最終話:砂の向こうの地平線
帝都を離れる街道の分岐点で、四人は足を止めた。
かつてルドゥスの第七房で、泥と血にまみれながら互いの背中を預け合っていた仲間たち。今、その顔には、闘技場の重圧から解き放たれた、穏やかな光が宿っていた。
「俺は、帝都の西にある古い街で、小さな鍛冶屋を始めることにした」
マルクスが、包帯の巻かれた肩をすくめながら、晴れやかに笑った。
「剣を振るうのはもう御免だが、剣の『重心』を見る目だけは、誰よりも肥えているからな。ハンの言語化のおかげで、不器用な兵士たちに、本当に使いやすい武器を打ってやれる自信がある」
元・没落貴族の騎士。今やその目に虚飾はなく、職人としての実直な光が宿っていた。
「私は……この国境の街に残って、自警団の教官になるわ」
セナが、マルクスの大剣を背負い直しながら言った。かつての気弱な少女の面影はない。帝都最速のガルスを「静寂」で討ち取った彼女の教えは、多くの若い兵士たちの命を救うだろう。
「逃げることも、立派な戦術。ハンの教えを、今度は私が、次の世代に演算してあげるの」
マルクスとセナ。二人はそれぞれの「生」の技術を、平和な世界へと還元する道を選んだのだ。
そして、ハンは旅に出ることを決めていた。
故郷を失い、記録係の筆を奪われ、砂の上で鎖斧を握り続けた三ヶ月。世界をただの「生存のための数値」としてしか見てこなかったハンが、今度は自らの足で、世界の本当の姿を記録し直すために。
「……あんた、一人じゃまた、行き倒れてコスト計算する羽目になるわよ」
ハンの隣に、大きな荷袋を背負ったライラが立った。
腕を組み、不敵に笑う野性の女戦士。彼女もまた、ハンの隣にいることを、自らの意志で選んだのだ。
「ライラ。旅のコストは、一人よりも二人の方が、食料消費量において倍増する。……生存確率は、計算上低下するはずだ」
ハンの乾いた呟きに、ライラは呆れたように肩をすくめた。
「馬鹿ね。あたしがいれば、野獣の肉を狩れるし、夜露を凌ぐ場所も見つけられる。……二人の方が、生存確率は跳ね上がるのよ。記録係」
「……なるほど。その変数は、俺の台帳にはなかった。採用する」
ハンが小さく微笑むのを見て、セナとマルクスが、本当に嬉しそうに笑った。
街道の分岐点で、四人は手を重ね合った。
言葉は、もう必要なかった。生きて、またどこかで会う。それだけが、彼らの間に結ばれた、絶対的な暗黙の演算だった。
マルクスとセナが西へと歩き出し、ハンとライラが、東の地平線へと向かって歩き出す。
乾いた風が、二人の頬を撫でていく。
ハンは、懐から一冊の真っ白な羊皮紙を取り出した。ルドゥスを出る際、フェリクスが無言で手渡してくれた、真新しい台帳だ。
ハンは立ち止まり、拾い上げた炭の欠片で、その最初の頁に、静かに文字を書き加えた。
(記録:旅立ちの朝。同行者、ライラ。天候、快晴。風速、東から二メートル。……眼前に広がる世界、未知。……演算、永続的な『幸福』へと移行。……記録を、再開する)
ハンは台帳を閉じ、しっかりと胸に抱えた。
隣を歩くライラが、そのハンの横顔を見て、悪戯っぽく笑いながら、彼の手を握りしめた。
泥まみれの鎖を捨てた記録係の手は、いまや未来を、そして隣にいる大切な人の温もりを、確かに掴み取っていた。
世界の果てへと続く街道の上で、二人の影が、夕日の中に長く、美しく伸びていった。




