106 まずカーテシーより始めよ
メリアローズの目の前には、少し疲れた様子のリネットとわくわくした様子のジュリアがいる。
王宮の一室にて、メリアローズのマナー講座の始まりである。
「さあ、今日はカーテシーの練習よ!」
カーテシーとは淑女の挨拶であり、必須スキルの一つだ。
このカーテシーをマスターしてこそ、一人前の淑女といえるだろう。
メリアローズが勇ましくそう宣言すると、ジュリアがぶーぶーと文句を言い始めた。
「えー、一昨日もやったじゃないですかー。まだ足痛いんですよぉ」
「その痛みに耐えてこそ一人前の淑女なのよ」
淑女らしい優雅な振舞いの裏側には、血のにじむような努力が隠れているものなのだ。
そう力説すると、ジュリアは諦めたように頷いた。
メリアローズに抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。
随分と賢くなったわね……と、メリアローズは上機嫌に頷く。
「いい? たかが挨拶と侮ってはいけないわ。初対面の相手に会う時の第一印象ってとっても大事なの。最初に完璧なカーテシーを披露して、ガツンと一発好印象をぶち込むのよ!!」
第一印象というのは、その後に良好な関係を築くために非常に大切なものだ。
貴族の、特に女性であればなおのこと。容姿や身だしなみだけでなく、細かい所作も重要になってくるのである。
「逆に、最初にいい印象を与えてしまえば後はこっちのものなの。にっこり笑って優しく頼めば、大抵の相手は言うことを聞いてくれるようになるわ」
「そ、そうですね。わかります……」
リネットは身に覚えがある様子で深く頷いた。
メリアローズの大ファンでもあるリネットは、在学中何度もメリアローズからの無茶ぶりを引き受けていた。
だからこそ、つい彼女の言うことを聞いてしまう者たちの気持ちが痛いほどわかったのだ。
「歴史の中には、荒ぶる民衆をカーテシー一つで鎮めてみせた王妃もいるそうよ。『先ずカーテシーより始めよ』という格言も残されているくらいなの」
最近書物を読んで知った知識を得意げに披露すると、リネットとジュリアは感心したようにぱちぱちと手を叩いた。
鼻高々のメリアローズは、上機嫌で胸を張る。
「さぁ、じゃあ早速やってみましょうか!」
「はいはーい、またメリアローズ様のお手本が見たいでーす」
単に苦行を先延ばしにしたかったジュリアなりの抵抗だったかもしれないが、機嫌のよいメリアローズは笑顔で応じることにした。
「いいわ。よく見ておきなさい。私の汗と涙と努力の結晶のカーテシーをね!」
メリアローズは、自分自身のカーテシーに自信を持っていた。
伊達に妃候補として、幼い頃からビシバシしごかれたわけではないのだ。
はらりと髪を払い顔を上げると、見守っていた二人がごくりと唾を飲む。
さりげなく室内の光源を確認し、自分が一番美しく見えるであろう角度を計算する。
既にその時点から、勝負は始まっているのだ。
足を引く時は爪先まで、スカートを摘まむ時は指先……いや、ドレスの裾まで。
誇りをもって、美しい動きを心がけて、決して気を抜いてはいけない。
絶対に慌てずに、優雅に、華麗に、ゆっくりと膝を曲げ腰を落とす。
そして深々と頭を下げ、相手への敬意を示すのだ。
「さぁ、こんな感じで……えっ」
頭を上げたメリアローズは驚いた。
リネットとジュリアはメリアローズを見つめたまま、手を取り合うようにして、瞳を潤ませ頬を赤く染めているではないか。
ユリシーズ王子が見れば大喜びしそうな光景である。
「美しい……」
「尊い……」
恍惚とした表情でそう呟く二人に、メリアローズは苦笑した。
「まったく、そんな調子でどうするのよ。今後は、あなたたちが周りにそう思われるようにならないといけないのよ」
大事なのは、淑女としての誇りと自覚だ。
まぁ、それはおいおい身に着けてもらうとして、今はカーテシーの動きをマスターしてもらわねば。
「よし、じゃあこれだけやってみなさい」
びしっと人差し指を立てて、メリアローズは二人にそう指示した。
「1回ですか?」
「甘いわね、ジュリア。砂糖と蜂蜜をたっぷり入れたミルクティーより甘いわ」
「じ、じゃあ……10回?」
「ふふ、もう一息よ、リネット」
メリアローズがにやりと笑うと、二人は恐れおののくようにひっと息を飲んだ。
「まさか……」
「100回……!?」
「えぇ、そうよ。カーテシー100回。さぁやってみなさい!!」
膝が死んじゃうぅぅぅ!……というジュリアの叫びを聞きながら、メリアローズは扇で口元を隠しながら、優雅に笑った。
◇◇◇
「……ふぅ」
今日の出来事を日記に記し、メリアローズは一息ついた。
リネットとジュリアへの教育。それに加えて、メリアローズはさりげなく諸侯の動向にも気を配っている。
華やかな宮廷の裏には、常にどす黒い陰謀が渦巻いているものだ。
いつ足元を掬われるかわからないので、注意しておくに越したことはない。
今のところ表立ってリネットやメリアローズに喧嘩を売ってくるような輩はいないが、そう楽観視はできないだろう。
うーんと背を伸ばし、メリアローズはごろりとベッドに横になった。
「まぁ、こんなところよね……」
自分が書いた日記の内容を読み返し……更に前へとページをめくる。
そこには、メリアローズの物ではない字が書かれていた。
これは、ウィレムの字だ。
何を隠そう、この日記帳は、ウィレムとメリアローズの交換日記なのである。
兄のアーネストに「まずは交換日記からお互いの人と成りを知りなさい」と半ば強引に押し付けられたものではあるが……今は兄のおせっかいに感謝している。
メリアローズとウィレムは互いに王宮勤めではあるが、いつでも自由に会えるわけではない。
特にウィレムは忙しい身だ。今日は偶然会うことができたが、それは単に運が良かっただけだろう。
だが会えない間に何をしていたかということを、日記を通して知ることができる。
だから、寂しくなんてない。
「騎士の訓練って、結構大変なのね……」
既に20回は読み返しているが、メリアローズはあらためてそのページに記された内容を目で追った。
ウィレムの綺麗な字で、日々の訓練の様子などが記されている。
彼の所属する近衛隊は王立騎士団の花形だ。
王族の警護を主な任務とし、その構成員も有力貴族の子息が大半を占めている。
更に言えば、式典などに出席する機会も多いことから、容姿も重視されているのだ。
容姿、家柄、実力を兼ね備えた選りすぐりのエリート集団なのである。
白い礼装を纏う近衛騎士は、王都の乙女たちの憧れの的だ。
毎年、結婚したい職業ランキングの堂々一位を掻っ攫い続けているのである。
「あの純白の礼装を纏った騎士様の隣で、私がウェディングドレスを着るの……!」というのは、年頃の乙女なら一度は夢見る光景である。
純白の騎士服を着こなした凛々しい彼の隣に、自分が立っている光景を想像してしまい……メリアローズは手で顔を覆い、足をばたつかせて悶絶した。
ウィレムは自らの力で未来を切り開いている。
彼の活躍を、まるで自分のことのように誇らしく思う。
――まぁ、あれだけ苦労したんだから当然よね……。
中にはやっかみから、ウィレムに対し陰口を叩く者もいる。
彼がユリシーズやメリアローズに媚びを売り、不当に近衛騎士団に潜り込んだ……などと、密かにうそぶく者も少なくはない。
メリアローズからすれば、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
昨年の剣術大会の快進撃を見なかったのか! ……と、は怒鳴ってやりたい気分だった。
もちろん、メリアローズの前で堂々とウィレムの悪口を言うような愚か者は、未だ現れていないのでその機会は訪れないのだが。
「大丈夫なのかしら……」
日記を読む限り、ウィレムはメリアローズの想像よりもずっとハードな訓練を課されているようだ。
ウィレムが強いことはメリアローズもよく知っているが、それでも心配になってしまう。
怪我などはしていないか、無理をしすぎていないか、など……考え出すときりがない。
そこで、メリアローズは決意した。
「……よし!」
いつもは、使いを送り日記をウィレムに渡すことが多かった。
だが明日は……直接ウィレムに会いに行こう。
ちょうど空いた時間もあったはずだ。頭の中で段取りを立てて、メリアローズはにやにやと緩む頬を抑える。
――急に会いに行ったら、どんな顔するかしら……! 喜んでくれるかな……。
驚いたウィレムの表情を想像し、メリアローズはぎゅっと枕を抱きしめた。