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大正殉恋録  作者: 猫塚ルイ


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第5話

喫茶店を出た直後の銀座は、まだ午後の柔らかな光に包まれていた。


口の中に残るショートケーキの甘い余韻と、頬に触れた界人さんの指先の熱。


それだけで、私の世界は今までになく鮮やかに彩られている気がした。


まるで、この煤けた帝都さえもが、二人を祝福しているのではないかと錯覚してしまうほどに。


けれど、幸福という名の薄氷は、あまりに呆気なく、そして残酷に砕け散る。


「……待て。空気が変わった」


隣を歩いていた界人さんが、鋭い声と共に私の肩を強く抱き寄せた。


瞬間、極彩色の銀座の街並みが水面に石を投じたように大きく歪み始める。


道行く人々の声が遠ざかり、代わりに


ミシリ、ミシリと硝子が軋むような異音が鼓膜を突いた。


ショーウインドウの大きな硝子、雨上がりの水溜まり、通行人が持ち歩く手鏡──


街中の「鏡」という鏡から


どろりとした銀色の液体が滝のように溢れ出し、濁流となって私たちの足元を掬い上げた。


「っ、界人さん……!」


「雲雀、俺の手を放すな」


叫び声さえ吸い込まれるような感覚。


視界が上下左右に反転し、強烈な眩暈が襲う。


次に目を開けたとき、そこはもう文明開化の音がする銀座ではなかった。


空も地面も、果てしなく続く巨大な鏡の破片で構成された、色彩を失った異空間。


上下の感覚すら曖昧なその場所で


私たちの前に、顔のない「あやかし」が鏡の奥から、這いずるような動きで姿を現した。


「……鏡の怪か。人の未練を映し出し、虚飾の夢に閉じ込めて生気を啜る下級の徒が……」


界人さんが一瞬で軍刀を抜き放ち、私の前に立ちはだかる。


青白い霊力が刃を包み込み、迷宮の冷気を切り裂く。


けれど、あやかしは戦おうとはしなかった。


ただ、無数に浮遊する鏡の表面を、チカチカと不気味に明滅させた。


「見ロ……見ロ……。偽リノ今ヲ脱ギ捨テ、オ前タチガ、本当ハ誰ナノカヲ……」


湿った土のような声が響くと同時に、私の正面にある、一際巨大な鏡の表面が波打った。


そこに映し出されたのは、今から百年前──


まだ蒸気機関の煙もガス灯の灯火もない、夜が今よりずっと深く、闇が濃かった時代の景色。


『──ねえ、約束だよ。たとえ明日、あなたが私を斬らねばならなくなっても。恨んだりしないでね』


鏡の中にいたのは、私だった。


今よりも少しだけ幼く、けれど今と同じ燃えるような赤い髪を


白雪のような死装束に近い着物に散らした少女。


彼女は、血の滲むような緋色の唇で微笑みながら、一人の青年の頬を、愛おしそうに撫でていた。


その青年は、界人さんの生き写しだった。


ただ、その瞳に宿っているのは今の冷徹な「死神」の眼差しではない。


千々に引き裂かれるような絶望と、濁りのない、痛いほどの真っ直ぐな愛情。


『……馬鹿なことを言うな。俺がお前を殺すはずがない。この命を、魂を代え代えにしても、お前を「人」として守り抜くと誓っただろう』


青年の、震える声が、時を超えて私の胸の奥深くに突き刺さる。


鏡の中の二人は、降りしきる雪の中で固く指を絡め合い


決して叶うはずのない「来世」の約束を交わしていた。


強大なあやかしの力を宿してしまった悲劇の少女と


彼女を討伐する宿命を背負わされた、若き陰陽師の青年。


「……あ……ああ、……っ!」


頭を直接割られるような、激しい衝撃。


封印されていた断片的な記憶が


止まっていた時計が動き出したかのように、濁流となって脳内に流れ込んでくる。


共に食べた、質素な握り飯の塩気。


追っ手から逃れた夜の山で見た、吸い込まれそうなほどに美しい星空。


そして──最後に見えたのは、残酷な結末。


界人さんに似たあの青年が、血を吐くような叫びを上げながら


真っ赤な狂乱の炎に包まれた少女の胸を、その刀で深く、深く貫く場面だった。


膝から崩れ落ち、鏡の床に手をついた私の視界に、現実の界人さんの広い背中が映る。


彼は鏡の中の殺戮の光景を、ただ、静止した石像のように見つめていた。


その右拳は白くなるほど強く握りしめられ、今にも砕けそうなほどに微かに震えている。


「界人、さん……。今の、は……。私たちは、百年前も……」


振り向いた彼の顔を見て、私は言葉を失った。


そこにあるのは、喫茶店でショートケーキを分け合い、微かに微笑んでくれた時の「界人さん」ではなかった。


かつて彼の一族が犯した「討伐」という名の罪と


今もなお彼を呪縛して離さない、陰陽師としての冷酷な宿命を思い出した


剥き出しの「死神」の顔だった。


「……見るな、雲雀」


彼の声は、鏡の世界に漂う冷気よりもずっと鋭く、冷たく響いた。


鏡に映し出された、愛ゆえの「殺戮の記憶」。


溶け始めていたはずの二人の心の距離を、一世紀の時を隔てた真実が、再び残酷に切り離していく。


「オ前タチハ、殺シ合ウ運命……再ビ、終ワリヲ始メヨ……」


あやかしの不気味な嗤い声が、割れた鏡の破片に幾重にも反響し


私たちの足元を深く、深く、暗黒の深淵へと沈めていった。

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