川を下る
アイルたちは、沼地を滑るように船を漕いだ。
アイルは勝手知ったる沼の地形を、僅かな光を頼りにゆっくりと進んだ。水辺の蛙たちの大合唱に隠れて、彼らの存在に気づくものはいなかった。
やがて沼の水がオルガ川に流れ込む合流地点へ来た。川の流れ込みの音だけが暗黒の世界に唯一響いていた。
その静寂を突如狼の叫びが引き裂いた。
その遠吠えははるか上流から響いてきた……近くで聞けば砲火と聞き間違うほどの大音響だろう。
狩人であるアイルは獣の鳴き声を聞き分けることができる。その彼が確信した。
あれは砦にいたフェンリルだ。
だとしたらまずい。もしアイルの匂いを記憶されていたら、その鋭敏な鼻でいとも簡単にアイルを追跡し、追いつき、そして食い殺してしまうだろう。
その時再び遠くから大砲の砲火の残響が沼地を超えて響いてきた。アイルは村の皆を思い心臓を締め付けられるような気持ちで川に漕ぎい出た。
「おい、あそこ」ルイが小声で言い、川の上流を指さした。
遠くに船の熾火が三つ川面に揺れて浮かんでいた。おそらくオーク共の増員兵だろう。
奴らがアイル達の姿捕らえていないことを祈りつつ、櫂で川底を押し闇夜の川に船を進めた。
幅広の川へ漕ぎ位出ると、頭上の枝が開け、細い三日月の僅かな光に照らされて辺りが少し明るくなった。しかし水面はまるで底の見えない暗黒に覆われていた。しかしそうは言っても渓流からようやく川と呼ぶような幅になったばかりのオルガの川底は深い場所でも肩までの深さしかないはずだった。
アイルは背後を振り返った。船の光はまだかなりの距離があった。
「ルイ、後ろの光が近づいているか見てくれ」アイルはそう言い視線を前方に集中して速度を上げた。
そのまましばらく時間がたった。川はさらに幅が広くなり虫の声も遠くなった。ただ小舟が水面を打つたぷんたぷんという音だけが響いていた。
すると遠く上流から夜の静寂を裂いて再び狼の遠吠えが響いた。しかも、先刻より近づいている。
アイルは急いで説明した。「今のはフェンリルだ。俺が砦に行ったとき、おそらく匂いを覚えられてる。ここでもたもたしてると、匂いを辿って俺たちにすぐ追いつくだろう」
ルイが言った。「だがこの先は滝だろ?一旦船から降りないと」
アイルは一瞬逡巡して言った。「駄目だ。そんな時間はない」
「どうする」
「船ごと滝に突っ込む。アマンダは泳げる?」
アマンダは首を振った。
「重い装備ははずして船に下ろしておいて。ネネ、何かあったらお前がこの子を助けろ」
アイルはルイから片方のオールを受け取ると、目を細めて滝の稜線を見つめた。川の先は大岩を噛んだ急流となっており、ごうごうと響く落水の衝撃音がだんだんと大きくなってきた。やがて船は滝の縁のすぐ手前までさしかかった。
船首が滝の縁を越えた。小舟が大きく前方に傾き滝壺の闇へ傾斜した。白く泡立つサラシから跳ね返ってくる水しぶきがアイルの顔面を冷たく濡らした。
アイルは記憶を頼りに櫂を左手前方に突き出し強く握った。途端ガツンと櫂の先端が大岩を突いた。アイルは全体重を櫂にかけると船首をなんとか川下に向けようとした。小舟は大岩を横滑りし、彼らは空中に放り出された。船尾が岩棚をこすり激しい擦過音を立てた。そして船底が大岩の底に直に落下し大音響で打ち付けられた。
突然の衝撃の痛みが体を貫いた。アマンダが恐怖で甲高い叫び声を上げたが、ララがその口を手で塞いだ。
小舟は水流に錐揉みにされぐるりと回転すると、今度は船尾から空中に投げ出され更に6フィートの高さを落下した。
船尾が岩を激しく打ちまたガガッっという衝撃音を立てた。船はそのまま岩の間の楔形の細流に飲み込まれ操舵が効かなくなった。アイルとルイは懸命に櫂を大岩に突き立て転覆を防いだ。ようやく滝壺に船がたどり着くと、同時に船は水平を回復していった。
アイル達は急いで船を漕いだ。滝壺の轟音は背後の闇に溶けていった。
彼らは一旦船を停止させて上流の物音に耳を澄ました。
川は静まり返ったままだった。船の存在を気取られたかは、分からない。だが結局やることは一つだけだ。
アイルは下流に向けて再び船を漕ぎだした。




