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二百年前、八代目龍王の治世。
突如ふらりと現れた炎帯人の少女、深緋が「龍の谷」に居座って、ひと月ほどが経った。
「…深緋殿!」
深緋は名を呼ばれ、寝床にしている藁の上に寝転がったまま、声の方向に気怠げに顔だけを向ける。間借りしている洞窟の入り口に、陽の光を背にした龍の女王が仁王立ちしていた。肩をわなわなと震わせている。
「何か用?」
「何か用?ではない!其方、自分が何をしたか分かっておるのか!?」
女王は大きな身体を揺らしながら、大股で勢いよく深緋の元に迫ってくる。深緋は面倒臭そうな様子で、頭を掻きながら上半身を起こした。
「何って…湖のほとりに祀られてる祠のお供え物食べた事?」
「そうだ!あれは湖を護る水妖への大事な捧げ物だ!半月に一度の供物で水妖の機嫌を取り、湖の清浄を保っているというのに…今朝、水妖達が抗議に来たので、宥めるのに難儀したのだぞ!!」
「ふーん、そりゃ悪かったね。なかなか美味しかったよ」
謝罪の言葉とは裏腹に、全く悪びれない深緋の態度。女王はこめかみに青筋を立てて怒鳴る。
「其方はここに来たばかりで分からぬかもしれぬが、湖は『龍の谷』にとって貴重な水源なのだ!湖が穢れて水が尽きてしまえば、龍人達はこの地で生きていけなくなってしまうだろう!」
女王の剣幕に気圧されるどころか、深緋はその顔を見て、にやりと笑う。
「へえ…あんた、『一族を滅ぼすしかない』とか言いながら、龍人達の生活の心配してるんだ」
「……っ!!」
深緋の鋭い指摘に、女王は思わず口を引き結んで狼狽した。
深緋は女王の顔を一瞥すると起き上がり、傍らの打刀を腰に差す。帯紐に下緒を結わえると、刀がしっかりと腰に収まっているかを確認するように、鞘を軽く叩いた。鍔鳴りの音が微かに響く。
「ま、あんたがどういうつもりなのかは分かんないけど。とりあえず、今日も魔物討伐でしょ?手伝うよ」
「…其方、また無茶をするつもりか?魔物を深追いした挙句、泳げない癖に滝壺に飛び込みおって」
「あんたが助けてくれたから問題ないでしょ?とことん命を放っておけない性分みたいだねえ」
「押し掛けとはいえ、客人に死なれたら寝覚めが悪いだけだ!」
ニヤつく深緋に翻弄され、顔を真っ赤にして怒鳴る女王。普段の威厳に満ちた彼女からは想像出来ない有様に、側近達は困惑するばかりであった。
「ほらさっさと行くよ、おばあちゃん」
「誰がおばあちゃんだ!」
「あんただよ。七百五十歳だっけ?」
「龍人ではまだまだ中堅だ!」
悪態を付きながら、二人は肩を並べて洞窟から出た。
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「…………」
歴史書という荘厳な印象とは程遠い、あまりにも緩い内容に、紅達は呆気に取られた顔で書物を覗き込む。書物には相変わらず判読不能な文字が並んでいる。
「…これ、本当に公的な歴史書なの?」
アオイが理解に苦しむように眉をひそめ、片眼鏡を押し上げた。
「そうだ!龍人の歴史はなかなか面白いだろう!」
「いや、そういう意味じゃねえよ…」
まるで自分の事のように胸を張って言うシャクティに、アンバーは微妙な顔をする。
「何ていうか……この深緋ってコ、予想以上に紅ちゃんね」
「どういう意味!?」
目を点にして言葉を漏らす卓を、紅はキッと睨む。アンバーは、卓に同意するように深く頷いた。
「傍若無人なとこがまんま嬢ちゃんじゃねえか」
「酷い!蒼龍ならそんな事言わないのに!」
「言わないだけで、思うに決まってるでしょ」
「ふぬうぅ…!」
呆れた顔で見てくるアオイに、紅は思いっきり頬を膨らませた。そのまま腕を伸ばして、机に突っ伏す。
「蒼龍…お爺ちゃんと仲良くやってるかなあ」
紅は顔を少しだけ上げ、呟いた。
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蒼龍と龍王は碁を打つ手を止めず、合間に朴訥ながらも会話を交わしていた。
天坑から差し込んでいた陽の光はいつの間にか消え、空には赤と紺が混じり合っている。一人の龍人が部屋に入ってきて、行燈に火を灯し、静かに礼をして立ち去る。行燈の柔らかな光に照らされ、碁盤の上で白黒入り乱れる碁石が光った。
「其方の話も聞かせてもらえぬか」
ふいに龍王が口を開く。白石が、盤上の残り少ない交点に打たれ、パチリ、と音を立てた。
「何が聞きたい」
「そうだな…其方が共に旅をする者達について聞こうか」
蒼龍が続いて置いた黒石の場所を吟味するかのように、龍王は白石を摘んだまま動きを止めた。蒼龍はその様子を見守る。
「深い冬の森のような目に、淡雪のような白銀の髪をした少年は、孵化したばかりの雛鳥のように柔らかいのに、獲物を狙う鷹のような残酷さが漂う。只者ではあるまい」
「アオイは…腕のいい治癒師だ。俺はよく怪我をするが、龍人の血のお陰だろう、すぐ治るものだから興味を持たれている。
余程の事情を抱えているようだが、無理に聞く事もあるまい。本人が話したくなれば話すだろうし、たとえ話さずとも、俺達がアオイの事を信用している事に変わりはない」
蒼龍の言葉を聞きながら、龍王は静かに白石を置き、指をゆっくりと離した。
「年月を重ねた琥珀のような目に、朝焼けに照らされた狼のような髪の青年。あれは荒々しいほどの若さを持ちながら、何かを悟りきったように老成している。不思議な男だ」
「アンバーは二百年近い時を、何度も転生を繰り返しながら生きているらしい。頼りになる奴だが、生活面では頭が痛くなる。
だが、これまでに幾度も死を迎えるなど、常人には想像も出来ないほど壮絶な経験をしている。可能ならばこの人生で、普通の人間として天寿を全うさせてやりたい」
蒼龍は決然とした動きで、黒石をしっかりと盤面に打った。
「澄んだ空のような目に、黄金の稲穂のように豊かな金髪の……あれは青年というべきか、娘というべきか」
龍王の、白石を摘んだ手が少しだけ惑う。
「卓は卓だ」
「そうか…卓は、よくよく他人の事を放っておけない性分と見えるな」
「ああ。お節介が過ぎるくらいだ。だが、そのお陰で俺だけじゃない、アオイもアンバーも、紅も救われた。
あいつの何にも囚われない生き方は、皆が見習うべきだと思う」
「…何にも囚われない生き方、か」
龍王は白石を、躊躇しつつも何かを手放すように打った。
「柘榴石の目と赤い髪、まるで燃え上がる生命そのもの。あの少女は、炎帯人だな?」
龍王の言葉に、蒼龍は黒石を持った指を一瞬、盤上で止めた。
「…そうだ」
一拍置いて、黒石を僅かに残った交点に打つ。蒼龍は指から離れた黒石に目を落としたまま、言葉を続ける。
「お前も紅がどんな奴なのか、薄々分かっているだろう。ひたすら天真爛漫で、自分が思っている事を素直に言葉にする。
龍人とは皆、己の意思で自由に龍へと姿を変える事が出来ると聞くが…俺は違う。満月の夜、自分の意思とは関係なく龍へと変貌し、その間の記憶はなくなる」
「…何だと?」
龍王は驚いた様子で蒼龍に目を向ける。蒼龍の目は、盤面の黒石に向けられたままだ。
「初めて龍と化した時、俺は育ての親とも言うべき人を傷付けてしまった。自分の異形が心底怖くなった。
だから…誰とも関わらず、一人で生きようとしていた」
龍王は白石を摘む事なく、ただ蒼龍の言葉に耳を傾けた。向かい合って座す二人は微動だにせず、ただ蒼龍の口元だけが訥々と動く。
「だが、紅はそんな俺の懐へ飛び込んで来た。龍と化し理性を失った俺の姿を、綺麗だと言った。記憶がなくなっても、自分が覚えてるからいい、と言ってくれた。
あいつは、孤独の中に佇む俺を、孤独から引き上げてくれた。俺だけではない、アオイも、アンバーも、卓でさえもきっと…俺達は皆、孤独だった。そんな孤独な俺達を、誰一人として取り残さない――それが、緋夕紅という炎帯人だ」
蒼龍は静かに言うと、黒石を見つめたまま目尻を僅かに下げて、微笑んだ。
その笑みは、普段の無愛想な表情と違い、どこまでも柔らかな空気を纏っていた。
その顔を見て、龍王は口を開く。
「其方…その娘を、愛しているのか」
蒼龍はようやく黒石から目を離し、龍王を真っ直ぐ見据える。
蒼龍は迷う事なく、はっきりと口にした。
「ああ。愛している」
二人とも、もう碁石を摘む事はしない。
碁は、持碁――盤上の白と黒は、同じ数だけ並んでいた。
碁の知識は素人同然です。




