第十三話
「それじゃあ、行ってくるよ、たかし」
「ああ……」
短いやり取りだけを残して、明夫は玄関の向こうへと消えた。
ドアが閉まる音が、朝の静かな空気に乾いた余韻を落とす。
たかしはその音を背中に聞き、ほとんど見送る間もなく踵を返し、駆けるようにしてリビングへ向かった。
リビングにはマリ子がいた。
まだ整えきれていない髪を雑にヘアバンドまとめ、朝の光が差し込みむ窓にカーテンを引き、彼女の横顔を淡く照らす陽光を遮った。
たかしは息を整えることも忘れたまま、その傍らへ歩み寄ると、マリ子の行動にはにも触れずに「明夫の様子がおかしい……」と呟いた。
「明夫がおかしくない時なんてあったかしら?」
「冗談で言ってるんじゃないんだけど」
「私も冗談で言ってない。ちょっと心配し過ぎなんじゃない? なんかおかしいところでもあったの?」
「聞いてなかったの? 『それじゃあ、行ってくるよ』のトーンがいつもより高かっただろ」
「だからなに? ベッドの上の演技に問題でもあるの?」
マリ子は皮肉を言ったのだが、たかしは全く気付かずに話し続けた。
「わからない? あれはなにかをやってる時だ。それもなにか言い出しにくいことがある」
「もしも、それが遠回しにゲイだって告白してるんだったら、一旦顔面をぶん殴ってから――悩みを聞いてあげる」
「本当に気付いてない? あのソワソワした態度」
「全く気付いてない。あっ! 待った! あれだ! クラブに通うからって言ってたわ。この間相談されたのよ」
「クラブ? サークル活動? 今更じゃない?」
「なんで大学も違うのに、私にサークルのことを聞くのよ……。クラブって言ったら、イベントがある方のクラブよ」
「イベント……。もしかしてギャルゲーを二人でクラブってことにしてるとか?」
「ディスクが回る方のクラブ」
「ギャルゲもディスクが回る」
「DJがいるクラブよ。わかった?」
「わかった……けど、わかんない。なんで明夫が?」
「隔週でアニソンのイベントが始まるみたいよ」
「なんでマリ子さんが相談されてるわけ?」
「私がクラブ行ってるからよ。誘ったことあるでしょ」
「オレにはなんで言わないの?」
「知らないわよ。強いてあげるなら……今のやり取りが面倒くさいからじゃない?」
「オレと明夫は親友だぞ!」
「そうね。そして、私とあなたは恋人よ。なんかおかしいと思わない?」
「そう! 明夫がクラブなんておかしい」
「人は変わるものよ。それに、今クラブなんてオタクがいっぱいきてるわよ。ラップのイベントも、ダンスのイベントもアニメの曲がかかるなんて珍しくないんだから」
言いながら、マリ子はゲーム機の電源を入れた。
以前のマリ子なら、絶対に朝から化粧もせずにリビングのテレビでゲームなどしない。
彼女もまた変化した一人だった。
なので、明夫がなにか新しいことに熱中するのを理解出来る。
一方、なにも変わらない普通と呼ばれるたかしは、全く理解不能だった。
「それってギャルがオタク向けのゲームをするのも同じ?」
「ええ、そうよ。珍しくないでしょ。今どきはゲーム女子って」
マリ子がコントローラの決定ボタンを押すと、スピーカーからは如何にもなアニメ声の女の声が流れた。
「そうだけど……。明夫がクラブだぞ。カモネギどころじゃない。なんでも美味しく食べられるスパイスがかかってる状態だぞ。血に飢えた奴らは、生肉でもユッケだなんだって言って食う」
「本当に心配しすぎだって……。血に飢えた奴らは女の子しか食べない。それとも童貞奪われる心配してるわけ?」
「そうじゃないけどさ……。段階ってものがあるだろ」
「あら、初耳ね。クラブに段階ってなに?」
「非行・タバコ・留年。それからクラブだ」
「わかったわ……」
マリ子がコントローラーを置いて目を見てくると、たかしはようやく本気で話を聞いてくれるのだと安心した。
「わかってくれたか……」
「母子手帳貸して、たかしがいつ明夫を産んだか確認するから」
「真面目だ」
「真面目なら遅刻する前に大学行きなさいよ。こっちはもう講義がなくて冬休み状態だけど、たかしは今週いっぱいまであるんでしょ?」
マリ子はゲームに集中できないからと、追い出すようにたかしを玄関まで見送ると、ドアを開けて背中を押した。
「マリ子さん! 待ってって!」
「聞いてらんないわよ。こっちは朝から戦闘モードなの。冬休みに入ったガキどもをぶっ倒して、昨夜の鬱憤を晴らすのよ!」
マリ子はたかしをドアの外にだすと、乱暴にドアを締め、これまた乱暴に鍵がかかる音がした。
「ちょっと待って! マリ子さん! ベッドの上の演技ってどういうこと!?」
という、たかしの言葉に返事の一つもなかった。
そして、その日の昼。
大学の食堂は、昼休みのざわめきに満ちていた。
トレーを持った学生たちが右往左往し、椅子が床を擦る音が絶えず鳴る。
その騒音の中心にいながら、たかしの世界だけが妙に静かだった。
「どうしたの?」
たかしの姿を見かけた悟が、その以上さに気付き声をかけた。
「これ見える?」
「A定食だろ」
「これはオレの人生だ」
「はあ?」
「わからないの? オレの人生はこのランチと一緒だってこと」
目の前のランチセットは、すでに湯気を失っている。
唐揚げは冷え、味噌汁の表面には薄い膜が張り始めていた。
放っておけばこうなる、という見本のようだ。
今の自分の気分とよく似ている。たかしはそう言いたかった。
だが、そんなことが悟に伝わるはずもなく、ますます心配されるだけだった。
そこで今朝のことを話したのだが、悟からの返答は笑い声だった
「笑うなよ。こっちは本気で悩んでるだぞ……」
「わかった。なら、僕も真面目に答えよう。門限は6時にしよう」
「明夫がクラブ想像つくか?」
「僕は明夫がクラブに行こうが、ガードショップに行こうが、行動は想像は一切つかない。というか、今どきクラブに偏見持ってるの? たかし……それは強みだよ。普通のたかしが変わるチャンスだ。それを守っていこう」
「親友の心配するって、そんなにからかわれることか?」
「だって、そういうことだろ? 今たかしが悩んでるのって」
悟が心を見抜くと、たかしはようやく唐揚げに箸を伸ばした。
「まあ……そんなとこ」
「じゃあ、もう一回聞き直すけど、どうしたの?」
悟は声をかけたときと全く同じトーンで聞いた。
「変わるってなんだろうって思って……」
「たぶんそれって、死ぬまで出ない答えだと思うよ。昨夜のバラエティで還暦を迎えた芸人も全く同じこと言ってたもん。たかしはそれを、冷えた唐揚げを見て思ったんだろ。来週には墓を買う相談でもされそう」
「でもさ、親友も恋人も全く正反対の趣味を見つけたんだぞ」
「待った! その先を当てさせて……大学の掲示板で資格習得の広告を見に行っただろう。で、目移りして、なにを勉強していいかわからなくなって、考え疲れして……学食だ」
「はいはい……お見事。正解だよ」
「まだだ。で、学食くらいはいつもと違うのを選ぼうと思ったけど、結局悩んだ末にA定食ランチ」
「後ろ付けてたのか?」
「Mr.普通の行動なんて、この大学にいるなら全員がわかるよ。心理学の教授に目をつけられてるって知ってる? たかしは良い生き標本になるってさ。予想できなかったのは、まだ食べてないってこと。いいかげん、冷凍食品だって常温になるよ」
悟に呆れられ、たかしはようやく掴んでいた唐揚げを口に運んだ。
ジューシーさは失われ、油の匂いが強くなっていた。
「悟にはわからないよ……。一生普通って呼ばれてきた男の人生は」
「唐揚げを見て哲学する男の言うことは違うね。その時点で相当普通じゃないと思うけど」
「普通じゃない人は、オムライスやスイーツを見て思う。オレは唐揚げだぞ」
「無茶苦茶なんだけど、妙な説得力がある。……わかったよ。そこまで悩んでるなら、もう一人に聞いてみよう。寂しがりやだから、呼んだらすぐ来る。ほら、メーッセージ打って秒もせずに返信だ」
悟がメッセージを送った相手は芳樹だ。
すぐさまやってくると、内容の確認もそこそこに早速話題に入ってきた。
「それは悟が悪い」
「ほら、見ろ」
たかしは茶化し過ぎだと悟に非難の視線を浴びせたのだが、その視界の隅で芳樹がニヤニヤしだすのが見えた。
「門限は9時だ。じゃないと、男はいつまで経っても初体験を済ませられない」
「確かに……盲点だったよ。僕はクラブって言葉に引っ張られすぎて厳しくなってたよ。門限は9時にしよう、たかし」
「心配しなくても、夕方のアニメを見に5時には帰ってくるよ! まさか芳樹まで心配しないのか。大事な友人だろ?」
たかしは薄情者だと二人の顔をそれぞれ見た。
「おいおい……オレはいま来たばかりなんだぞ? もう少し楽しませろって。それに明夫はオレを親友だと言っているが、オレはアイツを変人だと思ってる」
「僕は姫だと思われてるし、僕は明夫を変人だと思ってる」
「質問が悪かった……」
「悪いのは考えすぎだよ。クラブって言っても、夕方の部だろ? 荒れるのはもっと遅い時間帯のだよ。ほら見てよ。調べてみたら……そもそも夕方のイベントは、子供のダンスイベントとかでも使われてるってさ」
悟がスマホで見せたクラブのホームページは、たかしが想像していたものとは違った。
勝手に映画や漫画に出てくる綺羅びやかな世界だと思っていたのだが、お酒が飲めるイベントホールといった感じが正しかった。
そもそも若者向けのクラブだったら、マリ子の顔見知りがいるだろうし、廃れていない。
たかしの杞憂でしかなかった。
たかしが自覚したのを表情で悟った芳樹は、慰め茶化すように続けた。
「なんならいっそ押しかけるか? でも、オレらがクラブに行ってもやることねぇぞ。たかしがいるから、女に声はかけられないだろ? タバコの煙と酒の匂いを我慢するほど音楽好きか? 居酒屋とカラオケ行きゃクラブに行く半額で済むぞ」
「……だな。確かに考えすぎだった」たかしはフーっと息を長く吐くと、気分を入れ替えた。「どうも最近考え込む癖があるらしい」
そう言ってA定食を食べ進めるたかしの顔に、憂いの影はなくなっていた。
「寒くなってくるとそんなもんじゃない? 芳樹は悩むことなさそうだけどね。予報だと、そろそろ初雪だってさ」
「オレだって悩んでる。例えば今日の居酒屋はどこにするとかな」
「飲みに行くの?」
「行かないのか? 今、せっかく居酒屋とカラオケの話題が出たんだぞ。大きいテストは冬休み明けだし、ほとんどレポート提出のための出席だろ? もったいなくね? そのためにだけ家だたの」
芳樹がクーポンもあるぞと見せつると、たかしはこれは良い機会だと誘いに乗った、
「そうだな。……この三人だけで遊ぶことって減ったもんな。今日は遅くまで飲みに行くか!」
たかしは早速マリ子に了承を取った。
返事はすぐに『了解』とだけ帰ってきた。
明らかにゲームに集中しているので、帰ったところでまともなご飯は期待できない。
なおさら居酒屋が楽しみになっていた。
「そこまで食いつくとは……」
「なんだよ、友達の誘いに乗っかっただけだろ?」
「確かにな。でも、あの台詞は違うだろ。あれは数年後誰かが結婚した時に、町中でばったりあった時に言うもんだ。オレ達は大学生だぞ? 男だぞ? 飲みに行くか、うぇーい。だけで会話できる」
「前もそんな会話はしてないだろ」
「バレたか。おい、悟。どうやらたかしは、オレ達のこと忘れないらしいぞ」
「気にしないで。冬休みになって、人と合う時間が減ることを考えて鬱になってるんだ」
「そうだオレは寂しがりやだぞ。だから、集合時間に遅れるなよ。あとでメッセ送るから」
「オッケー。食べすぎないようにしておく」
たかしはご機嫌で二人を見送ると、昼食の続きを食べ始めた。
もう頭には、今日の夜に親友の二人と飲みに行くことしかない。
その二人は学食を去る前に、一度振り返ってたかしの姿を確認した。
「なぁ、悟よ」
「なにさ」
「大学生で恋人と一軒家で同棲してるってよ、相当普通じゃないよな?」
「まぁね、それも同い年の子供付きだからね」
「あいつはなにを贅沢言ってるんだ」
「飽食の時代の日本と一緒。たかしは空腹と餓えの違いに気が付いてないってだけ」
「もっと悩ませたままにしておけばよかった……」
「出来ないくせに」
悟と芳樹はそのまま大学のテラスに出ると、居酒屋の予約をするためにサーチを始めた。
その夜、シェアハウスではクラブから帰ってきた明夫とマリ子が二人きりだった。
「あれ、たかしは?」
「友達と夕食よ。メッセージ見てないの?」
「じゃあ夕食は?」
「元から私が当番でしょう」
「それは違う。言うならば、キミは船長でたかしは航海士だ」
「あら、私が船長なの? なら船長命令よ、明夫アンタは死刑よ」
「航海士がいないと、船長は航海出来ないってこと。マリ子が一人で作った料理を僕が食べろって言うの!? こんなの本当に死刑だよ!」
「黙って食べないと、後悔することなるわよ」
「これを黙って食べろっていうの? 様子がおかしいんだけど……」
明夫が手に持っているのは、水分を全て吸って、デロデロになった麺がみちみちと溢れているカップラーメンだった。
「簡単よ。私のと一緒に作ったからそうなったの。私が食べたのは30分前。明夫が帰ってきたのはついさっき」
「冗談で言ってるんじゃないんだけど」
「私も冗談じゃないわよ。文句があるなら、たかしみたいに連絡入れなさいよね。まったく……似たような会話を朝にもした気がするわ」
マリ子はため息を落とすと、リベンジマッチと息巻いてゲームの電源を入れたのだった。




