王子と伯爵令嬢の仁義なき攻防(2)
……どどど、どうしよう。
貴賓席へと通され、王子の隣に腰を落ち着けながら、リネットは内心がくがくと震えっぱなしだった。
飼い猫の誕生会に出席したいというメリアローズの熱い想いにほだされ、リネットはメリアローズの代わりに王子のお供をすることになったのである。
……冷静に考えると、どう考えてもおかしい。
無理だ。無理がありすぎる……!
王子はいつも通りのロイヤルスマイルを浮かべているが、どう考えてもリネットのことを歓迎はしていないだろう。
ここで何か粗相をすれば、リネットだけでなく、ヴィシャス家にまで咎が行く可能性さえあるのだ。
メリアローズの代わりにやって来た、という意味不明な状況で、既に王子はリネットに対して不信感を抱いているに違いない。
これ以上悪印象を与えるわけにはいかない。なんとか乗り切らねば。
そう決意しても、リネットはどうしても身が竦んでしまうのだった。
なにしろ、隣にいるのは年頃の少女なら一度は憧れる、才色兼備のユリシーズ王子なのである。
そんな王子が数十センチも離れていない距離にいる。
こんな状況でなければ、まるで夢のような体験だろう。
だが、リネットはそう手放しで喜べなかったのである。
メリアローズのように、家柄、美貌を兼ね備えた令嬢なら。
ジュリアのように、まだ見ぬ輝きを秘めた少女なら。
……リネットも、こんなに卑屈な気分を味わることはなかったのかもしれない。
それでも、リネットは二人とは違う。
平凡な自分には、二人のように王子の隣に立てるだけの器量も技量も何もないのだ。
そう思うと、場違いにも王子の隣に座っているのが、とても恐ろしく思えてくるのだ。
できることなら、今すぐ逃げ出したい。
ちょこんと膝に置かれた手は、かすかに震えていた。
いけない、王子に悟られたら不審に思われ――
「リネット」
その時、不意に横から声を掛けられて、リネットは思わず肩を跳ねさせてしまった。
なんとか笑顔を取り繕って振り向くと、王子がじっとこちらを見ていたのだ。
まさか、もう何か粗相をしてしまった――!?
「リネットはこの演目、見たことはあるかい?」
思わず身構えてしまったが、王子の口から出てきたのはそんな世間話のような言葉だった。
……ま、まだ大丈夫ですよね!?
その場に崩れ落ちそうになりながら、リネットは平静を装って返事を返す。
「は、はい。幼い頃、王都にやって来た時に同じ演目を」
「そうだったんだね。僕も、何度か見たことがあるよ。でも、何度見ても芸術というものは色あせないから不思議だね」
緊張しすぎて王子の言葉の内容はほとんど頭に入ってこなかったが、どうやら王子はこの舞台を気に入ってるということだけは理解できた。
ちなみに今日の演目は、身分違いの恋に悩む若い男女の恋物語である。
この国の有名な古典で、昔から今に受け継がれている物語だ。
身分の高い男と、農村の娘が、道ならぬ恋に落ちた所から物語は始まる。
二人の間には数多の苦難が立ちはだかり、幾度もくじけそうになるが……やがて二人は結ばれ、周囲も暖かく二人を祝福しハッピーエンド、というお決まりの展開なのである。
……いったい、何故メリアローズは王子を誘うのに、この演目を選んだのだろうか。
王子にジュリアのことを意識させるためだろうか。
それとも、今の王子が劇の主役と同じ状況であるということを、メリアローズは既に知っていると暗に匂わせたかった?
王子の背中を押そうとした? それとも、牽制しようとしたのだろうか。
リネットは必死にメリアローズの心中を察しようとしたが、確定的な答えは出てこなかった。
しかし、あのメリアローズだ。
令嬢の中の令嬢。誰もが憧れる才女。
必ず、この演目を選んだ理由があるはずだ……!
「あ、始まるみたいだ」
王子の声に、リネットは慌てて意識を舞台の方へと戻す。
幕が上がり、最初のシーンが始まるところである。
少なくとも劇が終わるまでは、おとなしく座っていれば大丈夫だろう。
リネットは少しほっとしながらも、必死にどう動くか頭を巡らせた。
メリアローズはリネットに、自身の代役という責任ある役目を任せてくれたのだ。
――メリアローズ様を、失望はさせられない……!
考えろ。
メリアローズがこの演目を選んだ意味。
王子に何を伝えたかったのか。
そして、リネットはどう動くべきかを……!
舞台の上では見目麗しい男女が、運命の出会いを果たすシーンが始まる所である。
だが、その光景を目に移しながらも、リネットは中々劇の内容に集中できなかったのである。
『――それでも、僕は君を愛してるんだ!』
『いけません、私は――』
『君が誰であろうと関係ない。もう、この思いは止められない……!』
身分の差を理由に身を引こうとする女を男が引き留め、強く抱きしめている。
いまいち集中はできなかったが、以前見たことがあったこともあって、なんとかリネットは話を追うことができていた。
……王子は、いったいどんな思いでこの舞台を見ているのだろうか。
主役の二人に、自分自身とジュリアを重ねているのだろうか。
ちらりと王子の方に視線をやり、リネットは凍り付いた。
何故か、王子は舞台ではなくリネットの方を見ていたのだ、
……何故!?
まさか、気づかないうちにとんでもないことをしてしまったのでは……!
悲鳴をあげそうになるのをなんとかこらえて、リネットは優雅に王子に会釈して見せた。
……が、膝に置かれた手は自分でもはっきりわかるほどにがくがくと震えている。
「……クライマックスだね」
「えぇ」
王子が舞台の方に視線を戻したので、リネットも同じように抱き合う役者を見つめた。
クライマックスというのは劇のことなのか、それともリネットの人生のことなのか……。
気がつけば嫌な方へと流れていく思考を抱えながら、リネットはそっと目の淵に溜まった涙を拭うのだった。
……申し訳ございません、メリアローズ様。
やはり私などでは、王子の同伴を務めることなど無謀だったようです。
なんとか生きて帰りたい……と念じながら、リネットはただひたすら王子が機嫌を損ねないことだけを祈っていた。
「やはり、名作は何度見てもいいものだね」
「えぇ、主役二人の演技が素晴らしくて……」
演目が終わり、王子にエスコートされながらリネットは劇場の出口へと向かっていた。
今のところ、王子は普段と変わらないロイヤルスマイルを浮かべている。
劇の内容がお気に召したのだろうか。
……自分は、うまく王子の逆鱗に触れずに済んだのだろうか。
これ以上ぼろが出る前に帰りたい……。
何とか王子と先ほどの舞台の感想を言い合いながら、リネットはぐったりと疲れていた。
だが、彼女の不幸は終わらなかったのだ。
「そうだ、せっかくの機会だし……一緒に食事でもどうだい?」
驚いて顔を上げると、王子は相変わらずのロイヤルスマイルを浮かべている。
――だって、あの笑顔。何考えてるかわからなくて少し恐ろしいのよ
リネットはその時初めて、以前そう言ったメリアローズの言葉の意味を身を持って理解したのだ。
何故、王子がリネットを食事に誘う必要がある!?
その笑顔の意味は何なのか!!?
わからない。わからないが……断ることなど、できるはずがない。
笑顔の奥で恐怖の涙を流しながら、承諾するしかリネットに道はなかったのだ。




