる。だが、その反面で、男心をくすぐる未知の好奇心が、ノイルの心を鷲掴みにした。
「あそこに行けば、俺の記憶も……。いや、なんにせよ分かりやすくて助かる」
瞳孔を見開き、引き攣った顔で不恰好に微笑むノイル。
小刻みに震え出した掌を見つめ、不安を塗り替えるように強く握りしめた。
「あの男、俺に何を求めてるんだ……」
溜息のように呟くと、ふと額に違和感を感じた。
さするように額を撫でるノイル。その指先に、ゴツゴツとした硬い感触が伝う。
「んっ、何だこれ?」
額の中心には、白い石が埋め込まれていた。だが、自分では確認できず、前髪で石を隠すように覆う。
「なんかやられてるし……。力がどうとか言ってたけど、死んだりしねえよな?」
不安が過るが、起きてしまったのだから仕方がない。
分厚い溜息を落とし、深呼吸を挟んで落ち着きを取り戻したノイルは、身につけている物をざっくりと確認した。
赤茶色の長袖シャツに、黒のズボン。足元は革のブーツで、腰にはベルトとポーチ。どれも古臭い。
ポーチの中を漁ると、ありがたいことに銀貨が五枚。だが、街で使えるのかは定かではなく、その価値はまだ不明だ。
側に転がっていた一本の剣を目にしたノイルは、咄嗟に唾を飲んだが、剣身はしっかりと鞘に収まっており、拾い上げた際に掌に伝った重みは、自然と安心感が得られた。
「よく分かんねえけど、大丈夫だろ。だって俺だし。何とかやって行けるはずだ」
不安な心に根拠のない自信をこしらえたノイルは、勢いよく立ち上がった。
「まあ、とりあえずは街だな」
遠方に映る街を見据えたノイル。
見知らぬ世界に心拍数を高めながら、未知の世界に新たな始まりの一歩を刻み込んだ。




