第十五話
土曜の昼過ぎ、リビングのドアをノックする音が響いた。
マリ子が玄関を開けると、アコが大きなバッグを抱えて立っていた。その顔は、興奮で紅潮している。
「まーちゃん、こんにちは!」
「アコじゃない。どうしたのよ、そんな大きな荷物持って」
アコはバッグを愛おしくぎゅっと抱きしめながら、嬉しそうに言った。
「明夫君に誘われたのよ」
「え!? うそ!? デート」
自分の知らないところで、いつの間にそんな中に発展していたのかと、驚いたマリ子は思わずアコの肩を強く掴んでいた。
「違うわ。クラブのイベントよ」
「そうよね……びっくりした。明夫がデートに誘うだなんて……はぁ? クラブのイベント? もっとありえないんだけど!?」
マリ子の声が、一オクターブ上がった。
クラブのイベントがあり。それも明夫が、アコを誘った。
その意外過ぎる情報が、マリ子の頭の中で処理されずにどんどん溜まっていく。
そのせいで、ここからアコの言っていることが、ほとんど頭に入ってきていなかった。
色んなものが思考のフィルターで濾された結果、残ったのは疑問だけだ。
「そうよ。今日の夕方から、すごく楽しみよね。それじゃあ、私はコスプレの準備があるから先に行くわ」
そう言って、アコは足早に去っていった。大きなバッグを抱えたまま、弾むような足取りで。
マリ子はその背中を見送った。
そして、ドアを閉めてリビングに戻ると、力が抜けたかのようにどかっとソファに座り、今の会話を反芻した。
明夫がアコをクラブのイベントに誘った。それは、良いことだ。アコは嬉しそうだった。
だが数秒後、マリ子の表情がみるみるうちに変わった。
「……ちょっと待って」
「どうしたの? 誰かお客さん来た? ……ってわけじゃなさそうだね。荷物?」
たかしは洗い物をしていたキッチンから顔を出して確認したが、いるのはマリ子一人だった。
「違う。明夫が……アコをクラブに誘ったって」
「明夫が? 現実の女性を? それってなんの引っ掛けクイズ? それ……前みたいにどっちの色が似合うかって聞くやつじゃないよね……。あれいっつも間違うんだけど。わかった……話が逸れた。続けて」
マリ子の冷たい視線に気付いたたかしは、もう余計な口を挟まないと、降参するように両手を上げた。
「本当に言ってたのよ。アコが明夫に誘われたって。なんで私は誘われてないのよ!」
マリ子の声がリビングに響き渡ったが、明夫と幼馴染のたかしは冷静だった。
もう既に、似たような体験を過去に何度もしてきている。
「普通に考えたらオタク向けのイベントだからじゃない……。先に言っておくけど、明夫が誘うイベントはいいものじゃない」
「オタクのイベントかなにか知らないけど、誘われないのはムカつく。行くわよ」
「聞いてた? 明夫が誘うイベントはろくなもんじゃない」
「でも、クラブでイベントなんでしょう? 明日の朝、私の知らないクラブの話を明夫にされるのを想像してみて」
「無茶言わないでよ……。付き合いが長い分何一つ想像できないんだから。未だにクラブって言葉も、サークル活動だって疑ってるくらいだ」
「わかった。明夫がボコボコにされて、慌てて救急車を呼ぶ自分を想像して。どう? 行く気になった?」
「今の言葉を聞いて向かうのは警察署だよ……。本当に行く気? せっかく洗い物も終わって二人きりなのに。明夫がクラブに居るってことは絶対に邪魔が入らない。……実は今日……うちに親もいないんだ」
たかしは高校生が初めて女の子を誘うかのように茶化したが、マリ子には全く効果がなかった。
「親がいないなら、外に出るのに全く問題ないでしょ」
「そもそも夕方前だしね。まあ……それでマリ子さん気が済むなら」
マリ子の決意は固かった。
たかしは、抵抗するだけ無駄だと悟った。
部屋デートを諦め、着替得るために部屋へ戻るとしたのだが、そんな暇はないと、首根っこを掴まれるようにして、マリ子に外へと連れ出された。
三十分後。二人はクラブの前に立っていた。
入口には厳つい顔をしたセキュリティが立っており、中からは重低音が漏れ響いているが、その音にはどこかアニソンの軽快なメロディラインが混じっていた。
「すみません、入りたいんですけど。チケット二枚。当日券あるでしょ。こんな流行ってないクラブなんだから」
マリ子の不躾な言葉に反応したなかったセキュリティだったが、二人の姿を上から下まで見ると、首を振った。
「ドレスコード違反だ。入れない」
「は? ドレスコード?」
マリ子は自分の服装を見下ろした。
シンプルなワンピースにカーディガン。たかしも普段着のジーンズとTシャツだ。
クラブでは目立たない格好かも知れないが、追い返されるような服装ではない。そもそもオタクのイベントでドレスコードがあるだなんて思ってもいなかった。
そんな二人感情を視線で悟ったセキュリティは、絶対に入らせないとでも言うように、一歩ずいっと前に出て説明した。
「今日は特別なイベントだ。ドレスコードを守ってもらわないと困る」
「見えないならグラサン外しなさいよ。おっぱいが二つ。どこの国でも万能のドレスコードよ」
「どこの国でも万能な警察を呼ばれたくなったら、回れ右して帰りな嬢ちゃん」
「その台詞……。20年後にもう一度言いなさいよね。そしたら褒め言葉に変わるから」
セキュリティの男に一歩も引かないマリ子を見て、たかしは彼女を腕を組んで引っ張った。
「まあまあ……ここで食って掛かってもしょうがないよ」
「情けないわね。男なら一発がツーンと言ってやったらどうなのよ」
「オレがどうにか出来ると思う? 彼とオレの太さの違い見た? 警察と一緒に救急車まで来ることになる」
「太さの違いはそこだけかしらね」とマリ子は不機嫌に言うと、たかしの腕を組み換えし引っ張った。「帰って、着替えるわよ」
「そこまでしてクラブ行くことなんてないと思うんだけど……30分かかるんだよ。往復で一時間……」
というたかしの文句は全く聞かず、マリ子はたかしを連れて家へ帰ると、クローゼットを漁り始めるた。
クラブに相応しい服。露出度の高いドレス。キラキラしたアクセサリー。全てを身につけて、鏡の前でチェックする。
「完璧ね……」
「本当にその格好で行くの?」
「なに? 文句あるわけ」
「他の男もいるのに?」
「嫉妬は可愛いけど、オタクのパーティーよ。現実の私より、写真に撮った私を見る」
「確かに……」
「よし、行きましょう」
二人は再びクラブへ戻った。
だが、今度もセキュリティは首を振った。
「はあ? なんなのよ! 言っとくけど、私の彼氏空手の黒帯なのよ。図体がでかいからって、偉そうな態度取ってたら複雑骨折するわよ」
マリ子がたかしをセキュリティの前に押し出すと、たかしは究極に困った顔で眉毛を八の字に下げた。
「うそぉ……。自分事なのに初耳なんだけど……。どうせなら実は貯金が100万あったとかにしてくれない」
「おバカ……。ポーズくらい取りなさいよ」
「それじゃあ、まんま明夫だよ……。魔法少女の変身ポーズでも取らせるつもり? マリ子さんは考えなさすぎるんだよ」
「たかし、あなたは考えすぎ。こういうのは勢いが大事なの。テキーラのショット飲むと一緒。まずいし後先どうでもいい。ただ勢いだけの飲み方。わかる?」
その時、後ろから声がした。
「あれ、二人も誘われたんだ」
振り返ると、悟が立っていた。
普段着のジーンズとTシャツで、大学構内でも見かけるような何の変哲もない格好だ。
一度追い返されたたかしと、全く同じような服装と言ってもいい。
「悟? なんで悟がこんなところに?」
たかしが驚いて声をかけると、悟は軽く手を上げた。
「僕からしたら、二人がいる方がおかしいよ。すみません、入りたいんですけど」
悟が前売りチケットを見せると、セキュリティは悟を上から下まで見た。そして、何も言わずに頷いた。
「どうぞ」
「ちょっと待ちなさい!」
マリ子が叫ぶと、セキュリティは無表情のまま振り返った。
「なによそれ! 普段着じゃない! なんで私たちはダメなのよ!」
「彼は、あれでいいんだ。そうお達しが出てる。男の娘のコスプレだ。認められる」
セキュリティの答えは、冷静だった。マリ子は、一瞬言葉を失った。
「はあ? コスプレ?」
「そうだ。今日はアニソンオンリーのDJイベントだ。その服で入れると思うか?」
「」
悟は、二人の様子を見ると状況悟った。
「明夫から聞いてないの? マリ子が来るとうるさくなるから誘わなかったって」
「聞いてたらこんなややこしいことになってない。やっぱり、明夫が誘うイベントはろくなことにならない」
「そう? ここ最近じゃ一番のイベントだってさ」
「まさか。アニソンイベントだぞ。明夫がいる限り、アニソンの皮を被ったポップ・ミュージックは流れないはずなんだけど……」
たかしが振り返ると、マリ子がセキュリティと言い争う後ろで、コスプレした男女が別のセキュリティにチケットを見せて入場していた。
それもいつの間にか列になっている。
「アニソンイベントだから、フットワークの軽い準オタク達もいっぱい来てるってわけ。コスプレって言ったら、女の子も結構来るしね」
「言われてたら、マリ子さんだってコスプレしてたよ」
「無理無理。彼女がコスプレしても自我がで過ぎ。ほら、チケット見て」
悟が差し出したチケットの裏には、『キャラクターになり切ること』が条件として書かれていた。
「どういうこと?」
「簡単だよ。ギャルはダメだけど、ギャル風はオッケー。ただの男はダメだけど、男の娘はオッケー」
悟はただの男でたかしを指し、男の娘で自分を指した。
「そこまでクラブに入りたいとは驚いた」
「これが最後チャンスかも知れないからね。男に口説かれずにクラブに居るのが」
「そんな自虐的な……」
たかしは言ったものの、確かにと心の中で頷いていた。
悟が女性と間違われて声をかけられているのも間近で見たことがあるし、彼女の恋人かと大学で尋ねられたこともある。
今も、傍から見るとラフな格好の女の子と男が話し合ってるようにしか見えないくらいだ。
「ところでさ、一人なら同伴で入れるけど、どうする?」
「いや、マリ子さんがいるから。大丈夫」
「本音は?」
「今の話を聞いて、中のイベントがどんなものか想像がついた……」
たかしは目に映るコスプレをしている人の大半が、魔法少女のコスプレをしているのだ。
女も――男も。
そして、たかしは知っていた。
今放送している魔法少女枠のアニメには、多様性を狙ってから露骨なキャラクターが登場している。
男の娘もその一人であり、普段はシャツとジーパンの格好をしているのだ。
たかしも中性的な顔立ちだったならば、最初の姿で入れたかも知れない。
そして、コスプレが苦手な女性の殆どは、そのコスプレという名の普段着を着ている。
ギャルは一人もおらず、マリ子は確かに浮いていた。
更に言えば、魔法少女のコスプレをしているのは、偶然知ったコスプレイヤーくらいなもので、魔法少女の格好をしている大半が男だった。
この状態ならば、確かに悟が口説かれることはない。
「そっか」
悟はあっさりと頷いた。
そして、セキュリティに会釈して中に入っていった。
扉が開き、中から音楽と笑い声が漏れてくる。
楽しそうな雰囲気が、一瞬だけ外に溢れ出た。
だが、扉はすぐに閉まり、再び静寂が戻る。
マリ子はその扉を睨んでいた。
そして、次の客が中に入るのと同時に、強行突破を試みた。
結果は成功。早く入りたい客の波に押されて、セキュリティの腕はマリ子まで手が届かず、彼女は一直線に一番盛り上がっているDJブースへと向かった。
そこにはきれいな魔法少女姿のアコと、汚い魔法少女姿のオタク三人が、サイリウムを振り回してヲタ芸を披露していた。
アコはスパッツをはいているが、男三人はトランクスとボクサーパンツ丸出しにして踊り狂っている。
そんな文化に馴染みのないマリ子は呆然。
サイリウムが作り出す光の波に飲み込まれるように棒立ちになっていた。
DJブースから流れる重低音が全身を揺さぶると、光が明滅し、視界が歪む。
もうこんな光景を見たくないと、マリ子は目を閉じた。
サイリウムの光が瞼の裏にまで焼き付いて、チカチカと点滅している。
気づけば、周囲の音がどんどん遠くなっていた。
アニソンのリミックスも、歓声も、すべてが水の中に沈んでいくように、遠く、遠く……。
マリ子の意識は、そこで途切れた。
翌朝、マリ子は自分のベッドで目を覚ました。
窓から差し込む柔らかな朝日が、頬を撫でる。
「…… 何だ、夢だったのね」
マリ子は安堵のため息をついた。 あんな悪夢のような光景、現実であるはずがない。 男たちの下着姿でヲタ芸なんて、絶対に夢だ。
寝起きの身体を引きずるようにしてリビングへ向かうと、キッチンで明夫がコーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「おはよう…… って、ちょっと待った……」
「なに? 人の顔をジロジロ見て。角質でも見せつけるつもり?」
「ラメがついてる……」
マリ子が見ていたのは頬だ。
リビングの灯りに照らされて、明夫の頬が不自然にキラキラ光っている。
そして、少し視線を上げれば、また別の違和感に気づく。
「ピンクのアイシャドウ!?」
「だからなに? 言っとくけど、この化粧品はアコのでマリ子のじゃないからね」
「吐きそう……」
「散々飲んでたからね。記憶をなくすまで。そんなにアニソンが好きだったなら謝るよ」
「いい……二度と誘わないで」
「誘ってないんだけど」
「あの一糸乱れない踊り……踊りって呪術から来たって本当なのね。本当に二度と誘わないで……」
「だから誘ってないんだってば……」




