後編
さて、こうしてマヒナは王都へ向かうまでの間、自分の魔力をどうにかこうにか宥めなければならなかった。
まず基本的な措置として、氷雪の国で採れた野菜や果物を優先的に摂取することが求められた。曰く、植物は大地から直に魔力を吸い上げて育つため、体に馴染ませるという点では獣肉よりも効率が良いのだとか。
しかし。
「……大丈夫か?」
打ちひしがれるマヒナに、リヒャルトの気遣わしげな声が掛かる。
彼女の前には消し炭となった何かが散っており、食事を見守るつもりだった者たちは一瞬にして燃え上がった食材を探して視線をさまよわせていた。
「私、食べ物の好き嫌いなんて無いんです、本当なんです、自分で燃やしたんじゃありません信じてくださいリヒャルトさま」
「分かった、信じるから泣かないでいぁッッッつぁッッッ」
「リヒャルト殿下ァ!!」
食べ物を粗末にしてしまったことがショックでショックで泣き咽ぶマヒナ。彼女の悲しむ様を哀れに思ったのか、ついその背中を摩ろうとして自滅するリヒャルト。
現地の食事で魔力を宥めてみよう作戦は、見事に失敗に終わった。
「──とにかく氷の魔力と触れ合わないと。きっと食べ物は直接体内に入ってくるものだから嫌がったのよ。まずはその辺の雪でも触ってみるわ!」
「その意気ですマヒナ姫! 私もお付き合いいたします」
何もかも燃やし尽くす勢いのマヒナほどではないが、やはりクラも炎の魔力が暴走気味なのは同じ。
二人は神妙に頷き合うと、街道に降り積もる真っ白な雪に両手をズボッと埋めてみた。
「きゃあ深い! それに柔らかいわ!」
「ふふ、そうですねマヒナ姫ぇえ!? 姫! お、お手元が!」
「え?」
和やかな空気は一瞬にして終わった。クラに指摘されて手元を見てみれば、ジュワジュワと音を立てて雪が溶けているではないか。
ギョッとして両手を引き抜く頃には、マヒナが触れていた辺りの積雪は跡形もなく消えてしまった。
「……クラ、私ね……ユキダルマ? っていうの、作ってみたかったんだ……」
「ひ、姫! きっと作れますよ、大丈夫ですから!」
氷雪の国の子供たちが必ず一度は作るという雪だるま。民家の前に大きさの違う雪だるまが幾つも並んでいる光景は、とても可愛らしかった。
だがあの可愛い造形物を、自分は一生作れないかもしれない──泣きたい気分で積雪に指を突っ込んでは温水に変えていく悲しき炎の怪物を、クラは必死に抱きしめて励ました。
「ソリ遊び?」
「ああ。こうした遊びも大地との触れ合いに含まれると聞いた。これなら雪に直接触れないで済むし……どうだ、やってみるか」
「えっと、はい!」
続けてリヒャルトが提案したのは、雪の積もった斜面を小型のソリで滑り落ちる、氷雪の国における普遍的な遊びだった。
馬車から降りてリヒャルトの後を付いていくと、開けた場所になだらかな勾配が広がっていた。
晴れた青空と白い大地、それから黒々とした針葉樹のコントラストは非常に美しく、マヒナは思わず感嘆の声を上げる。
「わあ……! とっても綺麗ですね」
「……そうか?」
彼女の隣に立ったリヒャルトは、静かに景色を眺めてから小さく笑った。
「確かに俺も、昔はよく眺めていたな。そのせいで頻繁に兄上たちに置いて行かれた」
「まあ! ふふ、私も砂浜で寝転がって空を眺めていたら、姉様に体を埋められてしまって」
「う、埋められた……?」
「あっ、砂を盛られただけですよ!」
リヒャルトは一瞬だけ深刻そうな顔をしたものの、それが単なる姉妹の戯れであることを知っては破顔した。
その少しばかり幼げな笑顔に、マヒナはついつい見惚れてしまう。
「一度、マヒナの故郷に足を運ばないとな。太陽の国の海は、楽園の景色に等しいと聞いた」
「……あ。ら、楽園かどうかは分かりませんが、そのときは私がおすすめの場所を案内します!」
「ああ。楽しみにしている」
国境の街でリヒャルトと出会ってから、早一週間。
マヒナは改めて思った。
──この人、優しすぎない?
正直、軍事大国の王子ということで自他ともに厳しい人柄なのかと覚悟していたのだが、彼はマヒナの異常な体質を面倒に思うどころか親身になってあれこれ提案してくれるし、こうした雑談にも快く応じてくれるしで、政略結婚の相手にしてはこれ以上ないほど素敵な男性だった。
たまに誤ってマヒナに触れてしまっては甲高い声を上げているが、三日も経てばそんなところさえも愛おしく感じてきた。
加えて涼しげで真面目そうな顔立ちなのに、くしゃりと屈託なく笑うところなんて特に──これが世間で言う「ギャップ萌え」というやつかと、マヒナは衝撃を受けてしまった。
「マヒナ、こちらに」
「わっ、は、はい」
しまった、落ち着かなければ。マヒナはみるみる火照ってきた頬を押さえつつ、リヒャルトの傍に歩み寄る。
坂の上に用意された木製のソリに恐る恐る腰を下ろしたのも束の間、マヒナは彼が背後に座る気配を感じてビクリと跳ねた。
「えっ!? リ、リヒャルトさま、危ないです!」
「そうは言っても君一人で滑らせる方が危険だからな」
自分が燃やされることよりも私を心配して──!?
しれっとマヒナの乙女心を刺激していることにも気が付かず、リヒャルトは縮こまる彼女にもう一枚外套を被せ始めた。
「暑いか?」
「いっいいえ!」
「昨日立ち寄った街で見繕った物なんだが……何でも、魔力をある程度遮断できるそうでな」
「遮断……ですか?」
「ああ。常闇の国で採れる特殊な宝石を縫い付けてある」
常闇の国。地下にあるわけでもないのに何故か日の光が届かない国として有名で、かの地には闇の魔力が満ちていると聞く。
闇の魔力はあらゆる魔力を吸収するとか枯渇させるとか、真偽は不明だがとにかく未知の部分が多いそうだ。
しかしそこに住まう人々に関しては結構な目立ちたがり屋──いや、商魂たくましい者が多く、こうした珍妙な品を各国で売り歩いているのだとリヒャルトは肩を竦める。
「君の症状を話したら、是非これをと勧められてな。……少し触れても?」
「へ!? は、はい」
大丈夫だろうか。手袋越しでも散々リヒャルトを燃やしてしまったのに、外套を一枚足したぐらいでは──マヒナは聞き慣れてしまった彼の奇声を予期し、きゅっと目を瞑ったが。
背中に触れた手が、離れない。
奇声もない。
恐る恐る振り返ってみると、リヒャルトと目が合った。彼はオレンジ色の瞳をまん丸にしたマヒナと暫し見つめ合った後、くすりと笑う。
「かなり温かさは感じるが、大丈夫そうだな」
「わあ、本当ですか……! 素晴らしい技術ですね!」
「あの商人を胡乱な目で見たことを詫びなければな。さて」
「びぇっっ」
ようやく氷雪の国の人間と触れ合えたことに感激したのも束の間、リヒャルトに後ろから深く抱き込まれたマヒナは潰れた悲鳴を上げてしまった。
彼はマヒナを両脚の間に収めると、ソリの先頭に結び付けられたロープをしっかりと握る。
近すぎる距離にマヒナがあたふたする一方、リヒャルトはやはり真剣な表情でソリの位置を調整していた。
「よし、滑るぞ」
「ひゃい」
「ちなみに俺はソリ遊びをしたことがない」
「え!? それ今言いますか!? わっああ~!!」
初心者二人が真っ白な坂を無難に滑り、完全に停止した後でべしゃりと横転する様を、クラを含む護衛団一行は微笑ましく見守ったのだった。
◇
「……み、見て、クラ! 雪が残ってる!」
いよいよ王都が目前に迫った夜。
マヒナは両手に掬ってもなお温水にならない雪を見て、ぶわりと涙を溢れさせた。
宿の前で最後の挑戦に臨んだ彼女を、クラも涙ながらに称える。
「おめでとうございます、マヒナ姫……!」
「やっぱりまだ少し溶けちゃうけど、でも前進したってことよね?」
「ええ、ええ」
ちなみにクラは一週間前に魔力の暴走が収まり、以降は毎日せっせとマヒナの症状が良くなるよう尽くしてくれた。
ここ数日でようやく氷雪の国の料理が食べられるようになったのも、クラが故郷の食材を組み合わせたレシピを考案してくれたおかげだろう。
段々と溶けてきた雪を地面に戻し、マヒナは頼れる侍女をぎゅうぎゅうに抱き締めた。
「クラ、ありがとう。最初はどうなる事かと思ったわ」
「そうですねぇ。ですがマヒナ姫、お礼なら王子殿下に申し上げませんと。お料理のレシピも殿下が提案してくださらなければ、私には思い付きもしませんでしたわ」
「そうね、成果報告も含めて行ってくるわ。今はどちらにいらっしゃるのかしら」
「まだ宿の警備状況を確認されている最中かと……」
ならば何か温かいものを持って行こう。この凍てつく寒さの中、スープやシチューを一切冷めさせずに持ち運ぶことだけは天賦の才を見せつけるマヒナであった。
「リヒャルトさま!」
「マヒナ?」
リヒャルトは宿場町の入口で護衛団の騎士と話していた。長いこと外にいたのか、彼の耳や鼻が赤く染まってしまっていることに気付いたマヒナは、クラと一緒に持ってきた鍋をよいしょと持ち上げて見せる。
「シチュー食べませんか? 見張りの皆さんの分もあります!」
こうして差し入れに向かうのは今日が初めてではない。マヒナの姿を認めたリヒャルトはうっすらと笑顔を浮かべて「頂こう」と護衛団の者たちに声を掛けたのだった。
「──いつも思うけど何でずっと温かいんだろうな……」
「王女様が手渡してるからじゃないか? ありがたいから何でも良いけどよ」
焚火を囲んでの夕食は、騎士たちが動揺と感謝を口にする賑やかな空間となる。
彼らが任務の間に食べられるものと言えば、冷たい干し肉などの携帯食が精々だと聞いた。旅慣れしていないマヒナのために旅程が長く取られていることも知っていたため、せめてもの労いをと始めたことだったが、外だろうと熱々のシチューは思いのほか好評であった。
「太陽の国では温度を維持する魔法があるのか?」
「魔法というか、手をお鍋に当ててじっとしていたら温まるのです。あまり意識したことはありませんでしたが、これも一応、魔法……なのでしょうか」
騎士たちの輪から少し離れたところで、マヒナとリヒャルトは長椅子に腰掛けていた。
マヒナはシチューの入った器を両手で持ち、ぐつぐつと煮えたぎらせながら唸る。
「私、お父様やお兄様がやるような派手な魔法は得意ではなくて……そういえば、リヒャルトさまも氷の魔法に長けているとお聞きしました! 氷の魔法にはどのようなものがあるのですかっ?」
熱々のシチューを口に運んだリヒャルトは、思案げに視線をよそへ飛ばした。
「……俺が使えるのは、殆どが戦闘向きの魔法ばかりだ。武器に魔力を纏わせたり、敵の足場を凍らせて優位を作ったり……その辺の魔法をマヒナに見せる機会はないな」
「そうですか……」
「ああ、だが」
残念がるマヒナを一瞥し、彼は完食した器を傍らに置く。
そしておもむろに長椅子の前に屈んでは、何やら両手で雪を掻き集めはじめた。こんもりと山を作ったところで、リヒャルトが右手の指を軽く鳴らすと。
「わぁ!」
淡い青色の光がキラキラと降り注ぎ、瞬く間に雪の山が大きさの異なる二つの球体へと姿を変え、縦に重なったところでストンと着地する。
その見覚えのあるシルエットに、マヒナは興奮を露わにして彼の隣に座り込んだ。
「ゆ、雪だるまではありませんか!? 可愛い!」
「顔も何も付いてないがな。幼い頃、二番目の兄上にやり方を教えてもらった」
「まあ、お兄様にっ? そ、それで何ですか? お顔はどうやって付けたら……!?」
その辺に落ちている小枝やら石やらを慌ただしく拾っては、いそいそと身を寄せるマヒナに、リヒャルトは肩を揺らして笑った。
「枝はもう少し小さい方がいいな」
「そうですね、うーん……石を目にしようかと思ったけど、表情が乏しいかしら。枝を目に見立てて、にっこりさせ……あっ、と、溶けてる!」
興奮するあまり雪だるまの顔に触れてしまい、ジュッと音を立てて表面が溶け落ちる。
マヒナがショックを受けたのも束の間、不意に大きな手が雪だるまの顔を覆い、軽く叩くことで形を整えた。
「慎重にな」
「は、はいっ」
笑いまじりの低い声に胸が高鳴ったのも束の間、左肩に軽く体重を預けられたマヒナは耳まで赤く染めてしまう。思わず助けを求めるようにクラの姿を探してみれば、いつの間にか焚火の方まで遠ざかっていた侍女はにこやかに手を振るのみ。
余計に気恥ずかしさが増してしまったが、だからと言って自ら離れるのは惜しい。ちらりと隣を盗み見てみると、リヒャルトは口元に笑みを湛えたまま、小さな雪だるまにちょうどいい枝を見繕っていた。
そのあまりにも穏やかで優しい横顔に目を奪われつつ、マヒナはおずおずと尋ねる。
「あの、リヒャルトさま」
「何だ?」
「大丈夫ですか、その……熱くないですか?」
常闇の国の外套を羽織っているとは言え、今のマヒナはときめきで胸がいっぱいどころか頭から爪先まで茹で上がっている自信があった。マヒナの昂った感情に呼応して、炎の魔力がこの外套の守りを貫通するのではなかろうかと。
そうであれば大人しく離れるのだが、そうでなければ──マヒナのもじもじとした態度を一瞥したリヒャルトは、彼女の羞恥が伝染したように耳を赤くして笑った。
「大丈夫だ。むしろ、こうして寄り添っていられる良い口実になるなと考えていた」
「なっ、わ、私で良ければいくらでも暖を取っていただいて! はい!」
「そうか?」
そう言うや否やフードを被せられ、肩まで抱き寄せられてしまったマヒナは「びゃぁ……」と情けない悲鳴を漏らす。もはや雪だるまどころではなくなってきた彼女に代わり、リヒャルトは細く小さな枝を雪だるまの顔に埋め込んでいった。
「……。マヒナは……」
途中、ふと彼が口を開く。
「故郷から遠く離れた国に嫁ぐと決まって、嫌ではなかったか?」
「え?」
マヒナは少し呆けてから、手元でちまちまと選別していた小枝をリヒャルトの方に差し出しつつ答える。
「いいえ、とても楽しみでしたよ。家族と一生会えないわけではありませんし……リヒャルトさまとも仲良くできたらいいなと思っておりました。だからその、最初は本当に絶望してしまいましたが」
「俺も絶望した。人前であんな声を上げたのは初めてだったからな。それも結婚相手の前でだ」
二人は顔を見合わせ、同時に噴き出した。
焦っていたのは自分だけではなかったのだと知り、マヒナが安堵を滲ませて笑ったとき。
「マヒナが諦めないでくれて助かった。……魔力の問題で辞退されてしまったら引き留めようがない」
「引き留める?」
「ああ。いや、だが太陽の国まで説得に行ったかもしれないな」
彼の言葉をしばらく咀嚼し、虚空を見詰め、再び視線を隣へ戻すと、苦笑を浮かべたリヒャルトが小首をかしげる。
「悪い、回りくどかったな。俺が君に一目惚れしたという話だ」
「まあ! ひとめぼれ……」
明るく相槌を打ったマヒナがみるみる赤面していく傍ら、リヒャルトも居たたまれなくなったのか、完成した雪だるまを長椅子の下に移して立ち上がった。
「明日も早い。そろそろ休んで……あ」
そのとき、よく晴れた星空を一筋の光が駆け抜ける。
長い尾を引いて消えた奔星を見届けたマヒナは、同じように空を見上げていたリヒャルトの袖口を掴んで告げた。
「……あの、もう少しだけ一緒にいても良いですか? また、流れるかもしれないから」
空を指差して頼んでみれば、彼はどこか擽ったそうに口元を歪めて笑ったのだった。
◇
太陽の国からやってきた王女マヒナは、その後も氷雪の国での生活を続けることで、自身の魔力を宥めることに成功したという。
彼女はそのときの経験を書物にまとめ、後に移住してくる同郷の魔法使いたちが途方に暮れぬよう手を尽くした。併せて、常闇の国で作られた外套を高く評価し、同じ症状を抱えている人々の手に行き渡るよう宣伝にも協力した。マヒナの活躍により、それまで何かと遠巻きにされていた常闇の国が次第に国際社会の輪に馴染んでいったのは言うまでもない。
太陽の国と氷雪の国の婚姻、および同盟締結は非常に価値のあるものだったと評価されたが、王女マヒナはそんな称賛にはにかみ、こう答えたのだった。
「私がこうして氷雪の国で暮らせているのは、ひとえに愛する夫のおかげだ」と。