森の中の死体
人肉の腐敗する匂いが辺りを一様に覆っていた。アイルは匂いの中心へ向かった。
アイルは森の狩人だった。
森では常に幾万の生とそれと同じ数の死があった。およそ獣は同族の死の匂いを避ける。蛆のたかる仲間の死骸は猛獣の心でさえ悲哀で貫く。彼らは危険の兆候から常に逃げた。そして病や疫病を避けたのだった。
同族の死体の匂いは全ての獣が本能から真っ先に避けるものだった。
今、人肉の腐敗する匂いが辺りを一様に覆っていた。
アイルは水辺の葦際に近づいた。朝方の川辺は濃い霧に覆われていた。湿気を吸った空気の腐敗臭がアイルの鼻孔を刺激し吐き気をもよおさせた。彼は憂鬱になった。
静かな水辺にカエルの鳴き声が響いていた。彼はぬかるんだ土をゆっくり踏みしめながら歩いた。やがて葦際の向こうに何かが見えた。彼は臭い空気を口から思い切り吸い込み呼吸を止めた。そして葦をかき分け水辺を覗き込んだ。
水辺に死体が浮いていた。
死体はうつ伏せに浮かんでいた。灰白色に淀んだ水底へ向かって両手両足をだらんと垂らしていた。黄色い蝶が死体の周りを羽ばたきその背中に音も立てずにとまった。
死体の背中は緑色だった。死体は人間ではなかった。
死体はオークのそれだった。大の大人の二倍はあろうかという筋骨隆々とした背中のこぶが静かな水面から岩のように突き出していた。水辺の淀みに波紋の一つも立てずにオークの死体がただ浮いていた。
霧が少し動いた。陽の光が少し射した。そして川底の何かがわずかに煌めいた。
アイルは身を乗り出し目を凝らした。そして水中の何かを覗き込んだ。オークの死体の真下に銀色に輝く何かが揺らめいていた。
やがて霧が晴れた。水中に光が射した。光は水中の”何”かを明るく照らし出した。
それは人間の死体だった。死体の顔は白く蝋化し膨れ上がっていた。白く濁ったむき出しの青い双眸がアイルを正面から見つめ返した。波紋一つない水面に沈む彼は琥珀に囚われた蜂の死骸を思わせた。死体は甲冑の重みで半ば泥の中に沈んでいた。
アイルは水に飛び込んだ。そして死体の両足を握り葦際に引きずりあげた。腐り溶けた両足の肉にアイルの両手がくい込み指の跡を残した。
彼は死体を地面に寝かせて観察した。鼻はもげて黒い穴が空いていた。死体の甲冑には真ん中に小さな穴が開いていること意外は目立った傷はなかった。
これは、銃創だろうか。
彼は再び水中に飛び込みオークの腕を掴むと、それも葦際に引きずりあげた。その肌は爬虫類のようなザラザラとした硬質な皮膚をもっていた。そして腕を引っ張り死体を仰向けにした途端、アイルはぎょっとしておもわずのけぞってしまった。
オークの大きな重い頭が急に転がりぐるりと回転しておおきなげっぷを吐いたのだ。死体の膨れた腹から噴出した強烈な硫黄臭にアイルは思わず顔をそむけた。顔面が裂けるほどに開いたオークの大きな口には汚い黄色い犬歯と虫歯で黒く腐った臼歯が密に並んでいた。その大きく虚ろな黄色い双眸は焦点の定まらない目で天空を見上げていた。口の端から水が滴りこぼれ、今にも生き返り動き出しそうな気配さえ感じさせた。
しかし、もちろんオークは死んでいた。その膨れた下腹部には短剣が深く突き刺さっていた。アイルは短剣を引き抜いた。裂けた下腹部から嫌な色をした液体が吹き出しあたり一面に飛び散った。
アイルは短剣を葦で拭うと地面に置いた。そして兵士の死体を乾いた地面までずりあげると、人を呼ぶため村に走った。
岸辺に上げられた死体の周りには村の大人たちが集まっていた。アイルが呼んできた村の住人だった。
「北部連隊のようだな」もっとも年長の老人がいった。彼はアイルが住むスホルト村の村長だった。ハゲ上がった頭に茶色の粗末な外套を着ていた。そして太いねじくれた木の杖を握っていた。彼はかつては名の知られた魔法使いだった。
人類とオークは長らく戦争状態にあった。北部連隊とは北の国境を守るロードランの軍隊だった。アイルの住むスホルト村もロードランに属していた。
「年齢は三十といったところか。認識票がある」村長が言うと、首から下げられた銀片を取り上げた。
「お名前は何とおっしゃるのですか」アイルが聞いた。
「名前は書いてない。数字が書いてあるんだ」屈強な体躯をした短髪の中年男が代わりに答えた。彼はヤゴーといいスホルト村の猟師たちの長だった。
「数字はなんと」アイルが聞いた。
「Ⅱ、Ⅱ、Ⅵ、Ⅳだ」村長は答えた。男たちは死体を横倒しにすると甲冑の紐をはずし脱がせた。甲冑の穴は胸甲を貫通し胸の心臓を穿っていた。砕けた鉄板の破片がすぐ下の肉をズタズタに引き裂いていた。
「銃創のようだな」村長は言った。そして節くれだった細い指を死体の崩れた肉の傷穴に突っ込んで中を弄った。やがてその細い指は鉛の塊を探り当てた。鉛の礫はひしゃげて平らに潰れていた。「決まりだ。皆よ、オークの銃を探せ」
皆散り散りになり近くにオークの足跡や戦闘の痕がないか探しに行った。アイルは三たび水の中に飛び込んだ。そして死体の浮かんでいた地点まで泳ぐと、顔を水につけゆっくりと水中を調べ始めた。やがて彼は泥中に沈む銀色の物体を見つけたので、足先で泥を掻き出し、水中からその物体を引き上げた。それは持ち手に細かい錫の細工が施された短銃だった。しかし、アイルも銃器に詳しいわけではなかったが、火ばさみや火蓋などは見たことがない形をしていた。
「ありました!」アイルは声を上げて知らせ、村長のもとに舞い戻った。村長は銃を受け取り軽く調べた後、言った。
「弾は入っていないようだな。これは私が見分しよう。遺書は見つかったか?」
「ありました。」死体を調べていた痩せた男が答えた。彼はゲイルといいヤゴーと同じく年長の猟師だった。彼が胴鎧の裏側を見せるとそこには封が貼り付けてあった。
「ここではまだ読まん」村長が言った。「彼は魔物と戦い村を守った。丁重に葬ってやろう」
「オークはどうしますか」ゲイルが聞いた。
「川に捨てて魚の餌にでもしておけ」村長が言った。ヤゴーがオークの死体を蹴り飛ばすと、静かな水面に派手な飛沫をあげて落下した。そしてそのままゆっくりとどこかへ流れていった。
男たちは兵士の死体を運んで村に戻った。
スホルト村はロードラン北部にありがちなあまり文明らしからぬ限界集落のひとつだった。
村は幅十フィートほどの堀に囲まれ、トウヒの木の杭を打ち込んで作られた要塞壁で囲われていた。等間隔で並ぶ六つの櫓の上には巨大なバリスタが据え付けられていた。それは、空からの竜の襲撃に備えたものだった。堀には丸太を束ねた橋がかけられ村の入口へと続いていた。二十軒ほどある家に囲まれた広場では、女衆がすでに飯の準備を済ませていた。
村の広場では男衆が集まり火を囲って朝食の粥をかきこんでいた。焚き火の周囲には一人につき一本の焼き魚が串に刺されて炙られていた。アイルはニジマスの背中にかぶりついた。塩の効いた背中の身は柔らかくてうまかった。
「食いながら聞け」村長が言った。「皆も知っての通り今朝オルド川のほとりで死体が上がった。死体は北部連隊所属の兵士だ。恐らく北の防衛線のどこかが突破されたのだろう。彼はオークと戦い我々の村を守った。丁重に葬ってやろう」村長が銃を取り出しながら言葉を続けた。
「おそらくこれが兵士を撃った銃だ。見ての通り火蓋などはついていないが……」そう言いつつ村長は銃の引き金を絞った。打鉄のからくりが弾け、眩しい火花が瞬間的に舞い散った。「先端に火打ち石がついていて、この火花で火薬に着火するようだ。私はこの仕組の銃を初めて見るし、鍛冶連中もこんなものは見たことがないらしい。となるとオーク達が開発したものだろう……やつらの技術のほうが人間より先んじているということだ。これは火縄に点火する手間がないから便利だし、夜間の襲撃にはもってこいだろう。もしこれで砦が攻撃されているのなら、まずいことになっているやもしれん」
村長は節くれだった指で銃の引き金をなでながら、続けた。
「北へ使いを出したい。他のオークが既に侵入しているやもしれんから三人使いを出すことにする。ヤゴー、ゲイル、アイル、お前たち三人で行け。領主様にもこのことを知らせねばならぬ。ルー、お前は銃を持ってブリスコーに行け。飯が終わったら皆で墓を造ってやろう」
飯の後に男衆全員で村外れの墓場に穴を掘った。その墓にはまだ数えるほどの墓石しか立っていなかった。村がこの場所に造られてから四半世紀も経っていはなかった。
鎧、革靴、剣を外された兵士は穴の中に手を組んで横たわっていた。武具は全て村で再利用される予定だった。それは限界集落の生きる術だった。
「遺書を読み上げる」村長が言った。「我、若年より皇軍の栄光に仕え一片の悔いなし。しかし壮年にて故郷に残せし母を思う。我の僅かな蓄え是非母に贈り給え」村長は皆を見渡していった。「この遺言託された。この言葉必ず砦に届けようぞ」死体は埋められ名前の刻まれない墓石が立てられた。
半刻後、アイルは出立の準備を終え村の出口でヤゴーとゲイルを待っていた。そこに若い男が近づいてきた。男は鍛冶見習いでルイといった。
「アイル、受け取れ」ルイは鞘に入った短剣を手渡した。その短剣はオークの腹に突き刺さっていたものだ。
「研いだ」ルイはいった。「よく切れると思う」
「ああ」アイルはそう言って短剣を鞘から抜いた。アイルは磨き研がれたそれを改めて見て驚いた。ダマスカスだ。肉厚の刀身は黒く、妖艶な波紋は油染みた黒い光を反射した。ただ刃の縁だけは銀一線に鋭角な光を放っていた。彼はこの短剣を非常に気に入った。
やがて準備を終えたヤゴーとゲイルがやってきた。三人は村を出発した。




