それは、さいごのひとふり
「らしくありませんね」
「どうしたの?」
練習室のひとつ。
窓際のパイプ椅子に座ってタコ焼きを突いていた雪之丞は、ピアノの前に座る春真に視線を投げる。
「あんな風に牽制をかける必要性が見いだせません」
別段、春真が子どもでいることを止めると決めても、それは少女達に今までと違うきっかけを与えなければ良いだけなのだ。
こちらから先手を打って息の根を止める必要はどこにもない。
鍵盤に指を載せて、春真はそこに視線を落とした。
「たくさんのことを、一度にできるほど器用じゃないんだ」
妙な顔をしていたのが解ったのか、振り向いた春真がくすくすと笑う。
「雪さん。子どもでなくなることは、言い換えると?」
「…大人になる、ですか?」
「そう。大人になることは、将来の事を考えないといけないってこと」
「君のピアノは、手放さなくて良いものだと思います」
きっぱりと告げると、春真は驚いたように目を丸くして、それから頷く。
「大丈夫だよ。そんなことできないから。そういう意味では、紫村さんにもお礼言わなきゃかな」
ぽつりと零れた言葉に被せるように、春真が鍵盤を叩いた。
流れ出るのは、あの日も奏でたクラシック。
あとで聞いた所では前日に紫村にリクエストされたのだと言う。
弾き方によっては、ジャズバーには不似合いなメロディーを春真は今日は殊更ゆっくりと弾いてみせた。
「教授に、コンクールに出ないかって言われたんだ。そのコンクールの出場者は、殆どがプロになって世界に通用するような舞台で演奏してる」
「迷っているんですか?」
「うん。俺ね、子たちに教えるピアノの先生になりたいんだ」
吐息のように吐き出された言葉に、雪之丞はきょとんとする。
「それでどうして迷うんですか?」
「コンクールなんて、不相応だよ」
「違いますよ。コンクールに出るのは、君の音が人を動かすことを証明するためです。沢山の人に君のピアノを聞かせたら良いじゃないですか。これが、紅野春真の音なんだって」
弾く手を止めて、春真が振り向いた。
「雪さんて、本当」
「頑張ってくださいね」
最後のタコ焼きを口に入れると、雪之丞は立ち上がる。
「帰るの?」
「折角なので、黄波戸君の出る劇を見ていこうかと思うのですが」
「それ、俺もでるよ」
「行かなくて良いんですか?」
時間はあと1時間もないが、春真は急ぐ様子もなくピアノの蓋を閉じる。
「大丈夫。出番は二幕からだから」
「それでは早めに行かないと、会場がいっぱいかもしれませんね」
「雪さんが行ったら余計にね」
春真と顔を見合わせて、雪之丞はくすりと笑った。




