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「あんたぁ!!」
森の中、腰を抜かしたトメの叫び声が響く。トメを庇うように倒れ込んだ夫の佐吉は、左腕をざっくりと切り裂かれ、痛みに顔を歪ませた。背負っていた籠が投げ出され、収穫していた山菜が散らばる。
岩を背に追い込まれた二人の前に立ちはだかるのは、猿とよく似ているが人間の倍くらいの巨体、赤褐色の体毛の間から金色の目を凶暴に光らせている――猩々だ。
猩々は、佐吉の腕を切り裂いた際に己の爪に付いた血を舐めると、にたりと不気味に笑った。まるで「美味そうだ」というように。
「ひいっ!!」
「く、来るんじゃねえっ!」
佐吉は怪我したにも関わらず、後ろにトメを匿いながら果敢に鋸鎌を構えるが、その刃先は恐怖でぶるぶると震えている。
そんな佐吉を一瞥し、猩々は大きく腕を振り上げ、鋭い爪を佐吉とトメに振り下ろす!
その時、銀色の一閃が、猩々の頭頂から股下までを一気に駆け抜ける。
瞬間、猩々の躯は真っ二つに裂けた!
あまりに美しい太刀筋に、何が起きたのか分からず呆然とする二人。
裂けて絶命した猩々の向こう側には、一人の少女が立っていた。
歳の頃なら十五、六歳。健康的な血色の肌に、柘榴石のようにきらきら光るつぶらな赤い瞳。少し硬そうな赤みがかった茶色い髪は、真ん中で分けられ顎の辺りで綺麗に切り揃えられている。鮮やかな紅の布地で誂えた羽織りの下は軽装で、そこから覗く手足は鹿のようにしなやかだ。
「大丈夫?」
少女は手にした打刀の、猩々を切り伏せた際に付いた血糊を丁寧に拭き取りながら、佐吉とトメに声を掛ける。無言でこくこくと頷く佐吉。トメは正座し、深々と頭を下げた。
「あ…ありがとうございます!もう駄目かと思いました!」
少女は謙遜したように首を振ると、トメの目の前に膝を付く。
「そんな大層なお礼なんていいよ。困っている人を助けるのは当たり前。それより…」
少女はトメの頭を上げさせると、にっこりと笑った。
「お腹空いたんだけど、何か食べさせてくれないかな?」
「……は?」
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伊勢国は、古来より「神々が宿る国」と伝えられる、山に囲まれた豊かな大地を擁する国である。
その国の中、南部の温暖な地域の更に端の山間に、ここ朝霧村はある。山菜採りや農耕で生計を立てているのどかで静かな村だが、この日は違った。
佐吉とトメの家の前に、村人達が人だかりを作って中を覗いている。家の中では、見た事がない光景が繰り広げられていた。
囲炉裏の前、空の皿が積み上がった中、少女がひたすら食べていた。
「もぐ!もぐもぐもぐ!むぐむぐ!」
炊いた米がどんどん消えていく。山菜や川魚の天ぷらは、とっくの前にない。
佐吉とトメ、そして外から覗く村人達は、目の前の少女の食べっぷりに呆気にとられていた。振る舞った食事は軽く三人前、米に至っては既に十合は超えている。一体この小柄な少女の胃袋はどうなっているのか、皆目見当がつかない。米を炊きながら、トメが佐吉に泣きつく。
「あんた…このままだとうちの米がなくなっちまうよ…」
「だからっちゅうて、命の恩人を無碍に出来んだろ…」
佐吉とトメは、恩人だったはずの少女から猩々とは違った危機を感じていた。
ようやく落ち着いたのか、少女が箸を置く。
「はーお腹いっぱい!ご馳走様でした!」
幸せそうに笑って手を合わせる少女に対し、心の底から安堵し溜息を吐く佐吉夫婦。まだ半月分ほど残っていたはずの米櫃は、既に底が見えかけていた。
若干引き攣った笑顔で佐吉が言う。
「いえ…こっちゃこそ命を救っていただいたほんの礼で。まだお名前をお伺いしとらんですが」
「ごめん、名乗るのがまだだったね。私、緋夕紅っていいます!」
少女――紅は、頭を掻きながら名乗った。
聞けば、ひと月前ほどから一人で旅に出て、行く先々の困り事などを請け負って路銀を稼いでいると言う。紅の話に、それならばとトメが口を開いた。
「紅様、実はうちの村…」
「お前!」
トメを遮る佐吉。紅は只事ではないと勘付き、トメと佐吉に話を促す。
「…何かあるのね?大きな困り事が」
「……」
佐吉はしばらく沈黙した後、ぽつりぽつりと語り出した。
伊勢国は「国」という形を取っているものの、実際は幾つもの小さな町村が各自で自治を行っている。人口の多い大きな町ならば良いのだが、朝霧村のような小さな集落は、どうしても金銭的な余裕は生まれない。
余裕がないという事は、村の護衛を引き受けてくれる傭兵や道士、呪術師などを雇えない事を意味する。
加えて山間部は平野よりも魔物が多い。この辺りは猩々がよく出現し、以前より人々に害をなしていた。
「ただ、その猩々達の様子がちょっとおかしいんですわ。何ちゅうか、知恵がついて凶暴になったちゅうか。前までは儂等でも罠を張っときゃ何とか退治出来とったんですが、最近じゃ罠も壊されて、村のすぐ近くまで降りてくる事もあって…怪我するどころか、最近では死ぬ奴も何人か出とります」
佐吉は包帯を巻いた左腕をさすりながら、悔しそうに吐き出した。
「そんなんで山菜採りはおろか、野良仕事もろくすっぽ出来んくて…このままじゃ村を捨てて、皆で移住するしかねえと…」
紅は口元に手を当てて、ふむと唸る。佐吉は慌てて言葉を続ける。
「いや、でも本当に危ねえんです!さっきは一匹だったから軽々退治なすったが、夜になったら群れて出てくるし、紅殿がいくら手練れだからっちゅうて危ねえ目に遭わす訳にもいかねえ!
あと……お恥ずかしながら村では充分な金を用意出来ねえで…」
そこまで言って、がっくりと肩を落とす佐吉。トメは涙目で佐吉の肩を支える。外にいる村人達も、情けないやら悔しいやら、暗い表情を浮かべた。
そんな中、紅はきょとんとした顔で言った。
「え?私やるよ?猩々退治」
あっさりと放たれた言葉に、佐吉はじめ村人達は皆一様に驚いた目で紅を見た。
「だって困ってるんでしょ?そういう人を助けるのが私の役目。もちろん、みんなにもちょっと手伝って貰うけど、絶対助けてあげる。
それに…トメさんのご飯、とっても美味しかったから。お礼はそれで充分」
紅は目尻を下げ、ふわりと笑った。
佐吉は涙を流しながら平伏する。
「あ…ありがとうごぜえます!ありがとうごぜえます!!」
「お願えします!」
「村を救って下され!!」
村人達も家の外で平伏し始めた。紅はちょっと困った顔をしながら手を振る。
「ああもう、そういうのはいいのに……そういうのはいいから、もうちょっとご飯貰ってもいいかな?」
「まだ食べるんですか!?」
トメの悲痛なツッコミが入った。




