あれ師範代、風呂はまだですか?
現実での夕食時、師範がやけに楽しそうに笑顔を浮かべて食事をしているのが気になった。気になっているのは俺だけなのかもしれない。他の師範代や内弟子達は特に触れずに食事をしている。
だがこういう時の俺の勘は自慢では無いが外れた事があまり無い。いっそ聞いてみるかと思ったが、それも何だか嫌な予感がするのだ。
そんなモヤモヤした感情を抱えながら夕食を終え自室に戻る。さてこんな時どうしてくれようかと考え、稽古着で道場へと向かう。道場では夜の部に通っている門下生が他の師範代の指導の下稽古を行っている。
その姿をただ正座して見つめていると、若干門下生達が居心地悪そうに見える。うーむ、余計なプレッシャーを与えてしまったか。これは良くないと思いその場を辞して中庭へと向かう。
中庭に立った巻藁を無心で殴り始めると、風呂上がりの拳児がやってきた。
「あれ師範代、風呂はまだですか?」
「うむ、少しな」
言いながら巻藁を殴りつつ、拳児に問う。
「なぁ拳児、夕食時の師範、少し様子が普段とは違わなかったか?」
「そうですか?普段通りだったと思いますけれど。それより師範代、風呂入った方がいいですよ」
「……そうか、分かった」
拳児の答えに頷いて拳打を止める。そして風呂に入ってから、今日はもう寝ようかと思った。こんな時は早めに寝るに限る。
『ソウ:今日はもう寝る』
『リフレ:どうかしたんですか?』
『ソウ:何だか嫌な予感がする。備えの為に早めに寝ておく』
『ネスティフ:そうなの。お大事に』
こういう時お大事にで合っているのか?と思いつつガジェットをしまう。そうしてそのまま就寝し、翌朝。
いつもより早めに目覚め、稽古着を着て中庭へ向かう。昨日と同じように巻藁を殴っていると、隼人がやってきた。
「師範代、おはようございます。今日は早いのですね」
「うむ、おはよう。何だか嫌な予感が昨日から止まらなくてな」
「そうですか。もう少々で朝食の時間です、そろそろシャワーを浴びてきて下さい」
「そうか、分かった」
隼人に言われるまま風呂に入り、服を整え食堂へ向かう。自分の席に着席して食事をし、さぁ朝稽古だと思った所で本日の連絡事項が通達された。
「今日は私と宗吾は外出の予定だ。宗吾以外は連絡があるまでいつも通りでいい。宗吾は礼装で私に着いてくるように」
これか。これが昨日からの嫌な予感の正体か。一縷の望みを賭けて、俺は師範に問う。
「師範。礼装とはどの程度の?」
「色紋付でいい。相手に失礼のない程度のものを」
その言葉にホッと胸を撫で下ろす。良かった、最上級じゃない。ならばまだ、マシな程度の事だろう。
そうして色紋付で身支度を整え、最終確認を母にしてもらい、少しだけ道場に顔を出してから家を出る。門の外に待機されていた車の後部座席に師範と共に乗り込む。
運転手の運転する車が家を出て30分程、高速道路に乗ってから少しして、俺は口を開いた。
「師範。そろそろ種明かしをしませんか?」
そう聞くと師範は、笑顔のままで俺に告げる。
「でもそうすると、連絡してしまうだろう?」
連絡――誰に――どこ、に。思い当たってすぐにガジェットを取り出し連絡する。
『ソウ:ネス逃げろ』
『ネスティフ:今日は忙しい』
『ソウ:いいから』
『ネスティフ:大事な来客があるの』
『ソウ:それは俺と親父の事だ』
しばらく時間を置いて、返信が来る。
『ネスティフ:早すぎる』
『ソウ:俺もそう思う』
『ネスティフ:ありえない』
『ソウ:それができてしまう』
『ネスティフ:でももう無理』
無理、無理か。そうか。無理なのか。ふぅ、と一つ溜息をついてから横を向く。
「……さすがに何もかもが早すぎるのでは」
「迅速果断、それがウチのしきたりだよ」
「一体どうやって?情報が何もなさすぎるでしょう」
「そうでもない。お前の言った通り、身体操作の術を代々伝えてきた家の者だ。それに何より、本人の顔がはっきりと分かるものがある」
公式動画か。確かにそれと分かる者が見れば分かってしまう。本人は顔のパーツを弄っていないのだから。しかし、それにしても。
「手回しの方も、良すぎるのでは」
「相手の欲しい物を与えるだけだ、誰にでもできるさ。お前ならなおさらだ。そら、着いたぞ」
いつの間にか高速道路を降りていたらしい。住宅街の中、一軒の周囲より少し大きな家に辿り着いていた。
運転手が車のドアを開けた所で外に出て、入り口の門構えを見る。門の横の看板には『根須体操術道場』と書かれていた。根須だからネス、か。俺も人の事を言えんが、中々安直だな。
そう思いつつ師範の後ろに続いて門を潜る。道場の入り口では、壮年の夫婦と俺とそう変わらない程度の若い夫婦、そして――間違いなくネスである、黒髪をショートカットにした小柄な女性が立っていた。
俺は今一体どのような表情をしているだろうか。少し不安になりながらネスを見ると、彼女は表情を固くして俺を見ていた。そうもなるよな。
「この度はお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。九堂武術道場の師範、九堂隆二です。こちらは私の跡継ぎとなります師範代、九堂宗吾です」
「九堂、宗吾と申します」
なんて間の抜けた自己紹介だろうか。白々しい、馬鹿らしい。そんな事を思いつつ頭を下げる。すると若い夫婦の方の男性がにこやかに挨拶を返してくる。
「これはご丁寧に。根須体操術が師範、根須家当主の根須龍勢です。こちらは私の父であります後見人の根須兼行と、母となります根須佳子。私の妻の根須成南。そして、妹であります根須智香子です」
根須智香子――だからネチカ、か。それぞれが頭を下げるのを見つめながら思っていると、綺麗な所作でネスが頭を下げる。
「根須、智香子でございます」
こいつも今頭の中で何を考えているのだろうか。俺と同じような白々しさを感じていると、少し俺の心も救われる。
そうして全員が頭を下げた所で道場の中へと案内される。道場の中は綺麗にされていて、そこで一通りの話をされたが頭の中に入ってこない。
俺は今何を考えるべきか、どうするべきなのか。ぐるぐると駆け回っては答えが出ない。そんな俺の様子を見ながら、師範が当主に言う。
「この度は智香子さんの当家道場への招請に応じて頂き、まことにありがとうございます」
招請――なるほど。そういう段取りなのね。こちらからお願いして招くという形を取ると。それで相手に得があるのだろう。
師範同士にこやかに言葉を交わす。その様を白々しい気分で聞いていると、相手の師範がネスへと視線を向ける。
「それにしても。智香子が宗吾殿と既知であったとは驚きました。相違ないか、智香子」
「――はい、そうです。私は宗吾様と既知の仲でございます」
師範の言葉にネスが静かに頷く。それを見つめるのも心苦しい。そうしていると、師範が俺に問う。
「宗吾、智香子さんと少しお話をしてきなさい。話の詰めはこちらでやっておく」
「分かりました。智香子さん、お茶を頂けるか」
「私でよろしければ、ご案内いたします」
そう告げるとネスが立ち上がり、俺を先導する。少し道場から離れた和式の応接室に入り、席に座る。
そうして静かにネスが茶を用意して、俺の前にお茶を置いた所で、ネスに土下座する。
「――此度の事、申し訳ない」
「お止め下さい」
「だが、此度については余りにも性急に過ぎる」
「頭をお上げ下さい、困ります」
「だが……」
「困ります」
困らせるつもりはない。俺は頭を上げて、ネスを見る。彼女は苦笑を浮かべてお茶を差し出してきた。
「落ち着かれて下さい。まずはお茶を一口、どうぞ」
「……分かった」
勧められるままに一口飲む。緑茶の渋みが口に刺さり、ひどくじんわりと広がっていく。それを感じていると、ネスが喋りかけてくる。
「確かにこの度は、驚きました。ですが私にとっては、そう悪い話でもありません」
「そう……なのか?」
「はい。少なくとも今のまま家に居るよりは、きっと。これも良い機会なのだと思います」
そう言うとネスは、淡く微笑む。その言葉に少しだけ胸のつかえが取れる。本当に、来たくもないのに招請しているのであれば俺は、親父を許せない所だった。
「今朝から既に、荷物は纏めてあります。きっと本日からお邪魔する事になるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく頼む。……一つ、普段どおりといかないか?」
「と、申しますと?」
「俺はお前とはそこまで丁寧な間柄じゃないと思うが」
「少なくともこの家を出るまでは、今のままで」
ネスの答えに頷く。少なくとも今は、その方が良いのだろう。
「それでは普段は……智香子と呼んで問題ないか」
「そうですね。私からは――宗吾様、と」
「様はやめてくれ」
「少なくとも今はまだ、宗吾様、です」
嫌がる俺にクスリと笑いながらネス――智香子が応じる。はぁ、やれやれ。家に帰るまでが大変だ。
そう思っていると、懐に入れたガジェットが震える。同時に智香子も裾からガジェットを取り出すのを見て、誰からの連絡か思い当たる。
『リフレ:朝稽古終わりました。今どんな状況でしょうか』
予想通りの相手に思わずクスリと笑うと、お互いありのままを伝えた。
『ソウ:お茶を飲んでいる』
『ネスティフ:お茶を入れたわ』
『リフレ:あぁ、やっぱりそうなんですね。早すぎませんか』
『ソウ:その苦情は親父に言ってくれ』
そうしていると、静かに足音が近づいてくる。先程対面した足音の主の正体に思い当たると、その足音は静かに応接室の襖を開いた。
「失礼いたします。智香子さん、荷物を」
「はい、お義姉様。それでは宗吾様、失礼いたします」
「宗吾様、師範殿がお呼びですのでこちらへ」
「分かりました」
そうして俺と智香子は応接室で分かれ、俺は誘導されて道場へと戻る。そこでは既に、師範が外履きを履いていた。
「話はできたか、宗吾」
「はい」
「ならば行こうか」
そういう師範を追いかけて門の前まで行くと、智香子の母親がトランクにキャリーバッグを入れている所だった。それを一つ入れて一息ついたようだ。
そうして振り返った智香子の母は、俺の前まで来ると丁寧に頭を下げた。
「宗吾様。娘を、智香子を何卒よろしくお願いいたします」
「は、はい。かしこまりました」
え、なんだこの真剣さは。一体どういう話になっているんだ。そう思いながら師範を見ると、師範はニヤリと笑みを浮かべたまま何も言わない。こ、この野郎。
そうして智香子の母親が去るのを視線で追うと、その先には手提げかばんやリュックサックなどを背負ったままキャリーバッグを引きずる智香子の姿があった。
いやいや、お前のその体格でそれは無理でしょ。そう思い智香子の側へすぐさま寄り、キャリーバッグ等を持つ。
「背負っているものも持つから渡せ」
「宗吾様、ですが」
「いいから」
そう言って荷物のほとんどを受け取る。俺の体格であればこの程度問題ない。そのまま荷物をトランクに入れてから智香子へ確認する。
「これで最後か?」
「はい、それで最後です。後の荷物は後日送ってもらう事になっております」
「分かった、トランクを閉めるぞ」
頷いたのを確認してトランクを閉める。荷物が手提げ鞄だけになった智香子は両親と抱擁し、手を取り合い挨拶をしていた。最後に智香子の父親が、俺に対して頭を下げる。
「娘を、よろしくおねがいします」
「は、はい……」
いやどういう話になってんだよ。説明しろよ親父。そう思って車を見ると、師範は早々に車の助手席へと乗り込んでいた。そこに何とも言えないものを感じながら俺は運転手の開けている後部座席へと乗り込む。その隣に智香子が乗り込むと扉が閉まる。
智香子は膝の上に手提げ鞄を乗せた状態だが、体格の所為で抱えているように見える。そのまま車は発進し、『根須体操術道場』を後にした。
車の中でしばらく黙っていると、師範が声をかけてくる。
「随分と不機嫌そうじゃないか」
「そりゃあそうでしょう」
「良かったよ、助手席に座って」
「隣に居たら殴っている所です」
「お前に怒り任せに殴られたらさすがの俺でも死んじゃうよ」
そう言っておどけて首をすくめる親父を、本当に殴りたくなってくる。隣に座る智香子はその様子を、困ったような表情で見つめる。
「それで親父。ご両親になんて言ったんですか。変に気合を入れて娘をお願いしますと言われたんですけど」
「あぁそれね。もしなんかの機会に行くとこいっちゃって子供でもできたら将来の跡取りになっちゃうかもな~って」
「ほんとこのクソ親父殴りてぇ」
何を余計な事吹き込んでるんだこのクソ親父は。一発殴らせてくれないだろうかと思っていると、智香子は頬を染めながら親父に問いかける。
「そ、その。宗吾様には既にお相手がいらっしゃるのでは」
「あぁ、そういえば涼子の事も知っているのか。まだまだ、内々定って所だよ。だから智香子さんも、内々定。そこから先は本人次第」
「誰がその内々定を出しているんですか誰が」
「当然当主であり師範である俺が」
はっはっはと笑う親父。もうほんとこの人は。殴りてぇ。
「それより智香子さん、普段からそんな風に話しているのかい?」
「え、えぇそうです。普段から――」
「そういう意味じゃない、智香子。俺とお前の話だ」
俺がそう言うと、智香子は一旦黙り、次いで溜息を一つ吐いた。
「……そうね。宗吾、って呼べばいいのかしら」
「そう、そういう事だ。それで問題ない、智香子」
「それにしても、宗吾だからソウって安直じゃない?」
「お前だって根須だからネスだろうが。根須智香子だからネチカだったんだろ」
お互いに言い合っていると、親父が下手な口笛を吹く。
「下品な真似はやめてください親父」
「ごめんごめん。随分と気安いんだな、と。こりゃ涼子もうかうかしていられないね」
「涼子は関係ないでしょう」
「本気でそう思ってると母さんに息子を切り飛ばされるぞ」
あの時の真剣な母の言葉を思い出し苦い顔をする。どうしてこう、みんな俺の息子をどうにかしたくなるのか。もっと大事にしてほしい。
「それでこのまま家まで行っちゃうけどいいよね。振り袖や色紋付で食事する訳にもいかないし」
「それはいいですけど、そういえばなんで今回色紋付なんですか。黒紋付でも良かったのでは」
「だってウチの方が格上だし」
「それをそこの娘がいる前で堂々と言えるのがすげぇよ」
俺の言葉に親父は再びはっはっはと笑った。




