それは、よるにいのるような
紫村の言う、『すみよしゆきお』という言葉が指す意味は直ぐに気づいた。
悪戯っぽい光をその瞳に見つけて、雪之丞は小さく息をつく。
特に狼狽えはしなかった。
多分心のどこかで、覚悟はしていたのだ。
もともと誰にも気づかれずに過ごす等というのは儚い望みというものだろう。
まさかこんな形で、この人に暴かれるとは思ってもみなかったのだけれど。
「正確には、雪之丞です」
「ひゅー。芸名みたいだね」
注文表から顔をあげて律儀に訂正すると、初めて会った時と同じように、紫村はそう言って笑った。
「あの」
「話は、仕事が終わってからにしようか。ね、雪ちゃん」
口を開きかけた雪之丞を遮って、紫村は唇に人差し指を立てて見せる。
雪君、と告げられた時は低く囁くようだった声が、雪ちゃんと呼ぶときには、良く透る声に変わっていて、取り敢えず、此処で暴き立てる気もないらしい様子に、雪之丞は頷いた。
マスターに迷惑をかけるのだけは、避けたい所だ。
ただでさえ春真が抜けて寂しげなフロアをちらりと見て雪之丞は気を取り直すように笑顔を浮かべる。
仕事に私情は禁物だ。
対価を受けるに値する働きを見せなければ、申し訳ない。
「こっちも注文良いかい?」
「はい、今伺います」
取り敢えず、今は与えられた仕事に集中するべきだ。
ホール中央で揺れた手に、雪之丞は紫村に軽く頭を下げると、喧騒の中に足を踏み出した。




