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72「自習」


 あれからコヨンさんに、新しい文字表を書いてもらった。

 最初にキャサリーナさんが書いてくれた物と同じように、隣に対応する日本語も書き込んである。

 これでようやく、間違いのない文字表を手に入れることができた。


「綺麗で、すごく読みやすいですね。これなら自習もやりやすいですよ」


「いや本当に姪が申し訳ない……人に教える時くらい丁寧に書けばいいものを……」


 キャサリーナさん……最後まで結局ダメだったなあ。

 まあそれは置いといて、コヨンさんが書いてくれた文字表を見ると、キャサリーナさんの物に比べてとても見やすかった。以前に見た時、似ていて違いが分かりにくかった文字も綺麗に書かれた事で判別がしやすくなった。……というか、間違って書かれていたせいなんだろうな。


「と、ところでアダチヤマさんも新しい文字表が手に入りましたし、キャサリーナが書いたこの文字表はもう必要ないですよね? 私が貰ってもいいですかね?」


 ……この人、これで絶対に日本語を覚えるつもりだ。

 まあ、コヨンさんが日本語を、それもひらがなだけを覚えた所で特に不都合は起きないだろうし、別にいいかな。


「いいですよ。そっちはもう使いませんし」


「ありがとうございます! ……ところで、これに対応するカタカナや漢字も書いてもらう事ってできますかね……?」


 やっぱりこの人、日本語を覚えるつもりだ!

 しかし、カタカナはともかく、漢字はちょっと無理があるな……。


「カタカナならいいんですけど、漢字はちょっと無理ですね……。文字表に対応するとかじゃないっていうのもあるんですが、漢字って小学校の六年間で教わるだけでも千種類くらいあるんですよ」


「六年で千種類も!? そ、それ本当に覚えられるんですか……?」


 確かに狂気じみてると思う。

 けど、なんやかんやで小学校で習う漢字はほぼ覚えてるから、教育としてはちゃんとできてるんだろう。


「小学校で習う漢字なら、普通に学校生活を送ってれば、八割くらいは覚えてるんじゃないですかね。定期的にテストもあるんで」


「それでも八百もの種類を成人前に覚えるんですか……。とんでもないですね……」


「いえ、成人前……えっと、こっちでは十五で成人ですから、日本では中学校ですね。中学校の三年間で更に沢山の種類……千種類あるかな? とにかく沢山覚えさせられますね……。さすがに全種類暗記してる人はそんなに多くないと思いますけど……」


「漢字って狂ってますね……。いや、ニホンがおかしいんですかね……?」


 確かに俺もそう思う。それに漢字以外にも覚える事も多いし、詰め込まれすぎだと思う。

 とりあえず、漢字にはもっと種類が沢山ある事は黙っておこう。


 そんな中、俺にとっては救いとなるような、ドアをノックする音が聞こえた。

 コヨンさんの笑みが少し引きつり、額には今までなかった冷や汗が流れるのが見えた。


「ど、どうぞ……」


 コヨンさんは少し声を震わせながら、入室を促した。


「ちょっとぉコヨンちゃん、もう休憩終わってるわよ! 私が五分でも休憩時間過ぎたら厳しい癖に!」


 入ってきたのは、ぷりぷりと怒っている様子のリナさんだった。

 ぐっと頬を膨らませ、眉間にこれでもかと深いシワを寄せ、まるで睨みつけるかのような視線を送っているが……その全身から漂う『怒っています』というアピールが逆に微笑ましく感じる。


「リ、リナ……すみませんでした……。ついつい未知なるものに夢中になってしまいまして……今すぐ戻ります。あ、アダチヤマさん。カタカナはまた別の機会にお願いしますね」


「アダチヤマさんも、急でごめんなさいね。ほらコヨンちゃん、行くわよ!」


 そしてリナさんがコヨンさんを引きずるようにして部屋を出て行き、部屋には俺一人が残った。……というか、俺一人だけ残ってもどうしようもないんだよな。俺も出よう。


 しかし……何をするかな?

 そろそろ昼時だし、どこかで飯でも食うか……ギルドの飯屋か、宿屋まで帰るか……。

 今日はメル達も仕事が終わったらそのまま宿に帰るみたいだし、それまでやることがないんだよな。

 大人しく宿に帰って、素直に自習でもしてようかな。

 キャサリーナさんにブライルドさん、おまけにコヨンさんと、文字を誰かに教えて貰うはずが結局失敗続きだし、次の先生っていうのもあまり期待できそうにない。自分で勉強した方が早い気がしてきた。

 ……もしくは、ミリィに先生役を頼むかだが、今さらあいつに頼むのも気が引ける。アイツも今は別の仕事で忙しいだろうし。


 とりあえず、さっさと宿に帰るか。

 最近はミリィの影響か、宿もかなり繁盛してるみたいだからな。空き部屋も無いらしい。

 せめて精霊……ということになっているミリィを一目でも見ようとするお客さんも多いのか、宿の食堂だけの利用客も多い。混雑するのもあって、最近では特別に部屋に料理を持ってきてくれるから、のんびり気兼ねなく食べられて便利なんだよな。


 ということで、今日はもう他に用事もない事だし、寄り道もせず俺はすぐに宿に戻ったのだが……案の定、宿の食堂は人でいっぱいだった。

 しかし、宿の看板娘であるベティさんがすぐに俺に気付いて声をかけてくれた。気のせいかもしれないけれど、こういう時に目立つ俺の顔は便利なのかもしれない。


「あーごめんねゴンゾーさん! 日替わりで良かったら後で部屋まで持って行くけど、どうする?」


「それじゃあお願いします」


 こんな感じで昼食を部屋まで持ってきてくれるのだ。

 なんだか少しだけ申し訳ないので、料金を少しだけ割増しで払っている。けど、そういう事をするから向こうもサービスを続けてくれるのかもしれない。持ちつ持たれつってやつだな。


 部屋に戻ると、当然だが誰もいない。

 最近はミリィといるのが当たり前すぎて、なんだか静かすぎて少し寂しさも感じる。

 思えば俺は一人っ子だったし、妹がいたらミリィみたいな感じだったんだろうか。まあ姿こそ幼女だけど、本来の姿は大人なので、姉といった方が正しいのかもしれないけど……。

 結構食堂の方も混雑していたし、ベティさんが来るのも少し時間がかかりそうだ。どうせ他にやる事も無いんだし、文字の勉強でもするしかないか……。


「しかし……見ながら何度も書き写すくらいしかやる事ないな……」


 早速コヨンさんに新しく書いてもらった文字表を見るが、結局できる事は書き写して覚えるくらいしかない。

 キャサリーナさんも言っていたが、反復練習が一番覚えられるんだよな。ちょっと嫌な人だったけど、そこは正論だったと思う。

 武道でも型や足さばき、基本の動きというのは、体に染みつくまで何度も何度も反復練習が当たり前の事だった。文字もそうやって覚えるしかないだろう。


 そして結局この日は、地味だが黙々と部屋で一人でずっと書き写しを続ける事になった。

 途中、ベティさんが食事を届けてくれたり、食べ終わった食器を下げに来てくれたりはあったが、メルとミリィが帰ってくるまで、マジでずっと写経でもしているかのように集中して書き写していた。

 ……でも、文字の勉強をしようとしてから、この時間が一番捗った気がする。


「今日は結局どうだったんですか? まあ、そうしてお一人で勉強しているの見るに、まだ新しい先生は見つかってないんでしょうけど……」


「仕事としては割がいいから、やりたがる人は多そうなんだけどねー」


 仕事から帰ってきた二人は、まだ夕食には早いので俺の部屋でくつろぎながら話している。


「いや、二人目の先生はいたんだけどな、ちょっとボケ始めてたのか、マトモな授業にならなくてな……。それでコヨンさんに文字表を書いてもらったから、次の先生が決まるまでは一人で勉強することにしたんだよ」


「ああ……だからわたしが一日串焼き三本で引き受けると言ったのに……」


「二人目の先生もダメだったんだ……運が悪いね……」


 二人に簡単に説明したが、確かに何なんだろうな、この運の悪さは。

 人との出会いの運はこの異世界に来てから良い方だと思っていたんだけどな……。あの二人が悪人だったというわけではないんだけど、先生としてはやはり良くはなかったからな。


「それより、二人はどうだったんだ? 今日は朝からだったから、疲れたんじゃないのか?」


 そうだ、俺よりも二人はどうだったんだろう?

 昨日は半日の仕事でも結構疲れていたのに、今日は朝からだったからな、かなり疲れただろう。


「それが意外と暇だったんだよね。午前中は確かに忙しかったんだけど、午後からは昨日よりも仕事が無くて、結構のんびりできたかも。一日分の報酬だったし、これなら稼ぎとしてもいい感じだったよ!」


 メルの方は昨日よりも楽だったようで、確かに表情を見てもあまり疲れは見えない。

 稼ぎについても、昨日は確か半日で四千アラドだったから、今日は単純に倍額くらい貰えたんだろうか。一日で八千アラドなら、確かに悪くない稼ぎだ。


「わたしも忙しいのは午前中だけでしたね。……でも、午後からはまた子供たちのお世話係をしてました」


 ミリィの方は……また子供の世話か。

 でも、昨日ほどの疲れは見えないから、少し慣れたのだろうか?


「ですが、わたしも同じ轍を踏むようなことはしません! あの子供たちは走り回ったりするような遊びしか知らないのが問題なのです! ゴンゾーさんに貰ったメンコを使って遊ぶことによって、体力の消耗を抑えつつ、ゴンゾーさんに勝つための修練を積むことができるのですよ!」


「……まあ、メンコが役に立ったんなら良かったよ」


 ちょっとした暇つぶし程度に作ったものだったけど、まあミリィや他の子供たちの遊びに使われて役に立ったんならよかった。どうせすぐに作れるし、予算もかからないし。


「あの~……それでですね、ゴンゾーさんに頼みがあるんですけど……」


「ん、どうした?」


 ミリィが頼みごとをしてくるなんて、どうしたんだろうか?

 なんやかんやでこいつは無茶な事は言ってこないし、今回はふざけたような感じもない。素直に聞いてやろう。


「メンコを、もっと作ってほしいんですよ。子供たちと一緒に遊ぶには数が足りなくて……あの子たちも欲しがってましたし、遊び道具は孤児院にはいくつあってもいいでしょうし……。ダメでしょうか……?」


 何を言われるかと思ったが、そんな事か。

 思ったより可愛い頼み事じゃないか。


「ああ、それくらいなら全然いいよ。メンコなら大量に作っても安く済むからな」


 しかし、ミリィもこの世界に順応してきたのかな?

 この世界の子供たちの為に遊び道具を作って欲しい、なんて言葉が出てくるとは……こういう所は元天使なんだろうな。

 まあ本当のところは、子供たちと遊ぶことで俺に勝つための練習ができる、なんて事なのかもしれないけど。


 明日はどうせ暇なんだし、ミリィの為にも雑貨屋に行ってみるとするか。

 

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