第参拾弐話/逆夢・終
梔子色の剣を正眼に構え、深く呼吸し、ゆっくりとまぶたを開く。
対峙するは伍騎天の一角。生半可な相手でないことは、前に剣を交えた経験から心得ている。
ヴァレンダインは独特な構えを取っている。前にも後ろにも重心を置かず、両手で握った剣を右肩の前に置いている。
隙が多く、そのぶん攻撃に特化した構えだ。初手に関していえばこちらに分があるが、二撃目に関しては相手に分がある。
最初の選択で決着がつきかねないという緊張感が、鼓動を高鳴らせ、足裏を地面に縫いつけていた。
「ひとつ問おう」
ヴァレンダインによって沈黙が断たれた。
「旧友殺し、貴様は誰がために剣を振るう?」
奇しくもそれはいつかヒカリカにされた質問と酷似していた。
あの日、ガルシャはヒカリカのために剣を振るうと答えた。その結果、失望されて光の団から追放された。
誰かのために剣を振るう。
それは間違いではなく、しかし究極的な見方をすれば誤りであろう。
誰かのために。
それは個人の価値観に基づき結論づけられるものであり、普遍の理ではない。
そしてこの言葉のなにより邪悪な点は、己が悪徳を相手に転嫁している点にある。自分が罪の意識から逃れたいがために、誰かのために、と都合のいい言葉を選んでいるのだろう。
「俺は、俺のために、剣を振るう」
それが、遍く殺戮の根底に眠りし本質といえよう。
ズーシーを殺したのは、彼が皇帝の傀儡にはなりたくないと願ったから。
――蘇生して敵になるのは厄介だと思ったから。
ルーベルを殺したのは、ファイかルーベルを殺さなければいけない状況だったから。
――ガルシャにとって、ルーベルよりもファイのほうが大切だったから。
如何なる殺戮にも、必ず私情が溶け込んでいる。
誰かのための殺し、などという体のいいものはこの世に存在しない。
殺しとは例外なく、己が胸の虚構を補填するために行われている自己満足なのである。
ヴァレンダインは高らかに声をあげて笑った。
「見事なり旧友殺し! 貴様がその極地に至る時を待ちかねていたぞ!」
「そういうあんたは誰のために剣を振るう」
「無論、俺のためだ! 俺はコールドウェル家こそが王になるべく最も優れた一族であると証明する。しかし、誤謬によって得たその称号は無価値だ。ゆえに、俺はヒカリカ=クダリジナルの愛弟子である旧友殺しとの死闘を望んでいた。本物の称号を得るためにな」
ヴァレンダインは剣を後ろに傾け――地面を蹴り上げた。
「此処に純然たる武を宣言する!
天殺収斂・白紙化!」
(命ッ……!)
瞬きを禁じ、相手の一挙手一投足に全ての神経を集中させる。
集中の極致に至ったためか、時間の流れが緩やかになったように錯覚する。
ヴァレンダインが初手に選んだのは、基礎中の基礎、袈裟斬りだった。剣の道に通じる者なら誰もが見惚れるであろう流麗な軌道を描くその剣筋は、もはや天技の域に達していると言っても過言ではないだろう。
一撃、一瞬で仕留める。気魄に満ちた瞳からは静かな殺意を感じた。
しかし、それだけだった。
常識を逸脱した現象がついに訪れることはなく、ガルシャは一歩身を退いて斬撃を躱し、間隙を縫って下段に一閃を滑らせる。その反撃を、ヴァレンダインは剣身で難なくいなす。
(いける)
ヴァレンダインの剣術は達人の領域に至っている。しかし、それはあくまで人の辿りつける極致だ。先日の……誰だったか、銀糺虎と融合した女騎士との一戦ほどの脅威はなかった。
とはいえ、光姫喧伝流だけで勝てるほど甘い相手でないことはわかっている。出し惜しみなどしていられない。生きて帰るために、この先も旧友を殺し続けるために、ガルシャは呪言を口にする。
「殺戮に飢え、屍を喰らいし――」
口にできたのはそこまでだった。
命は覚えている。しかし、どうしてか声にすることができない。何度試してみても、肉声にできるのはここまでだった。
「これが俺の天技よ」
ヴァレンダインが得意げに言った。
「俺と旧友殺しの決着がつくまで、何事も何者も、この闘争に干渉することはできん。俺たちに許されているのは、己の剣を信じ、相対する敵と死合うことだけだ」
こちらの動揺を好機と見たか、ヴァレンダインが先とは比にならない俊敏さを以てガルシャの懐に潜り込んでくる。
「コールドウェル流対人殺法、第壱小節――燎原!」
「くッ……!」
繰り出された技は、先と同じく基礎を準えた袈裟斬り。けれど、速さも重さも、先ほどとは比べものにならない。
なんとか剣身で防いだものの、身体は二歩後ろに後退していた。
「ガルシャさん!」
焦燥に駆られたファイの声。声の先を見やれば、彼女は声色に違わない顔をしている。
翻って隣に座るヒカリカは平然としていた。微笑をたたえる余裕すらある。
その悠揚迫らぬ態度が意味することは明白だった。
彼女はガルシャの勝利を確信している。
「……ま、あんたの小うるさい指示が無くて反ってやりやすいしな」
呼吸を整え、ヴァレンダインに向き直る。
天技を封じられるのは想定外だったが、意表を突かれたことといえばそれくらいだ。
鞘に手を当て、前に重心を傾ける。
「光姫喧伝流、壱の構え――流光軌閃!」
刹那、稲妻めいた閃光がヴァレンダインの首を断たんと迫る。
ここに来てはじめてヴァレンダインが動揺をみせた。
剣で防ぐことを諦め、彼は苦悶の表情を浮かべて身を捻る。致命傷には至らないものの、剣は紺青の髪を大きく掠め、鼻頭に直線状の傷を刻みつけていた。
観客がざわざわと色めき立つ。
――あのコールドウェル様が傷を負った?
――マジかよ。頼むよコールドウェル様。
鼓膜を伝う騎士たちの不安の声。
それは高笑いによってかき消された。
「見事なり旧友殺し! 闘争とはこうでなくてはな!」
機先を制されたことに気後れした様子は一切なく、彼は興奮隠せぬ面持ちで次なる一手を打つべく構えを取っている。
腰を落とし、左手を前に伸ばし、右手を後ろに大きく引いた構え。あの状態から繰り出される技は突き以外にありえないだろう。
それは相手も承知のはず。その上で選択したということは、速さに相当に自信があるのか、あるいはなにか仕掛けがあるのか。
対するガルシャは、先と変わらない正眼の構えで迎え撃つ。狙うは、光姫喧伝流最速を誇る光穿ち。呼吸で雑念を削ぎ落とし、来たる瞬間に備える。
沈黙のとばりが時間感覚を狂わせる。
一秒が十秒に感じ、その間も精神はじりじりとすり減っていく。
汗が首筋を伝う。
ヴァレンダインの紫紺の瞳が戦意に燃え上がった。
「コールドウェル流対人殺法、第肆小節――焔均し!」
(やはり突きか……!)
瞬きでもしようものなら次の瞬間には命が刈り取られているであろう、神速の突きだ。
しかし、視えている。
視えていればこちらのものだ。焦らず冷静に対処すればいい。
そう教えてくれたのは、今は亡き剣姫だ。
彼女は常に、相手の動きが四手先まで予知できたのだという。その人間離れした領域に至ることは未来永劫できないと諦めていたが、今のガルシャはそれに近しい領域にいた。数秒後の未来、相手の剣がたどる軌道を直感できていた。
殺戮を肯定することにより、ガルシャの潜在能力は極限まで引き出されていた。
穿つは心臓。この一手にて、長きにわたる因業に終止符を打つ。
もう少し。あと数瞬だけ我慢だ。
切っ先が喉元に達しようとした頃合いを見計らって……
――今!
「きゃあああああ!」
「っ!」
背後からファイの叫び声がした。
それに、意識を傾けてしまった。集中力を欠いてしまった。
自覚したときには手遅れだった。
幸運だったのは、意識が蚊帳の外に向いたのがガルシャだけではなかったことだろう。切っ先は的を大きく外し、ガルシャの右肩を深く抉っていた。
「ぐぁ……!」
迸る激痛に意識が模糊とする。
――まずい。これは大きな隙だ。
手遅れだと理解しつつも防御の構えを取る。剣に衝撃が走ることも、さらなる痛覚が神経を襲うこともなかった。
「ふざけるなッ!」
ヴァレンダインが観客席に強い苛立ちをぶつけている。彼の憤怒の矛先にいるのは、リグだ。片腕でファイを抱き寄せ、彼女の細く繊細な首に、剣を押し当てている。
それを見た直後、ガルシャの中で沸騰するように怒りが湧き上がった。
「てめぇ……! ファイには手を出さないって言っただろうがッ!」
「いいや、某はそうは言っておらん」
まるで悪びれることなくリグはかぶりを振る。そんな部下を、ヴァレンダインは今にも食い殺さんばかりの形相で睨み付けていた。
「貴様が卦体な契りを交わしたのは、コールドウェル様であろう? 某は端からそれに賛同しておらん」
「貴様、俺の命令に逆らうというのか!?」
「はい。某が忠誠を誓っているのはコールドウェル家であり、ヴァレンダイン様ではありませんから。皆さんもそうでしょう?」
リグの問いかけに、客席に座る騎士たちが醜悪な笑みで応じる。誰もリグを止めようとしていなかった。
剣が強く押しつけられ、ファイの首筋から鮮血が滴り落ちる。
「やめろッ!」
「予言しましょう。ヴァレンダイン=コールドウェルは、旧友殺しに敗れてその命を儚く散らします。数日前までの旧友殺しなら未だしも、今の旧友殺しに貴方様は勝てまい」
「黙れ! 今すぐその娘を解放しろ! これ以上、旧友殺しが気を揉むような真似をするな!」
リグは呆れたようにため息をついた。
「くだらない。実にくだらない。勝てば良いではないですか。この娘を人質に取り、旧友殺しの注意が散漫となっている隙に、討つ。立派に勝利です。それでは不満なのですか」
「それではヒカリカ=クダリジナルを討った時となんら変わらん! 俺が欲するのは正々堂々剣を交えた上に築かれる純然たる勝利の栄光である!」
「左様でありますか。……しかし、それは貴方様の価値観だ。某は某の美学の下に従うまで」
リグが大太刀を振りかぶる。それをファイは怯えた目で見つめている。
「やめろおおぉぉぉ!」
「その夢に今、帳を下ろそう――逆夢・終」
ガルシャの咆哮を剣と剣がぶつかる音が断った。
「やれやれ。愛弟子の目覚ましい成長に涙ぐんでいたというのに君のせいで台無しじゃないか」
どこからともなく現れてそう口にする彼女は、まるでこの世に降り立った彗星のようだった。
靡く銀髪。宝石もかくやという青い瞳。
突如出現した彼女が何者か、誰もが理解していた。
同時になぜ彼女がいるのか、誰もが理解できていなかった。
その動揺に乗じてファイを救出し、彼女は微笑を携えて言った。
「さて、性根の腐った君たちにお灸を据えるとしようか」




