それは、ひとのこころのなか
何処かで見覚えのあるその人は、綺麗な人だった。
時折テーブルを廻って注文を取っていた雪之丞は、店に入ってきたその人が、躊躇いなくカウンターに陣取ったのを見て、御絞りとおすすめメニュー表を用意する。
店内にはサクソフォンの音が良く伸びる。
それを支えるように、ピアノが滑らかな土台を作り上げていた。
「いらっしゃいませ」
ピアノとサクソフォンに聞き惚れている彼女に暖かい御絞りを差し出せば、彼女は「ありがとう」とちょっと顔を上げてそれを受け取ると、少しばかり驚いたような、複雑な顔をした。
それを見て、雪之丞はふと彼女をどこで見かけたのか気づく。
「雪ちゃん」
不意にこいこいと厨房の奥から招かれて、雪之丞は一礼して慌ててマスターの元へ向かった。
「はい」
「彼女ね、春真君のお姉さんなんだって。これ、サービスしてくれる?」
クラッカーの盛り合わせを受け取って、雪之丞は僅かに呆ける。
「紅野君の、お姉さん?」
「うん。昨日春真君から予約取れるかって、電話があったんだ」
もうマスターの言葉は耳に入ってこなかった。
「こちら、サービスです」
「あら、良いの?」
ことりと静かに給仕をすると、彼女は一瞬目を丸くする。
その幼さを含んだ表情が、雪之丞の記憶を突く。
雪之丞が彼女を見かけたのは、両親の赴任先の都市だ。
オペラの伴奏をするオーケストラの中に、日本人は彼女一人きりだった。
生憎と、雪之丞はステージや花道の何処からも遠い所にある席だったから、多分彼女にとって雪之丞は大勢の中の一人の観客に過ぎなかったと思う。
けれど雪之丞にとっては、大変記憶に残った。
パンフレットに載っていた名前も憶えている。
『銀木 夏葉』だ。
「紅野君の御姉様に、とマスターから預かりました」
「ありがとう。じゃあ遠慮なくいただくわ。でもその前に、」
悪戯っぽく唇に指を立てて、夏葉はちらと店の中を見回した。
誰も彼もがサクソフォンとピアノに夢中で、マスターも厨房の中なのを確認してから、彼女は小さく囁いて笑う。
「少し、話をしても良いかしら。墨吉雪之丞さん」




