それは、ふあんのあらわれで
「え、」
机に向かっていた雪之丞は、仕上がった原稿を数えていた手を止めた。
怖ろしいことが、起こった気がする。
心を落ち着けるように原稿の角を整えて、もう一度初めから捲っていく。
「1,2,3,4、…」
最後の一枚を弾いて、雪之丞はぴたりと手を止めた。
本当だったら、このまま原稿を数え続けているところだ。
それなのに、何故か原稿がそこで終わる。
「足りませんね」
何処か他人事のように呟いて、雪之丞は溜息をつくと一枚一枚丹念に内容をチェックし始めた。
「はぁ」
全ての原稿をチェックし終えて、雪之丞は思い切り腕を伸ばす。
幸い足りなかった原稿は、奥のファイルの中から見つかった。
最終チェックを終えた原稿を茶封筒に仕舞い込んで、雪之丞はふと顔を上げた。
時計は、23時を指している。
バイトがないのを幸いと仕事に掛かりすぎたようだ。
今日は早く寝ようと思っていたのに、これではちっとも早くない。
取り敢えず風呂を沸かすべくスイッチを入れると、冷蔵庫からオレンジジュースを注いで一気に飲み干した。
珈琲も紅茶も嫌いではないが、果物のストレートジュースの方が、雪之丞は気に入っている。
御蔭で冷蔵庫の中には、必ず二種類以上のジュースが入っていた。
これは両親がいた頃からの習慣だから、墨吉家の家風と言っても良いのかもしれない。
その思考を遮るように鳴った固定電話に、雪之丞は微かに眉を顰めた。
こんな非常識な時間に電話してくる心当たりが、いくつかある。
ナンバーディスプレイを眺めれば、それは一番無害に近い相手だった。
「はい」
「もしもし、雪? 元気?」
「元気ですよ。そちらもお変わりありませんか?」
「勿論。私もお父さんも元気よ。お父さんは今日はお休みだから、博物館に行ってるの」
電話口から零れる母の明るい声に、雪之丞は微かに目を細める。
「そうですか」
「そうなの。やだ、雪。元気ないみたいだけど」
「すみません、最近割と規則正しい生活をしているので」
「あら、そうだったの?ごめんなさいね。だったらもう少し昼間の時間に電話すれば良かったわね。これからはそうするわね」
向こうは多分午後の早い時間だろう。
電話口の向こうから、木漏れ日がさらさらと音を立てて雪之丞に迫った。
「どうかしましたか?」
「あ、そうだ。あのね、お父さんの仕事仲間の人で、日本語版の絵本を英語に直してほしいって話があったんだけど、雪、今忙しい?」
「大丈夫です。タイトル解りますか?」
「じゃあ、あとでメールで送るわ」
「お願いします」
「あとね」
「はい?」
「面白そうな絵本があったから、宅配便で送ったの。そのうち届くと思うから」
「はい。解りました」
軽く頷くと、母は電話の向こうでくすくすと笑う。
「どうかしましたか?」
「その主人公がね、雪に良く似てるのよ」
だから楽しみにしててね。そういってあっさりと電話は切れて、雪之丞は無機質な音の零れる受話器を置くと僅かに眉を顰めてから、頭を振って風呂場に向かった。




