第一話
「だから僕の言ってることは絶対に正しい」
明夫は真剣な眼差しで、たかしの目を見つめた。
確固たる意志の瞳はさながらメデューサのようで、たかしは石化したように固まった。
「明夫……」
「政府も認めてる。宇宙人に対する規制があるか? でも、アニメやゲームにはある。これはアニメキャラクターが存在しているからこその規制だ」
「明夫!」
「なんだよ。これが僕だ。しょうがないだろう。アニメやゲームのキャラクターが大好きなんだ」
「オレが聞いたのは、今日の晩御飯は何を作るつもりかだ」
たかしは冷蔵庫を開くと、中が空っぽなのを見せつけた。
「なに? また魔女が買い物しなかったの?」
「誰が買い物しても一緒だろう」
「それは違う。買い物に行かないといけなくなるだろう。僕にマラソンさせるつもり?」
「スーパーまで行くだけだろう。今日の夕食は明夫が食事当番だ。ついでに食玩でも買ってきたらどうだ? オレの分のおつりから出していいから」
「行くよ……。行けばいいんだろう。でも、食玩の言葉に騙されたわけじゃないからね。僕は怒ってるんだ。怒りに燃えてるぞ。でも……二つ買っていいなら【内なる勇気の炎】に変えてもいい」
「好きにしなよ。そのセリフからして……戦隊モノのソーセージだろう」
一緒にCMを見ていたので、明夫が復刻された消しゴムフィギュアのソーセージを欲しがることはわかっていた。
二百円もしない商品で口が塞がるなら願ったり買ったりだと、たかしは五百円玉を渡して明夫を送り出した。
「それでご機嫌なのね」
京の視線が向いている先は、食事に手もつけず赤単色の小さなフィギュアを見る明夫だ。
「ご機嫌なのはいいけど……いつまでソーセージ食べさせるつもりよ。セクハラで訴えるわよ」
マリ子はソーセージの野菜炒めが山のように盛られている大皿を見ると、そのシワを作った眉間をそのままにたかしへ視線を移した。
「その言葉はオレに言ってる? 明夫に言ってる?」
「身に覚えがあるなら、あるほうに言ってる」
マリ子はソーセージをフォークで刺すと、それを自分の口ではなくたかしの口元へと運んだ。
それを拒否することなく自然に受け入れたたかしは、お返しにと自分の皿から切ったオレンジをつまんで食べさせた。
「なくても、優しくしておくに越したことはない」
「ちょっと……止めてよね」と明夫はため息をついた。「まるで付き合ってるみたいだ。待った――なんでたかしの隣に魔女が座ってるんだ?」
この家の食事事情。特に席順に至っては滅多に変わることはない。
テレビ前にローテーブルを囲む。テレビの正面には二人がけのソファー。左右にはそれぞれひとりがけソファー。
人数が増えるとキッチンの椅子を持ってきたり、床に座ったり、基本的には同じだ。
京が増えたことにより、二人がけのソファーにはいつもマリ子と京が座っていた。
しかし、数日前からマリ子の隣にはたかしが座っているのだった。
「付き合ってないわよ」
マリ子が軽い調子言うと、たかしも同じ言葉を言った。
実際に二人が付き合っているわけではい。
だが、どうにも覚えのある空気に明夫は敏感に反応していたのだ。
「なんでたかしが隣なの?」
「なにアンタも座りたいわけ? 小学生の席替えじゃないのよ。好きに座ればいいじゃない」
「私も気になってた」
「京も? ははーん。さては夏の陽気に当てられてるのね。無理もない。あと数日で夏休みだもんね。夏色のクルーネックプルオーバー買っちゃった。見たいっしょ? 魅惑で健康的なのノースリーブよ」
マリ子は話しかけていた京ではなく、隣のたかしを見ながら言った。
「それは楽しみだけど……そんなお金あった?」
「週四でバイト入ってたのはこのためよ。週四ってほとんど社員並よ。働かせ過ぎだと思わない?」
「自分で入れたんだろう」
「外堀を埋められたのよ。あんな頼まれ方をしたら断れないわ……」
「誰に?」
「店長に」
「まさか店長ってイケメンじゃないよね……」
たかしは嫌な予感がして食い気味に聞いた。
「女よ。それも既婚者」
「安心した……」
「なんであなたが安心するわけ?」
マリ子は可愛らしく顔を覗き込みながら聞いた。
「なんでだと思う?」
「そっちが言って」
「そっちだろう」
「そっちよ」
「じゃあ言わせてもらう」と口を挟んだのは明夫だ。「アニメのキャラクターは実在するかどうか。僕は多次元配列を推すね。地球で生きるということは一次元配列じゃない。まず性別に分けられる。まず男女。荒れる原因だって? わかってるよ。でもオタクの世界。いや――あえてヲタクの世界と呼ばせてもらうとするよ。君達が思う男女は性別二元制だと思ってるだろう。僕らに取って男女とはただの帽子だ。その時の気分気分で被り直せば良い。柔らかにした言葉で男の娘。ボーイッシュってあるだろう。あれはただの上澄み。その下には濃いパラダイスが広がっているんだ。僕はこれを触手の法則と呼んでいる。触手というのはもちろんヲタクだ。僕らが一本触手を伸ばすだけで、パラダイスは深みを増していく」
「詳しく」と食いつく京とは反対に、たかしとマリ子は興味をなくして部屋へと帰っていた。
翌日。バイト先でマリ子は大きなため息をついた。
それより大きなため息をついているのは【メイドのザンギ】の店長である朱美だった。
実際にため息のボリュームが大きい訳では無い。彼女の風貌がため息を大きく聞かせているのだ。
青白い肌。真ん中から分けられた髪から狭い額が見えている。眉と口角は垂れ下がり気味で、不健康そうな目の下のクマ。そしてフリル付きのメイド服。なぜか不思議と似合っていた。
「だから言ったでしょうテンチョー。唐揚げでもザンギでも適当に答えればいいって」
マリ子のキツめの言い方に、朱美はしゅんとしてしまった。
「でもでもでも……お客様がどっちが気になるって……」
「クソガキの高校生がメイド服の女にちょけて話しかけてるだけ。返しはこうよ。無駄口サービスで、今ならアンタの股間の分の唐揚げ二個無料。包丁で切り取って傷口に塩を塗り込んで、トングで握りつぶすようにあげてあげるって。そのためにレジにこれを置いたのよ」
マリ子はカチカチとトングを握って鳴らした。
「でもでもでも……お客様は大事にしないと……」
朱美店長は猫背を更に丸めてうじうじ始めた。
マリ子が慰めようとしていると、近所の男の子が五百円玉を握りしめて店へやってきた。
「マリオマリオ! 唐揚げ弁当一個!」
「マリ子だって言ってるでしょう。アンタまた唐揚げなわけ?」
「マリオ。メイドだろう? そんな態度でいいのか?」
「いいのよ。クソガキを教育するのもメイド役目だから。まったく……待ってなさい。揚げたて入れてあげるから」
「待って!!」少年はマリ子の背中に声をかけた。
「いいのよ。遠慮なんて。ガキのくせに気を使うんじゃないの」
「違う! マリオじゃなくて……朱美さんに……揚げてもらいたい」
急にモジモジ始める少年の態度はわかりやすく、誰もが少年の目的に気付いたが、マリ子はそんな事お構いなしだった。
「なに? 私が揚げたザンギじゃダメなわけ?」と少しだけ睨みをきかせるマリ子に少年を任せ、朱美は唐揚げを揚げに奥のキッチンへ入っていった。
「マリオが揚げたからあげをお母さんに見せたら、砲弾のおもちゃを買うんじゃないって怒られた」
「アンタねぇ……買ったものをいちいち親に報告してると数年後後悔するわよ」
「だってここ食べる場所ないんだもん」
メイドのザンギはテイクアウト専門店であり、狭いレジは配達用の棚があるので更に狭く、キッチンもフライヤーと冷蔵庫と炊飯器が主であり、暖簾の隙間から全体が見渡せる程度の広さだった。
男の客が多いのも、その暖簾の隙間から料理をする後ろ姿が眺められるという、しょうもないことが原因だった。
「そういう店なの」
「そういう店って」
「テイクアウト専門」
「テイクアウトって」
「持ち帰り。持って帰るって意味よ。ここに居座ることじゃない」
「わかってるってマリオ!」元気よく返事をした少年は、朱美店長の姿が見えるとまた大人しくなり、もじもじと挨拶しながら店を出ていった。
扉がしまると姿が見えないと思ったのか、少年のスキップは見るもの誰もが幸せになれそうなほど可愛らしいものだった。
「私のほうがおっぱい大きいのに……」
マリ子は朱美店長の胸をじっと見た。
この店の男性客の殆どはマリ子が目当てだ。多少の口の悪さはあるものの、人懐っこく愛想もいいので近所のオフィスや一人暮らしの男がやってくる。
そんなマリ子の後ろに隠れている朱美店長は、子供にとってお城に囚われのお姫様のように見えているのか、子供は九割朱美店長を目当てにやってくる。
その証拠に買わなくても、挨拶だけしてく子供も多いほどだ。
その繋がりで親も買いに来る。
小さいながらも、赤字を出さない理由はこれだった。
料理が苦手なマリ子でも、ここでは一線級の活躍をしているというわけだった。
「マリ子ちゃんはもう少し、お客を男と見ない努力が必要ね」
「店長はもう少しがっついた方がいいって。領収書のサインついでに婚姻届にサインさせるくらいがちょうどいい」
「ダメダメ……ダメよ。こわいもの」
「男が?」
「両方……。最初マリ子ちゃんが面接に来た時……私死のうと思ったくらいだもの」
「なるほど。死なせなかったんだから、そんな私は天使ちゃんってわけね」
「本当にその通りよ。マリ子ちゃんが辞めたら、きっとこの店は終わり……。油でも使うわ……」
「そんなの死神じゃない……。油浴びて死ぬなんて、アホのすることよ」
マリ子は朱美店長の顔が本気に見えたので慌てて止めたが、本人は何を勘違いしているのだと驚いていた。
「私は……廃油石鹸を作ろうと思っただけよ」
「テンチョーは一回鏡を見ながら話す練習したほうが良いわよ。今の表情に声優が命を吹き込んだら自殺前のセリフが出てくるわよ。ああ……この言い回し最悪。明夫のせいよ……」
マリ子は明夫がよく言う声優の褒め言葉が、自分の口から出てことに自己嫌悪していた。
その夜。
「だから僕の言ってることは絶対に正しい」
明夫は真剣な眼差しでたかしの目を見つめた。
確固たる意志の瞳はさながらバジリスクのようで、たかしは石化したように固まった。
「明夫……。確かに正しい。これは唐揚げじゃない」
たかしは箸が刺さらない真っ黒な唐揚げをつまみ上げた。
「そうよ、唐揚げじゃなくてザンギよ。メイドのザンギだって言ってんでしょう」
マリ子は文句を言う二人を牽制しながらも、自分は衣を剥がして食べていた。
二人にそれを指摘されても、ダイエットだからと言い切った。
「そんなことよりも」と京はマリ子の格好を見つめた。「いつまでメイド服なの?」
「いいでしょ。可愛いでしょう。抱きしめたくなるでしょう」
マリ子は箸をテーブルに置くと、気まぐれな猫のような仕草で京に甘え出した。
「そうね。とても美味しそうな匂いがするわ」
マリ子がメイド服を来ているのは、店の制服を洗うためだ。いつもはクリーニングに出すのだが三人に見せようと、メイド服姿のまま帰ってきてそのままなのだ。
「本当? ベリー系? 砂糖みたいな甘い系? それとも魅惑でエキゾチックなイランイラン?」
「そうね……生姜とにんにく。あと香ばしい醤油の薫りね」
「よく揉み込んだら味も染みるわよ」
マリ子は最後に胸を押し付けると食事へ戻った。
「それにしても、よく続いてるね」
たかしはマリ子のバイトが続いてることに驚いていた。ルームシェアを始めてからいくつかバイトを経験しているが、短期か問題を起こして結局短期になってしまうバイトばかりだ。
なのでドキドキ・海フェスという目的のイベントが終わってもバイトが続いていることが不思議だった。
「なに? それは悪口」
「少しだけ。でも、残りは褒めてる」
「まあ……正直すぐ辞めるつもりだった。でも、店長見放したら死んじゃいそうなんだもん。私と出会う前に、どうやって生きてたか気になるわ……。なんも出来ないんじゃないかって思うもの。でもなんだかちゃんとしてるのよね……」
「今……ダメお姉ちゃん萌えの話ししてる?」
明夫はワクワクしながら口を挟んだ。
「してない」
「ちぇ」
「でも、萌えさせない方法があるなら聞くわ」
マリ子は冷やかしの男性客が多くて仕事に支障を来すと説明した。
「ああ……いるね。オタクに慣れなかった男の末路だ。萌えを萌えだと消化できない人生を過ごすとああなる。実に悲惨だよ。萌えの一言で済むものに、必死で装飾語で飾り付けていく。軽いだろう? 季節風に飛ばされるくらいのもんだ。僕らはもっと深みに根を張っている。だからオタクは根深い」
「確かにオタク相手のほうが楽そう……そうだ。オタクサービス始めよう! オタクはお金使うじゃん。オタクから巻き上げよう!」
「それは文化のカツアゲだよ。オタク文化はオタクのものに。ギャルが掻き回していいもんじゃない。ここはクラブハウスじゃないんだぞ。手を上げて換気扇代わりにブンブン振り回すもんじゃない」
「だからいいのよ。オタクと一緒にされたくない奴はこない。どうせ金払いは悪いし。オタクにコミットしたほうが良さそうじゃない。つーか今のコミットって言い方頭良く見えない?」
「本当に君はオタクをバカにしてるよ。いいかい? オタクをバカにするということは、人間の根源をバカにするってことだ」
「あっそう」とマリ子は立ち上がると、階段を登っていった。向かう先は自室ではなく明夫のコレクション部屋。そこから衣装を一つ取ると、それを来てリビングに戻っていった。
「どうよ」
「それは! 僕が買った【ベジタブルチョコレート】豪華限定版についてたメイド服だぞ!」
「私のザンギいる?」
マリ子は真っ黒なザンギを箸でつまんで明夫の眼前でチラつかせた。
誰もが明夫が無視するだろうと思ったが、明夫はまるで魚のように食いついたのだ。
「僕にはメイド服しか見えない……くそう……くそう!! コスプレイヤーが二次元と三次元の扉の番人って噂は本当だったんだ……」
明夫が心底悔しそうにうなだれ続けている間。マリ子は勝ち誇った笑いを響かせたのだった。