第参拾捌話/信頼で斬る
寄せては返す穏やかな波の音に、敬愛なる師と護らなければならない少女の寝息が溶け込んでいる。
ガルシャは入り江にある古ぼけた小屋で夜をやり過ごしていた。
ルクタリカ王国からは穏便に去ることができた。しかし、王城の地下にある躯の山は、遅かれ早かれ皇国の目に入る。この一件を経て、皇国は旧友殺しの動向に今まで以上に目をかけるはずだ。近い将来、白眉参と相まみえることになるかもしれない。なんにせよ、旅の中でここまで大量の屍を築き上げたことははじめてだった。
もう、道を引き返すことは許されない。
眠りに就く前に、彼女たちはそれぞれの身に起きたことを理解している範囲で語ってくれた。
――まず、右眼が黄玉に変化したファイ。
彼女は、数年前に皇国によって滅ぼされた妖精圏に一世紀以上に亘って生きていた王妃の娘であるようだ。王妃の掛けた封印をヒカリカが解いたことにより、妖精奏術、という天賜とは異なる異能を行使できるようになったようで、リグを圧倒していたのは件の術とのことだった。
――次にホッケルン。
彼は王妃が絶命寸前にファイに遣わせた妖精であるようで、それを聞いたヒカリカは、
「思い出した。幼い頃にフィールが語ってくれた童話にその名前が出てきたんだよ」
と膝を打っていた。
ファイの力が目覚めた影響か、彼の姿かたちははっきりと視えるようになっている。そばかす顔の、羽を生やした手のひらサイズの小人。ファイの寝付くベッドの物置スペースで眠りこける彼は、まさしくガルシャが想像する通りの妖精だった。
――最後にヒカリカ。
彼女の天賜は〝結束〟ではなく〝欠測〟であるようで、だから生きていたとのことだった。
具体的にどのような手順を踏んで今に至るのか。彼女は仔細洩らさず懇切丁寧に語ってくれたが、その大部分はガルシャが把握していなくても問題なさそうなことだったので、聞いているふりをして聞き流した。長い付き合いになるので、師の扱い方は十二分に心得ている。
三十分近い長話の中で、ガルシャが重要だと思い脳に深く刻みつけた情報はふたつ。
ひとつは、誰かひとりでも生存を確認したら効果が消滅してしまうため、彼女は生きていることをひた隠しにし、ガルシャに死人として認識してもらっていたということ。
ひとつは、彼女が光の日に負った傷は呪いの剣によるもののため癒えることがなく、今は全盛期の三割ほどの力を、それも極めて短期間しか使えないということ。
なにはともあれ、ヒカリカが生きてさえいればそれだけで充分だった。
胸がすいている。
こんなにも穏やかな夜はいつ以来だろう。
周りに死霊がいなければ、悪夢を呼び寄せる殺人に対する罪悪感のわだかまりも無い。ヒカリカとファイの安らかな寝息と心をほぐす波音も相俟って、気を抜いたら意識を現実から乖離してしまいそうになる。
しかし、虚脱感に身を委ねるわけにはいかなかった。
それから一時間近く夢と現実の狭間を彷徨っていると、危惧していたその瞬間が訪れた。
扉がゆっくりと開き、何者かが小屋に足を踏み入れた。
こちらをじっと見ているのは、ガルシャが寝ついていることを確認するためか。
やがて静謐なる闖入者は音もなくベッドに歩み寄り、ヒカリカの胸上に剣を突き立てた。
突き刺すより早く、ガルシャは闖入者の首に剣身を添えた。
「よぉ、元気してたか」
「……まだ迷いがあるんじゃないか。ここで首を斬り落とせばすべてが終わったというのに」
「それじゃ勝ち星にならねぇだろ。俺は正々堂々戦ってお前を殺す。
――面貸せよ、フェザー」
ガルシャが剣を引っ込めると、胡桃色の髪をした少年も剣を鞘に収めてこちらを振り返った。
「愚かだな。ヒカリカさんでも勝てなかった僕に、君が勝てると思っているのかい?」
二年前と少しも変わらない柔和な微笑みをたたえてフェザーは言った。
ガルシャの胸に灯る殺意が温度を下げることはなかった。
◇
柔らかな月明かりが、ふたつの影を砂浜に浮かび上がらせている。
きめ細やかな砂粒はさほど堆積しておらず、足場の盤石さに不安はなし。夜空には星と三日月が瞬き、視界にも一切問題は無かった。
〝鎮魂歌〟を鞘から抜き出し、ガルシャは正眼の構えを取る。
対するフェザーも同じ構えで迎え撃つ姿勢をみせた。
「ひとつ問いたい」
フェザーが口を開いた。
「君はどうして僕が足を運ぶことを知っていたんだい?」
「確信は無かったさ。けど、俺はお前が臆病でそれゆえに老獪なやり方を好んでいることを知っている。だから、もし復活した師匠をお前が討ちに来るならこのタイミングだと思っていたんだ。で、ヤマが当たったってわけだ」
「なるほど。君と友情を築き上げたことが仇となったわけか」
「話は終いか」
「あぁ。――それじゃあ始めようか、旧友殺し」
フェザーの瞳が静かなる戦意を宿した。
フェザーとは何度か手合わせしたことがある。あの頃はついに一度も勝利することはできなかった。
しかし、さほど剣の腕に差は感じていなかった。あの時点でその印象があったのだから、今はガルシャのほうが上を行っている可能性は充分にあり得るだろう。現に危機感はまるで感じていなかった。
だが、彼はあのヒカリカに二度も泡を食わせている。光の日に呪いの剣を用いてヒカリカの臓腑の機能を不全に陥れたのは、間違いなくフェザーだろう。
仮に白眉参が束になってかかろうとも全盛期のヒカリカに致命的な傷を負わせることは難しかったはずだが、フェザーにだけは彼女を傷つけられる可能性があった。その正体をガルシャは突き留めていた。
沈黙に耐えかねて先に動いたのはフェザーだった。
「曲がり紛いし狂乱の宴を今此処に」
命を口ずさみ、剣を頭上に高く掲げる。
「――酔歪夢」
至って平凡な真っ向斬りだ。
だが、普通には大きく反している。間合いに入っていないのだ。
フェザーは【歪曲】の天賜を宿していると自ら明かしていた。その言葉の信憑性を裏付けるように、彼は剣が届いていないのに打突が入る、という不可思議を以て数多の勝ち星を積み上げた。ゆえに、彼はヒカリカの意表を突くことも可能とした。
ヒカリカに天技はまず通用しない。どれだけ常識から逸脱した業であろうとも、彼女は天性の才能を以てそれを無力化する。
それを唯一かいくぐるものがあるとすれば、〝知っているが故に生じる幽かな油断〟だろう。
彼女は光の団を家族と言い切るほどに愛し、信じていた。
ゆえにフェザーの一撃は、彼女に通用したのだ。
では、実際のところ彼に宿る天賜とはなんなのか。
ヒカリカとフェザーの手合わせを見た際に、ガルシャはその答えに至っていた。
(お前と親友になれた巡り合わせに感謝するぜ)
そのおかげで、勝機を見出すことができたのだから。
ガルシャは正面から右下に視線を滑らせる。――そこにあるのは己から伸びる影だ。
フェザーの剣の影が、今まさにガルシャの影の肩あたりに迫っている。フェザーの剣の影めがけて、ガルシャは力の限り振り下ろした剣の影をぶつけた。
正面から金属の砕ける音がした。
目をやると、ちょうどフェザーの剣の剣身が砂浜に突き刺さるところだった。
「光姫喧伝流、壱極の構え――」
フェザーは無防備だ。今、剣を振るえば、彼を確実に死に至らしめることができる。
瞠目する彼の口が動いた。
『たすけて』
瞳は潤み、唇を幽かに震わせる彼が生に縋りつこうとしていることは明白だった。
かつての親友が、生殺与奪を握った自分に情けを乞うている。
だからどうした。
「流光軌閃!」
刹那、夜闇に梔子色の光が走り、それに引き寄せられるように唐紅が躍り上がった。
「かはッ……!」
切っ先は狙いを違うことなく敵の喉を掻っ切った。
絶えず口から血を吐き出す敵に告げる。
「二年前、お前が光の団を去ることを選んだ夜。お前は俺には人を殺す覚悟が無い、と説教を垂れてくれたな。その言葉、そっくりそのまま返させてもらうぜ」
こちらを見つめるフェザーの顔に憎しみは無く、代わりに強い戸惑いがあった。
「二年前、師匠の死角を突いておきながらどうして心臓を突かなかった? 小屋に忍び込んだ時、眠りに就く師匠の胸に突き立てた剣はなぜ震えていた? ついさっき、一撃で俺を屠る好機にありながらどうして俺の肩に狙いを定めた? ……喋れないだろうから代わりに俺が答えをくれてやる。お前はどうしようも無く正常な人間なんだよ」
聞かずともわかる。彼は生まれてこの方、誰も殺めたことがないのだ。否、殺めずとも完成される平和を希求していた。その結論が、皇国の仇敵となるヒカリカを無力化することだったのだろう。
彼は臆病で狡猾で。
そして、優しさに満ちた漢なのだ。
すべては彼が苦悩の末に導いた正義であることはわかっていた。
その上で、ガルシャは彼を殺めることを選んだ。
彼の信じる正義は、ガルシャにとって目障りなものだったからだ。
「……けほけほっ! ……目を醒ませガル! 君は間違っている!」
「それを決めるのは俺自身だ」
淀みなく告げ、ガルシャはフェザーの首を斬り落とした。
遺体を海底に沈め終えると、東の空が黄金色に染まりはじめていた。




