それは、いつのまにかひろがる
意外な人の口から、意外な言葉がでるものだ。
「紅野君から、お聞きになったんですか?」
「名前の事? それなら、違うわ。あの子はまだ、"墨吉雪"さんだと思ってるもの」
「すみません。何処かでお会いしましたか? 銀木夏葉さん」
微かに首を傾げると、夏葉は酷く驚いたように目を何度も瞬いた。
「春真に聞いたの?」
「いえ」
かの国のオペラホールの名を告げた途端に、夏葉は恥ずかしそうにそれでいて何処か笑い出しそうな顔をして人差し指を立てて見せる。
「日本で顔が売れてるとは思わなかったわ」
「素敵なフルートソロでした」
「ありがとう」
「ご姉弟で、音楽に造詣が深いんですね」
「正式には、姉弟じゃなくて従兄弟なんだけどね」
あっさりと零れた爆弾発言に雪之丞は目を丸くした。
「そうでしたか」
「そうなの。やだ。話が脱線しちゃったわ。私は、貴方に直接逢ったのは今日が初めてよ」
眉を顰めた雪之丞に、夏葉が悪戯っぽく笑う。
次いで紡がれたのは、先日緑川が口にしたのと同じ大学の名前だった。
「春真とは違って、私は音楽学校には行かずに個人レッスンを受けていたの。残念ながら、在学期間は被っていないんだけど、大学の教授陣ってほとんど変わらないじゃない?」
唐突にくすくすと笑って、夏葉は顔を上げて雪之丞にぐいと体を寄せる。
「ある時教授達が、貴方と並べたら絵になるって言うから、つい気になって、つてを辿って写真を見たの。でも、世間の評判になるだけあって、実物の方がやっぱり美少女ね」
「そうでしたか」
卒業した後までもまさかそんな風に話題に上っているとは思わなかった。
何とも他にコメントが見つからなくて、雪之丞は頬をかく。
「あぁ。勿論、春真には何も言ってないわ」
「何故でしょう?」
「ひとつには確信が持てなかったから。まぁ、今は確信してるけど。もうひとつは、」
「はい」
「理由が知りたかったの。それを知らないのに種を明かすのはフェアじゃないでしょ?」
「そうでしょうか。嘘つきは、すでにフェアじゃないでしょう?」
「あら、だって貴方が嘘つきかは解らないじゃない。さっきだって、私が紡いだ名前を拒む術だってあったわ。でもあなたは否定しなかった。つまり、聞かれれば答えるけど、聞かれなければ答えないってことよね」
否定も肯定もせずに雪之丞は苦笑して、その長い指を夏葉の唇にそっと当てた。
「嘘つきですよ。だから、罰せられるべきなんです」
けれどもそんなことで黙るような彼女でもなく、夏葉はにっこり笑って雪之丞の腕を掴んだ。
「罰して欲しい人間を罰して許すほど、私は優しくないわよ? それに、勘違いしないでほしいんだけど、少なくとも私は、貴方に一つ感謝してるの、”雪さん”」
「感謝、ですか」
本当に予想外の言葉で、雪之丞は呆気にとられて夏葉を眺める。
それは冗談でも、嘘でもないようで、夏葉はあっさりと頷いて見せた。
「そう。綺羅星を人間に変えてくれてありがとう」




