第十五話:絶対王者の調律
第四試合の砂塵が静まり返り、セナが息を切らせながら通路へと帰還した。
地方の奴隷剣闘士たちが、帝都の精鋭を相手に奇跡の四連勝。本来であれば、ルドゥス全土が揺れるほどの大歓声が沸き起こるはずだった。しかし、闘技場を包んでいるのは、胃の底が冷たくなるような「沈黙」だった。
貴賓席から、一つの人影が静かに立ち上がった。
現皇帝の嫡男であり、この帝国の不敗の象徴――レオニダス。
彼は絢爛な天幕から足を踏み出し、ゆっくりと階下へと歩を進めた。周囲の貴族や衛兵たちが、まるで神を前にしたかのように、音もなく道を開け、深々と頭を下げる。
レオニダスは誰にも視線をくれず、ただ無言で地下の準備室へと向かった。
ハンの視線が、その黄金の背中を追う。
(――歩幅、八十センチ。一定。呼吸数、一分間に十四回。四連勝という異常事態を目の当たりにしても、彼の生体数値には一切の乱れがない。傲慢さゆえの油断ではない。これは……絶対的な自己への信頼だ)
地下の準備室は、ひんやりとした冷気に包まれていた。
レオニダスは、部屋の中央に置かれた木製の台の前に立った。台の上には、磨き抜かれた黄金の甲冑、巨大な重盾、そして東の国の湾曲刀(日本刀の原点)が、整然と並べられている。
レオニダスは、準備を入念に行う男だった。
決して、生まれ持った血筋や才能だけに溺れているわけではない。彼は、自らが「無敗の象徴」であり続けるために、狂気的なまでの完璧主義をルーティンとして課していた。
まず、素肌に軟膏を塗る。汗による甲冑の擦れを防ぎ、数ミリの挙動の遅れも排除するためだ。
次に、下着の紐の結び目を一つずつ確認する。締め付けが強すぎれば血流が滞り、緩すぎれば重心がブレる。彼は全ての紐を、寸分の狂いもない一定の張力で結び上げていった。
黄金の胸当て(ロリカ)を身に着ける際、従者が手伝おうと手を伸ばしたが、レオニダスはそれを無言の手で制した。
自分の体に触れる鉄の重み、革紐が軋む音、肩にかかる荷重のバランス。それらを自分の五感だけで知覚し、微調整していく。
カチャリ、カチャリと、静かな部屋に金属音が響く。それは、絶対的な暴力を組み上げていく、厳かな儀式のようだった。
最後に、武器の点検に移る。
レオニダスは、台から東洋の湾曲刀を取り上げた。反りの美しい、白銀の刃。
彼は目を閉じ、柄の握り心地を確かめる。そして、暗闇の空間に向けて、音もなく刃を突き出した。
――疾い。
空気が鳴る暇さえ与えない、文字通り帝国最速の刺突。
引き戻された刃の切っ先を、彼は指先でそっとなぞった。脂の付着を嫌い、絹の布で丁寧に拭う。
次に、巨大な重盾を左腕に通した。
ただ腕を通すのではない。盾の裏側に仕込まれた三本の革ベルトの締め具合を、何度も確かめる。シールドバッシュの際、自分の骨に伝わる衝撃の反動を逃がすための最適な角度。それを、筋肉の感覚だけで割り出していく。
全ての装着を終えたレオニダスは、部屋の隅に置かれた水瓶から、一杯の水を掬って口に含んだ。
そして、鏡の前に立つ。
黄金の面を被る前の、その素顔。端正で、冷徹で、何一つ曇りのない、絶対者の顔。
「……演算など、必要ない」
レオニダスは、鏡の中の自分に、初めて静かな声で呟いた。
「私は、世界の理そのものだからだ」
彼は黄金の面を顔に当て、革紐を後頭部で固く結んだ。
表情が消え、そこにはただ、無機質な黄金の「神」だけが残された。
準備室を出たレオニダスが、闘技場へと続く薄暗い通路を歩いていく。
通路の反対側から、ハンのチームが歩いてくるのが見えた。
ライラ、セナ、マルクス。三人は傷つき、砂と血に塗れ、肩で息をしていた。その中心に、無傷のまま、手首に不格好な鎖を巻いたハンが立っている。
通路のすれ違いざま、レオニダスとハンの視線が交錯した。
黄金の面越しに見るレオニダスの瞳は、ゴミを見るような軽蔑のそれですらなかった。
ただ、自らの前に置かれた「障害物」の寸法を測るような、冷たい排除の光。
ハンもまた、表情を変えずにレオニダスの全身を「スキャン」していた。
(――装備の装着状態、完璧。重心の安定性、極致。武器の手入れ、異常なまでの細密さ。……この男は、傲慢なだけの貴公子ではない。自らの様式を研ぎ澄ませることに、生涯を捧げてきたプロフェッショナルだ)
すれ違う刹那、レオニダスが足を止めることなく、ハンにだけ聞こえる音量で呟いた。
「三ヶ月の泥が、帝国の歴史に挑むか」
ハンの答えは、静かだった。
「歴史がどう記録されるかは、まだ計算の途中だ」
黄金の背中が遠ざかり、闘技場へと続く陽光の中へと消えていく。
ハンは、手首に巻いた千切れかけの鎖を、もう一度きつく結び直した。
(記録:最終試合直前。対象レオニダス、コンディション最高。油断の兆候なし。……泥の演算の全出力を、この一戦に集中させる)
ハンの瞳の奥で、静かに、青白い火花が散った。
不敗の黄金と、泥まみれの鎖。
世界のすべてが、今、砂の上の数式へと収束しようとしていた。




