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ep039.『月夜』

 「――あなたの命で」


 ぐしゃりと生々しい音が聞こえる。


 「先客はお還えりになったみたいだし、これでお話の続きができそうかしら?」


 黒狐(コン)と初めて出遭った日の夜、初めてそれを目にして、そして耳にして絶望したのを覚えている。無敵と呼ばれた憑神が最凶の憑神を前に捻り潰された時の音。

 自分より強いであろう相手が呆気なくその命を散らす様は、何度見ても慣れるものじゃない。


 美雪が二度目の隔絶した力を味わうのと同時に"勘"が囁く。


 ――"来る"


 最近無視してばかりの相棒に謝罪と感謝の念を同時に送りながら、兎脚で以て宙へと跳ぶ。


 「あら? まだそんなに動けたのね」


 直後、美雪がいた場所には巨神の手があった。


 (――!?)


 速い――そんな言葉では言い表せないほど、眼下に現れた拳は突然だった。

 恩恵で強化された美雪の動体視力は普段の高速移動に際して支障が出ない程度には高い。だというのに、巨神の動きは一切見えなかった。

 不可解なのは兎脚を遥かに超える速度がありながら衝撃波の一つも発生していないということ。地面が抉れているのを見るに、非実体だから空気抵抗を受けなかったということでもなさそうだ。


 (どういうこと?)

 

 速すぎて見えないというよりは、見ることができない類の速度。例えるなら振り向いたら幽霊がいた、そんな感じだ。


 「暗天に舞う玉兎だなんて、素敵な月夜をありがとう」


 空に舞う美雪を前にしても彼の憑神の余裕が崩れることはない。

 一見、宙に逃げた美雪に対して出来ることは何もなさそうに思える。警戒するとしたら巨神の長大な腕と投げものくらい。


 前者は範囲外。

 後者は見てから反応できる。

 そう考え、次は見逃すまいと巨神の動きに集中する。


 

 (――嘘!?)


 

 眼下の巨神が、風に流される砂のように消えていく。 

 

 それは信じられない光景――というよりは信じたくない光景だった。何せ、もしそれが可能ならば美雪は数少ない速度というアドバンテージを失うことになるからだ。


 「――!!」


 驚いて間もなく、空気を蹴って宙を跳ぶ。

 またしても”勘”に命を救われた。


 「不意を付けたと思ったんだけれど……これが野生の勘というものなのかしらね」


 音もなく空に現れた流れる雲のような黒い靄。そこから半身を覗かせた巨神が腕を伸ばし、先ほど美雪がいた場所を握っている。


 最悪な予想の通り、この巨神は霊的な瞬間移動ができるらしい。

 

 消えるまでのスピードは速くない。ただ、消えた端から移動できるならその限りじゃない。

 距離の制限も緩そうだ。憑姫からどの程度離れられるのか、それとも憑代が基準なのか、あるいは憑姫の視認できる範囲かもしれない。ただそれならば死角に回り込めば分かる話だ。どちらにしても、


 (後手に回っちゃダメ……!)


 今のやり取りで不利を悟った美雪は、今度は自分から仕掛ける。


 「あら」


 地上に着地――四方八方、空と地上を不規則に飛び回る。

 的を絞らせず、距離を縮め、同時に幾度となく死角に潜り込み攻撃のタイミングを掴ませないようにする。

 常人の反応速度を遥かに超える高速移動を前に、あろうことか憑姫はその目を閉じた。


 「これなら!」


 気合を声に乗せ渾身の蹴りを叩きこむ。

 大地を割り空を裂く、そんな一撃だ。


 「っく……!」


 結果は解魂衆や狂信者と同じだった。美雪は見えない何かに阻まれ、その蹴りが憑姫に届くことはなかった。


 「噂通りの蹴りね。速く、そして鋭い」


 見ていただけに予想はしていたが、まさか何の手ごたえ、もとい脚ごたえもないとは思わなかった。

 

 自慢の蹴りが通用しないことが分かったことは残念極まりない。とはいえ、ただ棒立ちしているわけにもいかない。

 握りつぶされた彼らと同じ末路を辿る前に、見えない壁のような巨神を蹴り距離をとる。


 「でも、それじゃ骸の巨神(アトラス)は超えられない」


 霧が晴れるとでも言えばいいのか、見えなかったアトラスが景色の中に滲むようにして浮かび上がる。


 今の蹴りは美雪がこれまで放ってきた中でも最高レベルの蹴りだった。ただでさえ危うい呪いがグッと強まるくらいには力を込めた。にも関わらず姿を現わしたアトラスの手には傷一つないのは何の冗談だと問いただしたいほどだ。

 だが、自分の主力武器が通用しなかったからといって打つ手がなくなるほど温い生き方はしていない。力押しが無理なら通用する方法を見つけ出すまでだ。それに、少しだがわかったこともある。


 「ここまで速いだなんて、驚いたわ」


 美雪は憑姫に見えない速度で移動し連続で蹴りを叩きこむ。それもすべて憑姫本人を狙ってだ。


 もちろんこれも呪いを強めるやり方で、平時なら選択するべきではない戦い方の一つではある。

 しかし、度重なる恩恵の酷使で理性の働きが鈍くなってしまっている以上、冷静な分析や恩恵の配分を気にするより、オーバーパワーで相手の隙を探る方が生存の可能性は高い。


 (本当にこの呪いは! 女の人相手でも関係ないんだから!)


 節操のない呪いに心の中で愚痴を飛ばす。それは自分への罵声でもあり、変なことをしでかさないための気付けでもあった。そうでもしないと思考が衝動に持っていかれるのだ。


 「はぁ……これじゃあ本当にお姫様ね」


 高速移動による土煙も合わさり、最早憑姫では美雪を捉えられない。

 しかし、美雪もまたアトラスの胴体に隠れた憑姫に手を出せない。

 例え肋骨の間を狙っても、本体の透明化と同じように、見えないだけで幾重もの骸が隙間を埋めつくしている。

 ただ、美雪の予想通りアトラスは憑姫を優先して守るということと、搦手などの複雑な動きは出来ないという事が分かった。おそらく、本来は憑姫が命令するなどしてその辺りをカバーしていると思われる。だからこそ彼女の目に捉えられない今のような状況は、防戦に徹するしかないのだろう。


 兎脚の憑神(ラビットフット)骸の巨神(アトラス)の超常が織りなす攻防がしばしの間続いた。


 (はぁ、はぁ、あと試して――『"来る"』――ない? の、は!?)


 ――ダンッ!


 呪いの限界が近いことを察した美雪は、思考に割り込んできた"勘"に驚きながらも反応を間に合わせ、警告に従いアトラスを蹴りつけて光源のない倉庫の中へと飛びのく。


 「そんなに無理しなくても時間稼ぎには付き合ってあげるわよ?」


 こちらの狙いはお見通しらしい。分かった上で敢えて付き合うのには何か理由があるはずだ。だが、今の美雪にそれを考えるだけの理性は残っていない。なにせ油断すれば何も考えずに憑姫に飛びついてしまいそうなのだから。


 その不快な本能に抗いながらただじっとその時を待つ。


 数秒。

 あるいは数分。


 気が狂いそうなほどの衝動を抑え、"勘"を信じてチャンスを伺う。



 ――"後ろ"

 


 "勘"が囁く。

 腰溜めに構え、脚に最後の力を込める。


 ――ッッッッッッ!!!!


 アトラスが現れた瞬間、バク宙の要領で渾身の蹴り落としを叩き込む。

 蹴りが効かないのは分かっている。ならば、離れた所にいる憑姫とアトラス、その両方に同時に攻撃を仕掛けた場合どうなるのか。これが美雪がまだ試していなかったことであり、最後の攻防でもあった。


 倉庫区全域――それ以上の超広範囲に爆音にも等しい空裂が轟く。


 限界で放たれた蹴りの衝撃波は凄まじく、周囲を吹き飛ばすのはもちろん、ある程度離れている者も余波だけで無力化できるほどの威力があった。

  

 瓦礫の散弾。

 音による三半規管へのダメージ。

 衝撃波による体内への影響。


 どれをとってもタダでは済まない。

 不意打ち、さらにはその同時攻撃ならば或いは、




 「ありがとう。アトラス」



 なんて思ってみたが現実とは無情なもので、美雪の蹴りは空を切り、無傷のままの憑姫が相も変わらず悠然とこちらを見つめていた。

 

 蹴りが止められなかった時点で勝敗は喫していた。

 恐らく自動防衛機能のようなものでも備わっているのだろう。こと主を守るという事に関してアトラスは無類の性能を誇っている。それは最早、憑姫の傍を離れているように見えて、その実、片時も離れずに主を守護しているのではないかと思えるほどだった。


 精魂使い果たした美雪には見ることも叶わないが、声の調子からして一切の痛痒も感じていない様子だった。まったく、最も願いに近い憑神と言われるだけあって美雪ではその力に遠く及ばないらしい。


 「あら?」


 倉庫があった場所――爆心地のようになった中心で横たわる美雪の目を見れば、誰だって今の彼女が正気でないと分かっただろう。


 「呪い……かしら。何にせよ、これでお終いみたいね――アトラス」


 憑姫の言を聞き、巨神が沙汰を下す。 

 あの老人と同じく、トマトのように握りつぶされる。



 「どうしたの?」

 

 しかし、アトラスは動かない。

 消えることも瓦礫を飛ばすこともせず、憑姫を守るようにその場に(そび)えている。

 それは、いつの間にか現れた一匹の黒い狐が、美雪と憑姫の間に割り入っていたからだった。


 「やっと来たぁ~。もぅ、遅いよぉ~」


 少女は、衝動に溺れた思考で黒い陰陽装束の男を見る。


 首元から覗くお茶目な白いパーカー。

 ゆらゆらと揺らめく可愛らしい黄金の狐尾。

 不愛想ながら、頼もしい後ろ姿。

 

 この背に守られていると思うと、初めて出会った夜のことを思い出してたまらなくなる。


 「最善は尽くした。責められる筋合いはない」


 ――この男はいつもそうだ。

 

 冷たく素っ気ない態度。こっちがどれだけ苦労して戦って、どんなに(コン)を求めていたか知ってもらう必要がある――でも、この声を聞いていると不思議と心が落ち着いてくる。


 「呪いが強いな……ここまで良く持ち堪えてくれた。後は任せろ」


 (コン)のひんやりとした手が額に触れる。その冷たさが熱に侵された体に気持ちいい。

 

 まったく、急に優しくするなんて本当にずるい男だ。日頃の行いというやつをその身とこの身を持って、今すぐにでも分からせてやれねばなるまい。


 ――あれ……?


 体に力が入らない。

 思考がぼやける。

 景色が霞む。


 身を焦がすような愛がほしいのに、すぐ傍にそれがあるのに、なのに、すごく、すごく眠たい。 


 「うん、」


 元気なったら愛を奪ってでも貰って、施してでも押しつけて、満たして、満たされなくては。だけど今は、今だけは――、


 「――任せた」


 冷たい手から淡い光が溢れ、熱が引くように衝動が霧散していく。同時に、衝動によって無理やりに突き動かされていた体は糸が切れたように深い眠気に襲われ、美雪はその誘惑に逆らわずそっと眠りに落ちた。

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