ヒト・カタ・ヒト・ヒラのこと1
2025-0625口絵更新
扶桑とは、死と誕生を繰り返す輪廻の樹。
いま、正しき輪廻に還る時。
1952年1月下旬、栃木県某所。
辺りは見渡す限りの田畑に、西に顔を向ければ雪の積もった日光山が壁となって立ちはだかる――田舎オブ田舎。
道路はほとんど舗装されておらず、道には牛馬が行き来して、ところ構わず野グソを垂れる――日本のごく一般な風景。
雪解けでぬかるんだ泥道に、深い足跡が刻まれていた。
さして大きくもない少年の靴が、勢いよく駆け抜けていった跡を辿ると、一軒の民家に続いていた。
かつては豪農の屋敷であったろうその家は、薄汚れ、壁にはヒビが入り、終戦直後の農地改革からこの方落ちぶれる一方なのだと見て取れた。
玄関に掛けられた古ぼけた表札には〈奥上〉と名字が刻まれていた。
泥まみれの足跡は玄関の中に続き、開けっ放しの戸口から、大きな大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「だーかーらーよぉーー! 親父の考えは古いっつってんの!」
半ば呆れたような少年の声と
「古くてなンにが悪いがね! 先祖代々の伝統さ守るのが何が悪ィか、言ってみろヨ、コラァ!」
かなり興奮した訛り口調の中年の声だった。
その後、暫く口論が続いた。
「ペテンとは何だきお前!罰当たりィ! 我が家はァ! 弘ォ法大師様から連綿と受け継がれた血脈の由緒正しい真言密教を! 今の世に正しく伝える日本唯一の家系であり――」
中年は何やらわけの分からないことを説明して
「俺の見立てじゃ、今から20年以内に人類は月に行ける! ロケットが宇宙まで飛ぶ時代によ、マジナイなんて流行らね~~んだ、よっ!」
少年は現実味のない夢物語を口にして
時代も価値観も違い過ぎる二人の口論は袖ほども交わることなく、どんどん距離が離れていって、
遂に少年は家を飛び出した。
「バ――――カ! 滅びろクソカルト!」
捨てた台詞は実家との決別。
呪わしき我が家に呪詛の言葉を投げ捨てて、少年はどこかへ走り去っていった。
普通の親子喧嘩ならば、どうせ夜には帰ってくる。家出しても数日中には帰ってくる――というのが定石だが、奥上家にそれは当てはまらない。
何度目かも分からない親子喧嘩。
口論の度に明らかになるのは、互いの価値観の違いだった。
1000年前の伝統にすがり、朽ちゆく家にしがみつく父を、息子は狂人と哀れんだ。
科学を学び、叶いもしない絵空事に現を抜かす息子を、父はうつけと罵った。
水と油は決してまじわらない。
同じ屋根の下、異なる思想を頑なに捨てない二者が同居できるわけがなかった。
それでも、息子はまだ高校生だから、生活のために耐えるしかなかった。
息子が我慢をするのを止めたのは、その必要がなくなったからだ。
残された父――奥上剛は、息子が二度と帰ってこないのを悟り、暗澹たる表情を浮かべた。
「バカが……何がロケットじゃ。何が東大の推薦状じゃ……。人が月に行けるワケなかろう……」
ロケットなんて、全く意味が分からない。
ニュース映画で旧海軍の空母がそれらしいものを撃っていたのを見たことはある。あとはアメリカ軍の戦闘機が武器として積んでいる、程度しか知らない。ジェット機と同じではないのか。
理解できないし理解する気も起こらない。
息子は一体誰にたぶらかされたのか。学校の教師だろうか?
信者集めもとい金集めに奔走するあまり、息子の相手をしてやれなかったのが悪かったのか。我が家の伝統のためなのに。家族を養っていくためなのに、どうしてそれを分かってくれないのか。
そもそも、あいつの食ってきた飯も、あいつの着ている服も、あいつが科学を学んだ教科書も――
「俺が与えたものは全部……みくら様で稼いだ金で買ったんじゃねぇけ……」
奥上剛は、畳に尻餅をついた。
古い畳だ。もう10年も取り替えた覚えがない。
奥上家は貧しかった。
農地改革でGHQに田畑を奪われてから、没落の一途だ。
まじないにしても信者は全盛期の1/10に満たない。そんな目に見えない力よりも、もっと強い力が日本を打ち負かしたのを見て、幻滅した人間が多いのかも知れない。
だが、そんなまじないで稼いできたのは事実だ。
まじないは金になる。信仰は金になる。
対価として、信者に心の安寧を与えてやる。人生の苦悩の答を与えてやる。
それで十分じゃないか。それで息子も食わせてこれたんじゃないか。
なのに、どうして息子は父の仕事を否定するのか……!
「どうして……分からんのかねえ……」
悩ましく、苦しく、奥上剛は部屋の奥に目を向けた。
仏壇がある。
祀られているのは仏像ではない。
漆塗りの木箱だった。
いかに宗教のご本尊といった体だが、中身は伺えない。
それが、〈みくら様〉だった。
奥上剛が空しく救済を求めても、〈みくら様〉の収まる伽藍から、何の返答もなかった。
当たり前だ。
だって、あの中身は――
「ごめんくださぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!!」
唐突に、大声がした。
玄関から聞こえてくる。
「奥ゥーー上ィーーさん? のお宅ゥゥゥゥゥですよっ、ねぇぇぇぇぇぇぇ? いますよねぇぇぇぇぇぇぇ? 玄関開いてますしぃぃぃぃぃぃぃ! 居留守ゥ! 使わないでェ~~ェ! くぅださいよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
うるさい。
あまりにもうるさい、男の声だった。
まるで空気の読めない来客に、奥上剛は怒りすら覚えた。
「帰ってくれぇ! 帰れぇ!」
男に負けぬくらいの大声で拒絶の意思を返したが
「いやでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇす!」
男は更に大声で跳ね返し、屋内に無断侵入を果たした。
しかも土足だった。
泥まみれの靴で、部屋まで上がり込んできた男。見知らぬ男。
その、メガネをかけた中年が、部屋の入口から奥上剛を見下ろしていた。
「こんにちわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「だっ……」
誰だお前――と続けようとして、奥上剛は舌を噛んだ。
急なことで動揺してしまったし、男の雰囲気が異様で気圧されてしまったからだ。
男は目をフクロウのように大きく見開いていて、正気の沙汰ではないと分かった。
「はじめましてぇぇぇぇぇ! 私! 東隆輝といいまぁぁぁぁぁぁぁぁス!」
一方的な自己紹介だった。
奥上の意思など関係なく、東なる男はズカズカと畳を泥で汚して接近してきた。
「なっ……なに……!」
「ああ↑~あああ~↓あ! あ!」
東は妙なイントネーションで叫びながら、奥上の横を通りぬけて、仏壇の木箱に触れた。
「見ィつけたァ! やぁーーーーっと! 見つけたァ! 意外と近くにあるもんだ♪ 灯台モトクラシ♪ うふ♪」
東は狂った笑みを浮かべた。
気味が悪い。関わってはいけない類の人間だと確信する。
だが、冷静に見れば1000年来の大切な商売道具に勝手に触る不法侵入者。
奥上は無我夢中で東に掴みかかった。
「なにすんじゃお前ェェェェェェェ!」
「おーぅ、おーぅ……落ちつこう、落ちつこう? 別に私、コレ盗みに来たとかじゃあ、ないノ」
「じゃあ、なんなんだお前ェェェェェェェェ!」
興奮する奥上とは対照的に、東は一転して落ち着いた表情に変わった。
「ふん……ミクラ様、と呼ばれているコレは1000年前にとある密教集団が使っていたご本尊だ。しかし、彼らはマトモに仏教を広めている人達にとっては取るに足らない新興の邪教。もしくは密教モドキの民間信仰マジナイ師。どちらにせよ、歴史に名前すら残らない木端集団だった。だから、今となって誰も彼らの教団名を憶えていない」
まるで学者のような口振りで、奥上も知らない内容をペラペラと話している。
奥上は、呆気にとられた。
「な……なに言ってんだぁ……?」
「あら? 自分の扱ってる商売道具のこと、知らなかった? まあ、弘法大師の弟子筋云々っていうのは、いつのまにか箔付のために追加された設定だよね。そもそも、コレは奥上さんのご先祖様が明治維新の頃に寺領を取り上げられたどっかの坊主から、布教マニュアルと一緒に買い入れたマジナイ道具だ。奥上って名字もその時に買った。つまり、別に奥上さんは1000年の伝統を由緒正しく伝承してるワケじゃないんだよね」
「う……」
痛い事実を突っつかれた。
全てはせいぜい90年前に豪農の曽祖父が買ったモノだ……というのは、マジナイのネタバレに近い核心だ。
「そ、そんなこと……誰から……」
「まぁー、色々と調べてたからネ。でも奥上さんの家のことなんて、私にはどうでも良いから安心してネ。私の目的は、コレの中身」
既に奥上の抵抗はなく、東は難なく木箱を開けた。
観音開きの箱の闇の中には……形のある闇があった。目を凝らせば、光をほとんど反射しない、その輪郭が見えてくる。
それは……ぶ厚く墨で塗り固められた、人間の頭蓋骨だった。
「1000年前のとある密教集団は、頭蓋骨をご本尊にしていた。それは時として真言立川流と混同され、立川流は謂れのない誹謗中傷を受けることになったが、それはまた別の話。彼の集団はご本尊を使って性的な宗教儀式に耽っていたとも言うが、それがインドのタントラに起源を持つものかは今となっては確かめる術もない。ともあれ、コレが1000年の永きに渡って人の願いを受け止め続けたのは確かだろうネ」
「だ、だから……なんだ?」
「ふん? 出自も知識も怪しい集団とはいえ、ただの人間の頭蓋骨をご本尊にすると……思います?」
含みのある言い方で、含み笑いを浮かべて、東は奥上を覗きこんだ。
「奥上さんに提案があります。大きな商売……したくありません?」
「何を言うかと思えば……」
要は投資を持ちかける詐欺師の類なのだろう。
そう思うと、奥上に冷静さが戻ってきた。
東という男が自分以下の下賤な犯罪者なら、恐れる必要はない。とっとと追い出してしまえばいい。
だが、東はにぃーーーっと笑い、底知れぬ闇のような目を向けてきた。
「詐欺ではありませんよ? だってこの商売は、人を幸福にするんですから」
「う……」
奥上は言葉に詰まった。
信者に幸福を与え、その対価として金銭を受け取る。それを生業として正当化していたのは、他ならぬ奥上自身だ。
ご本尊の〈みくら様〉を抱きながら、東はうっとりと語りかける。
「奥上さんはお金持ちになって、お客さんは幸せになって、私の望みも叶うゥ……。売り手ヨシ、買い手ヨシ、世間ヨシ、そしてワタシヨシの四方ヨシ! スバラシィーイ♪」
「あんたの望み……? 金か?」
「いいえ?」
「名声?」
「いーーえ♪」
奥上の問いに、東は全て否定で答えた。
金も名もいらないのなら、一体なにを望むのか。
俗人の奥上には想像がつかなかった。
そして実際、東隆輝は気の触れたような笑みを浮かべて
「私はねェ……神様を作りたいんですよぉぉぉぉ……」
俗人からかけ離れた自らの願いを告げた。
腕の中の〈みくら様〉に向かって――。
この髑髏は……?




