第三話
「ねぇ、明夫くん。あの光景をどう見る?」
京はキッチンのシンクに寄りかかり、リビングのソファーでいちゃつくたかしとマリ子を見ていた。
「人間をやめようとしてる」
「私は人間を作ろうとしてるように思えるけど」
「それってどういう意味さ」
「ちょうどよかったわ。オランダ語とポルトガル語の医学書があるけど、どっちで人間の子供の作り方を教えましょうか?」
「待った。僕だって美少女ゲームで何度も体験してる――何度もね。でも、彼らの行為で子供が出来ることはない。オタクの様々な欲望を叶えてきた――あの伝説の00年代の美少女ゲームにも存在しないシーンだ」
「……前から思っていたんだけど」
「なに? 言っておくけど美少女ゲームはバイブルだ。本当はエロゲって呼びたいのを我慢して美少女ゲームって言ってるんだ。たかしが外でエロゲって単語を出すなってさ」
明夫はこんな酷い話があるかと怒っていたが、京が言おうとしたこととはまったく関係がなかった。
「違うわ。美少女ゲーム……郷に従うならエロゲね。ベッドに誘うまでのシーンが短すぎると思わない?」
京が言っているのはベッドに誘うまでの駆け引きを含めたイチャイチャのことだ。
「いい? 無知な君に教えてあげるけど。オタクは敏感なんだ。エッチな雰囲気になったらシーンが変わるからわかるの。あの一瞬のブラックアウトに僕らの期待は最高に膨らむんだ。……って――待った。なんで君がエロゲに詳しいのさ」
「なぜかしら。例えば誰かがリビングに置き忘れていったノートパソコン。それが私の部屋にあるとしたら?」
「僕の子供を人質に取ったのか!?」
「放置子の面倒を見てあげたって言ったほうが聞こえは良いと思うわ」
「なんて女だ……。今エロゲ業界は風前の灯火なんだぞ! それをただでプレイするだなんて……二度とオタク名乗るなよ」
明夫にとって過去にプレイしたエロゲのタイトルが女性に知られるよりも、業界に貢献せずに楽しんだことを怒っていた。
そのあまりの形相に、京は「悪かったわ」と素直に謝った。「そうね……いくつか興味深いゲームがあったから、サイトを教えてくれれば買うわ」
「もう廃盤だよ……。メーカーも消滅だ……。僕達オタクには過ぎたるアイテムだったのかもしれない。だってそうだろう? 何度も童貞を捨てられるんだ。時には六畳一間のアパート。時にはエルフの森の湖で、他にも学校の保健室や、深夜の公園ってのもある」
「深夜の公園は経験ある」
マリ子はたかしに抱きついたまま、手を上げて言った。
「うそ……そんなの知らないよ」
たかしは驚いてマリ子の肩を掴んだが、逆に睨まれてしまった。
「忘れたわけ? あなたが――」
「思い出した……。でも、あの時は最後まではしてない」
「知ってるわ。私は満足してなかったもの」
「なんて会話だ。品性を疑うよ」明夫は二人は無視だと唇をとがらせると、その不機嫌な顔を再び京に向けた。「君もだ。少しはエロゲで品性を学ぶと良い。この【SCHOOLツクール】に出てくる【ミケ】みたいにだ」
明夫はノートパソコンに出ているゲームのアイコンを指差すと、怒って部屋へと戻っていった。
「怒らせたみたいね」
マリ子が顔だけ京に向けて言うと、同じくたかしも顔を向けた。
「大丈夫。ゲームのキャラを引用したのは認められてる証拠。……残念ながらね。気になるなら間に入るよ。過去に何度も機嫌を取ってきたから任せて」
「こっちはこっちで解決するから大丈夫よ。そっちは? 大丈夫なの?」
「こっち? それは彼次第じゃないかしら。私を満足させられる?」
マリ子はたかしの首筋に指を当てると、犬でも可愛がるようにこちょこちょとくすぐった。
「二度目のチャンスだ。明夫の読んでる小説でも、二度目のチャンス。すなわち転生者はうまいことやってる」
「ラノベって言うのよ。怒られるわよ、大きな子供に」
「ちょっと……恋するお二人さん……」京がため息をつくと、二人は同じような笑みで見てきた。「私が言ってるのは明夫くんのことじゃないわ。ユリのことよ」
現在たかしとユリは別れている。だがマリ子とユリは親友になったのだ。
それもたかしとマリ子は元恋人。ユリと別れた瞬間によりを戻したとなると、微妙な空気になるのはわかっていた。
「今ならあなたの気持ちがわかるわ……どうしましょう……」
親友に嘘はつきたくないが、黙っているわけにもいかない。
奇しくも少し前のたかしと似たような状況に陥っていた。
「オレに聞かれても……。オレがどうこう言える立場にいると思う?」
「そうね……」とマリ子は京を見た。
「私? 私が言うの?」
「だって京が気付かなければ、私は気付かなかったもん。罪悪感を分け合ってくれてもいいじゃない?」
「マリ子らしい考えね。……わかった。伝えるわ。一番気になってるのは私だし」
京はこういった報告は早いほうがいいと、早速ユリに会おうとメッセージを送った。
すぐに返ってきたメッセージに待ち合わせ場所を返すと、玄関に向かう前に一度二人に振り返った。
「それで……完全によりを戻したってことでいいの?」
マリ子は京に言葉で答えることはなく、たかしのシャツの胸元を引っ張り近づいた唇にキスすることで答えた。
「それ本当なの!?」
喫茶店で声を荒らげたのはユリだ。
今しがた京に詳しい事情を聞かされたばかりで、信じられないと目を見開いていた。
「本当よ。でも、怒るのは少し待ってあげて。その間の愚痴は聞いてあげるから」
京はどっちとも仲良くしてほしいので、少しだけ時間が気持ちを穏やかにしてくれるまで待ってくれっと言った。
だが、ユリは怒りに立ち上がると電子決済で京の分の会計も済ませた。
そして、店の入口で仁王立ちで腰に手を当てると「さあ……行くわよ」と京を先に歩かせた。
「ちょっと待って。どこへ行くつもり」
「愛の巣に乗り込むの。後日に改めてもいいけど、その期間は武装する期間でもあることを忘れないでね」
怒りを通り越し穏やかな笑みを浮かべるユリを見て、京はこれはダメだと観念した。
がっちり腕を掴まれてしまい、マリ子に連絡することも出来なかった。
そのため「たのもう!」とユリが家に入ってくると、マリ子とたかしは驚いてソファーから転げ落ちた。
「ユリ!! 違うの。ああ違わないけど……。まだ観念するほど考えがまとまってないの」
マリ子が言い訳を並べ立てると、ユリは信じられないという顔で二人の前まで歩いていった。
「本当によりを戻したわけ?」
「はい……」
たかしは正座をすると、精一杯誠意を見せようと姿勢を正して頷いた。
ユリとは別れたばかり、嫉妬に近い感情で逆上してると思ったからだ。
「もしかして昨日の約束ってデートで流れたってわけ?」
ユリに睨まれると、マリ子は視線を逸らしながら「そうかも……」とつぶやいた。
「なら――今日は私の番よね。行きましょう」
ユリはマリ子の手をつかんで立ち上がらせると、腕を組んでたかしを睨んだ。
「ちょっと待って。ヤキモチってオレじゃなくて、マリ子さんに焼いてたってこと?」
「なんで別れた恋人に嫉妬しないといけないのよ。どんだけうぬぼれてるわけ?」
ユリはバカなこと言わないでとたかしを睨みつけると、マリ子の腕を組んだまま家を出ようとした。
「待った。今日はこのあと出かけようと誘うつもりだったんだ」
たかしも立ち上がると、マリ子の逆の腕を掴んだ。
「つもりでしょう。私はもう誘った」
ユリがマリ子から手を離して、たかしに一歩にじり寄ると、たかしも同じようににじり寄った。
「オレは小洒落たディナーに誘うつもりだ」
「私はアイスバイキングよ」
「ユリの勝ち!」
マリ子はボクシングの審判のように、ユリの手をつかんで上げさせた。
「本気?」
たかしは信じられないという顔した。
それもしょうがない。今日改めて再び付き合うと決めたばかりだ。まさかマリ子に限って恋愛より友情を取るとは思ってなかった。
「夜会えるでしょう。ディナーなんだから」
ユリはべーっと舌を出してマリ子を連れて行こうとするが、たかしは再びマリ子の手をつかんだ。
「マリ子さんがどれだけアイス食べるかわかってる? 絶対にディナーに来ない、日を改めて」
「たかしは非を改めて」
ユリがニッコリ微笑んで言うと、たかしはこれはもう言い返せないと肩を落として二人を見送った。
一応ディナーの時間に戻ってくると約束はしたが、アイスでカロリーを接種するマリ子がディナーに付き合うとは思えなかった。
「こんなのあり?」
たかしは力なくソファーに座り込んだ。
「なしだと思うわ」
そう言って京はため息をついた。
間違いなく三人に一番振り回されているのは自分だからだ。
「なんで恋人のディナーより。アイスバイキングを取るわけ?」
「ヴァンベルベンのアイスも楽しめるからよ」
京はSNSに入っていた宣伝クーポンを見せた。
「こんなのってないよ。ヴァンベルベンのアイスバイキングがあるのを知ってたら、オレだってそこへ誘ったよ」
「本当に? ランジェリーショップに囲まれてる場所にあるのよ」
「マリ子さんはアイスに目移り、オレは下着に目移り。ほら、オレ達って相性バッチリ。でも、女友達をとった」
「なら、男友達と出掛けたら?」
「いいや、オレは彼女を信じる」
「それを私に言ってどうするの?」
「証人が必要だから」
その夜。
「ここって最高だよ。なにが最高ってわかる? 【春花恋歌】の背景トレース問題で話題になったから。つまりここは今一番美少女ゲームに近い場所。僕幸せだよ……ありがとう、たかし」
「あっそう」とたかしは冷たくあしらった。
本来マリ子と来てるはずのディナーは、今日で上映が最後の映画があるから見てくるという簡単な一言でなくなってしまったのだ。
「僕に当たるなよ。言えば良かっただろう。予約を取ったって」
「言えるか。先にマリ子さんからメッセージが届いたんだ。後から予約を取ったって言ったら、見栄を張ってるみたいだろう?」
「張ってないの?」
「張ってるに決まってるだろう!」
「敵は手強いぞ。なんせ君を骨抜きにした女だ。弱点を知りすぎてる」
明夫は愛のメッセージカードがついたケーキを、何のためらいもなく食べた。
「ケーキを食ったな」
「食べていいって言っただろう」
「言った。でも、食べたからにはオレの言うことを聞いてもらう」
「勘弁してよ。君はマリ子とディナーをして、ケーキで機嫌を取り、ホテルにでもしけ込もうと思ったんだろう? 僕が付き合うのはケーキまで。悪いけど今は親友が突然の性転換ものにはハマってないの」
「オレの味方をしろってことだよ。このままじゃ彼女を元恋人に奪われる……。絶対に阻止しないと」
「なるほどね。だからは二次元を勧めたんだ。アニメ、漫画、ゲーム。ごまんとあるのに、なぜ君は二次元に恋をしない」
「現実世界に日本、アメリカ、ドイツとあるのに、本物人間に恋をしない明夫に言われたくない」
「たかし……日本人もアメリカ人もドイツ人もこいつも、全部二次元のキャラのプロフィールだ。でも、僕らは外国人とは呼ばない。名前で呼ぶんだ。これってどういうことかわかる? 差別がないってこと。今世界で必死になって探してる理想郷。それはディスプレイの中にある。その証拠にみんな一日に何度もスマホを見るだろう。正しい世界へ行こうとしているんだ」
「詭弁だ。そもそも答えになってない」
「思いやりを持てって意味」
たかしは明夫に言われてハッとした。今の状況は以前と何も変わっていない。
自分の保身に走り、相手のことをなにも考えていないかったのだ。
「まさか明夫に正されるとは……」
「思いやりは持てそう?」
「今ならね」
「じゃあ良かった」
明夫は笑顔で手を差し出した。それをただの握手だと思ったたかしはしっかり握ったのだ。
「これで交渉成立だね。……魔女二号をどうにかしないと」
明夫が真剣な顔で言ったので、たかしは「はあ?」と声が裏返った。
「だから魔女だよ。魔女二号。つまり京だ。あいつは僕の美少女ゲームをどんどん汚していくんだ」
「思いやりを持つんじゃなかったのか?」
「それは二次元の話。これは現実の話だぞ」
「あーもう……頭痛い……」
たかしは帰ってからも頭押さえていた。
するとご機嫌でマリ子が返ってきた。
「ただいまー」
「……おかえり」
「あら、ご機嫌斜め」
「まあ色々あってね……」
「ディナーは悪かったわよ。でも、内緒で付き合わないためにも、ユリとの関係は大事にしたいの。気の合う女友達って本当に出来ないのよ。服の貸し借りが出来る友達っている?」
「……水着も含む?」
「もちろん」
「いない……。でも、どの水着が良いかと深く話し合える友人なら山ほどいる」
「山ほどじゃないでしょう。男の数ほどでしょう」マリ子は話は終わりとたかしに背を向けたが急に立ち止まった。「そうだ。アイスバイキングには行かなかったわよ。別の店でアイスを食べたわ」
「そんなんでオレの機嫌が直ると思った」
「思うわ。だって、アイスバイキングに行かなかった理由は、体型を維持するためだもん。私が痩せてから買った下着まだ見てないでしょう?」
「……見てない」
「見たい?」
マリ子はたかしからの答えがわかっている笑みを浮かべた。
「見たいです」
「そうそう。男は素直に欲望に負けておきなさい」
そう言って笑顔で部屋へ連れ込むマリ子に、たかしは絶対に敵わないと思っていた。




