それは、みるまにちりぢりに
「マスター、ごめんね。春真に意地悪しちゃった」
良く透る声でそう言って、紫村は苦笑した。
それがあまりに店内に柔らかく響いたので、張り詰めていた空気が解れる。
「困るなぁ、兄ちゃん。俺はあのピアニストにリクエストしようと思ってたのによう」
「すみません。変わりにオレが歌うとか、どうですか」
客の男の言葉ににこにこと邪気なく笑って、紫村が歌いだしたのは聞いたことのある演歌で、それも絶妙な小節を入れるものだから店内は途端に笑いが溢れた。
「なんだ兄ちゃん、うめぇじゃねぇか」
「残念ながらレパートリはこれ一つなんですけどね。お騒がせしました。どうぞ、ごゆっくりお食事をお楽しみください」
良いタイミングでマスターがレコードに針を落としたので、店内はまた程よいざわめきに包まれる。
「紫村君、あのねぇ」
「ごめんって。あんな風に揺れてると、どうしても突きたくなるんだよね。下から何が出てくるのか、つい気になるんだ」
カウンター席の端に腰掛けて、紫村はマスターの出したピスナーを受け取って小さく笑う。
「人選、間違えたかな」
「まあ、そう言わないでよ」
ばらばらだ。
雪之丞は気付いて目を細めた。
おかしかったのは、春真だけではない。
店の中の空気もどこかちぐはぐだったのだ。
紫村が現れたことで、それが目に見えるようになっただけ。
雪之丞が裏口に投げた視線を戻すと、彼がグラスからあげた視線と搗ち合って、紫村は軽く肩を竦めて見せた。
「注文良い?」
マスターはいつの間にか厨房の奥へ消えていて、雪之丞は店内の喧騒から切り出されたその場所へ足を踏み出す。
「怒ってる?」
「何を、でしょう?」
「春真を突いたこと」
眉を顰めた雪之丞に、紫村は、ソーセージ盛り合わせ、と同じトーンで口にした。
「どうして怒ると思うんですか?」
「もともとオレが頼まれたのは、春真と君に関することだからだよ」
「どういう意味ですか」
「それは、君が良く解ってるんじゃないのかな? 墨吉雪男、君?」
紫村はそのまま、あとはバーニャカウダーと一口ピッツアを。とまるで一続きのようにメニューを口にしてにこりと笑った。




