第肆話/声
「前々から思っていることなんだけど、君に恋愛感情というものはないのかい?」
鍛錬に励んでいると、木のベンチに腰掛けたヒカリカが呆れた風に声を掛けてきた。
愛剣と甲冑はズーシーがメンテナンスしているため、ズーシーが過去に使っていた剣を用いて素振りに励んでいる。
剣を横水平に振り払うと、しゅんと短く空気の裂かれる音がした。
「おーい、聞こえないのかい?」
剣を正眼に構え、目の前にいる仮想の敵と剣を交える。相手はヒカリカ。
「やれやれ困ったものだ。……今の対応は良くないね。そこは剣を交えず、右足を後ろに引いて相手に空を切らせ、その隙を突いて反撃を狙うべきだ。まぁその程度で私から一本獲ることはできないけどね」
その言葉通り、ガルシャはヒカリカの幻影から首元に剣を突きつけられて敗北を喫した。
これで、七七四戦、七七四敗。
「どうしてそう思う」
額の汗を拭いつつ、ヒカリカに目をやる。
ヒカリカはぱちぱちと目を瞬かせた。
「こいつは驚いた。無碍にされるのは承知の上で茶々を入れていたというのに」
「そうかよ。じゃあ話はこれで終いだ」
「あぁ待って待って。せっかくだから話そう。どうしてガルに恋愛感情がないと思ったのか、という話題だよね。根拠は明白だとも。君はこれまで私を筆頭に幾人もの美女と出逢ってきた。けれど、私はこの二年、君が恥じらう姿を目にしていない。昔は私が構うとすぐに顔を真っ赤にしていたのに、あの頃の可愛いガルはどこに行ってしまったんだい?」
相変わらず無駄によく喋る亡霊だ。
「さぁな」
「さぁなって……。ねぇガル、君は私をなんだと思っているんだい?」
「後悔の残滓だ」
不満げなヒカリカに短く答え、ガルシャは再び稽古に励む。
「やれやれってやつだね……おや、あれはファイじゃないか。随分とおぼつかない足取りだ。手を貸したいのやまやまだけれど、生憎私は触れることができないからなぁ」
剣を振るう手を止めヒカリカの視線の先を追えば、まさしくヒカリカが説明した通りの状況にあるファイがいた。
大きな蔓籠から飛び出した果物がファイの視界を遮っており、おかげで足取りが不安定になっている。見ていて危なっかしいので、蔓籠を持ち上げて彼女を助けた。
「大丈夫か」
「あ、ガルシャさん、ありがとうございます」
「その果物、どうしたんだ」
蔓籠にはこれでもかと色とりどりの果物が盛られている。
「おじいさまの庭で収穫してきました」
散歩してきました、とでも報告するような気軽さでファイは応じた。
「騎士に見つかったらどうするつもりだったんだ」
ズーシーはりんごをひとつ獲っただけであの有り様だった。
実際のところ、数は関係ないのだろう。
皇国の保有する領地から果物を獲った。それを目にしたら、彼らは相手が誰であろうが蹂躙する。同性には暴力を、異性には凌辱を。これまで何度も皇国の騎士の非道を目にしてきたガルシャは、彼らが人に擬態した怪物であることをよく知っている。
「大丈夫です。この時間、あの方たちは休憩していますから」
ファイはのびやかに笑っている。
「村には果物を欲している人がたくさんいるんです。市でも稀に果物が売り出されますけど、どれも高価で多くの人はとても手を伸ばすことができません。だから、わたしはそんな人たちに果物を安価で届けています。ヨルトゥグの方たちは気前の良い人ばかりなんですよ」
「爺さんはそのことを知っているのか」
「いいえ、知りません。街の人たちの手伝いをしてくるって嘘をついています。あ、このことはくれぐれも内密にお願いしますね?」
人差し指を唇に当て、いたずらっぽく笑いかけてくる。
「まさしく清廉潔白を絵に描いたような子だね」
そうヒカリカが評する。
この二年、旅の中で多くの民との出逢いがあったが、ここまで誰かのために自らを犠牲にする人間を目にするのははじめてだ。感心を通り越して呆れてしまう。
「騎士どもにそのことがバレたら想像を絶する惨い仕打ちを受けることになる。ファイはそれを承知の上で、果物を村の人たちに届けているのか」
「はい。これはわたしにしかできないことですから。……少しおかしな話をしていいですか」
「構わねぇよ」
ヒカリカと話すよりマシだ。
「ありがとうございます。えっとですね、わたしには生まれつき誰かの声が聞こえるんです」
「ほう」
ヒカリカが興味を示した。
「誰の声かはわかりません。幼い少年のような声です。その声はいつもわたしを導いてくれます。果物が落ちている場所を教えてくれて、騎士が近くに来たら身を隠すように指示してくれます。……大丈夫だよホッケルン。ガルシャさんは良い人だから」
虚空に語りかけている。誰かの声が聞こえるだけでなく、その誰かと意思疎通することもできるようだ。
おそらく彼女に宿る天賜が導いている現象だろう。自分とよく似た天賜を宿す彼女に、ガルシャは幽かな親近感を抱いた。
「ホッケルン……どこかで聞いた覚えのある名前だ。なんだったかな」
ヒカリカが唸っている。
ホッケルン。
脳内で反芻してみても、触発されてガルシャの記憶が発芽することはなかった。
「この力は、たくさんの人を助けなさい、という神様からの思し召しだと思うんです。だからわたしは、身の危険を承知の上で村の人たちに果物を届けています。些細な恩返しです」
ファイはにっこりと笑う。僅かな邪気すらも感じさせない無垢な笑みだった。
「俺は神の存在なんざ信じていないけどな」
「信仰するもしないもその人次第でしょう。わたしの場合、おじいさまがナタリク教の敬虔な信徒ですので、その影響も大きいです」
「そうかい。しかし、理解しかねるな。どうして俺に不思議な力の話をしようと思ったんだ」
少なくともガルシャは、死霊を知覚できるこの力を自発的に誰かに話したいとは思わない。
ファイは胸の前で両手の指を絡ませ、後ろめたそうな顔をして訊ねてくる。
「確かめたいことがあったんです。ガルシャさんも独り言が多いので、もしかしたら目には見えない誰かの声が聞こえているんじゃないかと思いまして」
聞こえるどころか姿まで鮮明に視えている。なにを思ってか、視界の端に映るヒカリカは期待するようなまなざしをガルシャの頬に注いでいた。
「見当違いでしたか?」
「いいや、おおよそ的を射ている。もっとも俺の耳朶を突くのは幼い少年の声じゃなく、聴いてるだけで不快になる玲瓏な声だけどな」
「不快になる玲瓏な声、ですか」
ファイは不思議そうに首を傾げている。話題の当人は、いつもは姦しいくせにだんまりを決め込んでいた。
ちらと横目を流す。
ヒカリカは幸せを噛み締めるような笑みをたたえていた。
「まいったね。唐突にプロポーズされてしまったよ」
「してねぇよ」
小声で毒づき前を向き直す。
ヒカリカとは逆の方角からくすくすと笑う声が聞こえた。
「その方とは昵懇の間柄なのですね」
「……そんな安っぽい言葉で表現できるような関係じゃねぇよ」
光の団の団長であるヒカリカは、恩人であり、師であり、家族であり、憧れだったのだから。
「今から果物を村に売りに行くのか」
「はい。羽休めもできましたし、これからひと踏ん張りです」
ガッツポーズして意気込んでいる。
「そうか。暇だから手伝ってやるよ」
ぶっきらぼうに言って、こんもりと果物の積まれた蔓籠を持ち上げる。
「案内してくれ」
振り返ると、ファイは口許に折り畳んだ人差し指を添えておかしそうに笑った。
「やっぱり良い人ですね、ガルシャさんは」
「どうだかな」
そう定義するのは当人の自由だ。
しかし、ガルシャが旧友を殺す旅をしていると知ったとき、ファイはそれでもガルシャを良い人だと言い切ることができるだろうか。ズーシーはガルシャを英雄と評するだろうか。
しないだろう。
如何なる理由があれど殺生は悪だ。
対象が人であればなおのこと性質が悪い。
ゆえに、ガルシャは自身を嫌悪している。今すぐ殺してやりたいほどに厭悪している。
それでも、今は生きなければならない。
かつての仲間をこの手で殺し切るまで、どれだけ苦しかろうとも命を断つことは許されない。




