第九話:祭典の幕
帝都からの一行が、乾いた音を立ててルドゥスに到着したのは、祭典を四日後に控えた黄昏時だった。
ハンは調理場の狭い窓から、その光景を静かに観察していた。
豪奢な装飾が施された馬車が七台。それを取り囲む護衛の騎馬が十二。そして最後尾には、重く車輪を沈ませた荷車が三台。
(――荷車の沈み込み、約十五センチ。積載されているのは食料ではない。武具だ。それも、帝都の精鋭が用いる重硬な鋼の塊)
馬車の扉は固く閉ざされたままだったが、荷車の解錠を確認するために、一人の男が外に降り立った。
大柄な体躯。ハンの位置からは逆光で顔までは判別できなかったが、その「動き」だけで並の戦士ではないことが理解できた。重心が極めて低く、砂を掴むような広い歩幅。何千回、何万回と砂の上で死線を越えてきた者にしか宿らない、無駄を削ぎ落とした静かな歩法だ。
男は鍵を確認し、従者に短く指示を与えると、再び馬車の中へと消えた。
わずか三十秒の出来事。だがハンは、その男の筋力、反応速度、そして漂わせる圧を、脳内の台帳に深く刻み込んだ。
夕刻、ルドゥスの中庭に緊張が走った。
帝都の剣闘士たちが、旅の凝りを解きほぐすために姿を現したのだ。
柵越しに見る彼らは、全部で七人。
これまでハンが戦ってきた地方の剣闘士たちとは、根本的に「密度」が違っていた。ただ柔軟運動をしているだけでも、一つ一つの筋肉が連動し、精密な機械のように滑らかに動く。
「……どう見る、ハン」
隣に立ったライラが、腕を組んだまま低く尋ねた。
「強い。個々の能力値は、これまでの対戦相手の平均を二割以上上回っている」
「マルクスならどうだ?」
「今のマルクスが全力で当たっても、最初の数合で致命的な隙を突かれるだろう。それほどに、彼らの動きには迷いがない」
ライラが眉根を寄せ、少しの沈黙の後、問いを重ねた。
「では、あんたは?」
「……わからない」
ハンがそう答えると、ライラは意外そうに鼻で笑った。
「珍しいわね。あんたが『わからない』なんて、これで二度目よ」
「事実だ。まだ、彼らの『負けるためのコスト』が算出できていない」
七人の中に、一人だけ動かずに佇んでいる男がいた。
柵の端に寄りかかり、白髪の混じった頭を垂れ、他の六人を眺めている。体格は七人の中で最も小柄だが、他の六人が時折、確認するように彼へ視線を送る。
(――あの男が、重心だ)
視線の集積こそが、組織における強さの証明だ。
男がハンの視線に気づき、わずかに目を細めた。そして、小さく頷く。
敵意のない、しかし確かな「同類」への挨拶。
ハンは頷き返さなかった。ただ、その男の瞳の奥にある、底知れない淵のような静けさを記録に留めた。
「あの白髪の男、フェリクスというらしいわ」
深夜、房の中でセナが静かに告げた。
「彼は二十年以上、帝都の砂の上で生き残ってきた怪物よ。力技じゃない。技を極めて、相手の力を利用する戦い方に移行している。……ハン、あなたと少し似ている気がする」
ハンは鎖の手入れを止めず、淡々と答えた。
「俺は技を学んでいない。ただの効率の結果だ」
「それが一番、相手にとっては読みづらいのよ。自分でも次に何を出すか決めていない動きなんて、どんな達人でも予測できないわ」
祭典前日、ついに残酷な対戦表が読み上げられた。
第一試合、シム・ハン対ウェルス。双剣使いの技巧派だ。
第二試合、ライラ対ブルータス。
第三試合、マルクス対クラウス。
第四試合、セナ対ガルス。
そして最終試合――「黄金の男」との選抜戦。
「全員、初日に当てられたか」
マルクスが無表情に呟く。
「興行主の狙いは明確だ。初日で俺たちを一掃し、祭典の盛り上げ役として使い潰す気だ」
「逆に言えば」とハンが言葉を継ぐ。「全員が初日に勝てば、自由への切符を四人で独占できる可能性がある。一人でも負ければ、その瞬間に積み上げてきた計算が破綻する」
ハンはマルクスに向き直った。彼の相手、クラウスは重装の巨漢だ。
「マルクス、お前の相手は正面からは崩せない。だが、左の踏み込みがわずかに浅い傾向がある。第三話でお前を倒した時の俺の重心移動を、今から言語化する。覚えろ」
そこから一時間、ハンは自らの戦い方を論理的に説明した。
筋肉の収縮、重心のミリ単位のズレ、砂の抵抗値。
「……お前は、教えるのが恐ろしく上手いな」
マルクスが感心したように漏らした。
「普通、感覚で覚えた動きは言葉にはできないものだ。だがお前は、自分の筋肉を外側から観察しているように話す」
「記録しながら戦っているからだ。俺にとって、戦うことと記録することは、同義の演算だ」
マルクスは黙り込み、やがて静かに言った。
「お前は、どこまでも『記録係』のままだな。砂の上で血を流していても」
離れた場所では、ライラとセナが声を潜めて話していた。
「セナ、お前の相手は速い。逃げ続けて、隙を待て。スタミナを削れば、必ず予測できる瞬間が来る」
「……ハンに似てきたって、言いたいんでしょ?」
セナが微かに微笑む。かつて感情のままに動いていた少女は、今や冷徹な戦術家の顔を覗かせていた。
「怖いか、ライラ」
「……怖くない奴は馬鹿よ。怖いからこそ、あたしたちはまだ生きている」
深夜。ハンは一人、月明かりの下の演習場に立っていた。
誰もいない砂の上で、鎖斧を振る。
シュッ、と鎖が空気を切り、月光を反射した斧が円弧を描く。
不意に、自分の足元に落ちた影を見た。
痩せた、十八歳の記録係の影。
だが、その手の部分だけが、鎖を握りしめているせいで不気味に大きく見えた。
(――持っているものが筆から斧に変わっただけで、俺の手は、あの頃と何も変わっていないのか)
「影を相手に、何を確認している」
背後から、低く落ち着いた声がした。
振り向くと、そこにはあの白髪の男、フェリクスが立っていた。武器を持たず、無防備に砂の上に座り込む。
「……手の大きさが、変わっていないことを確認していた」
「ほう。それは面白い」
フェリクスは砂を一つかみ掬い、指の間からこぼれ落ちるのを眺めた。
「明日の相手、ウェルスは右の突きが強い。だがその分、左の引きが甘い。……お前なら、そこを突けるだろう」
ハンは怪訝そうに男を見た。
「なぜ、敵である俺にそれを教える」
「二十年も砂の上にいると、強さが勝つだけの試合には飽きるんだ。お前のような『異物』が、帝都の常識を壊すところが見たい。……黄金の男を、引き摺り下ろしてほしいんだよ」
「黄金の男……どんな男だ」
フェリクスの目が、一瞬だけ鋭く光った。
「俺が二十年で出会った中で、最も完成された『暴力』だ。三年前に一度戦ったが、俺は負けた。それで引退を考えたが、結局、砂の上以外の生き方を知らなかった」
フェリクスは立ち上がり、砂を払った。
「黄金の男には、弱点がある。だが、それはウェルスに勝った後で教えてやる。勝てない者に教えるほど、俺の時間は安くない」
「公平だな」
「二十年の習慣だ。……一つだけ言っておく。黄金の男は強いが、お前の方が『生きること』に飢えている。それが最後に、数値をひっくり返す変数になるかもしれん」
フェリクスが去った後、演習場には再び静寂が訪れた。
ハンは一人、再び鎖を握る。
ライラ、セナ、マルクス。
そして、今夜現れたフェリクスという未知の変数。
(記録:祭典前夜。生存者四名。帝都の剣闘士、分析完了。……明朝、演算の真偽を砂の上で証明する)
月光の下、ハンの影が長く伸びていた。
その影が筆を握るか、斧を振るか。
答えは明日の砂が知っている。




