さよならの朝
「……で?」
「いや、だから終わり。それで別れて、終了」
は? 疑問符を浮かべた高遠の声は、あの日俺が脳内で出したものと似ていたのかもしれない。
「待て待て待て、え? なに? おかしくね? めちゃくそ熱い展開来てると思ったら最終頁に『ご愛読ありがとうございました』とか書いてある漫画読んだ気分なんだけど」
途中寝てた? 首を傾げた高遠は、ずっと目を開いていた。ドライアイになるぞ、と注意したいほどぎらついた瞳で俺を凝視しており、気持ち悪いほどだった。
「マジでなんで健一は振られたの?」
「いや、だから俺もわかんねえの」
わからなくて、未だよく理解できていない。
「……ばれたんだろ」
しゃがれた呟きは、いつの間にかいびきが静まっていた浦山のものだった。よくあれだけ飲んで寝て、途中で起きられたものだ。どうでもよい感心を覚える。
「なんだよおまえ、いつの間に起きてたんだよ」
「ハギと千國がリゾート・ドバイ行ったあたりから」
「そこじゃねえよ……」
あそこは一昨年潰れて更地になってたじゃねえかよ。
「ばれたんだよアホハギ。どうせ名前呼び間違えたりしたんだろ」
「……まあ、だろうな。そうとしか考えられねえし。いや、名前は呼び間違えてねえけど」
なんで、とか狼狽え表ではぬかしつつも察してはいた。
ばれたのだ、恐らく気付かれた。俺が普段は別の女と遊ぶ一方で、咲幸にも甘い言葉を掛けている浮気野郎だったことに、あいつは勘付いたのだろう。
それがどのタイミングだったのか、真実は神のみぞ知る……いや、彼女だけが知っている。
漫画喫茶でじゃれていた時なのか、公園で蕎麦をすすっている時だったのか。そのあと一夜を共にしている時だったのか。そもそも最初から、弾んだ声を出していた電話越しで気が付いていたのか。
あの咲幸が、そこまで察しがよいとは到底信じられない
もしも女の勘というものが働いていたとしても、あいつは気付かないふりを続けられる人間だろうか。
なにもかもを察した上で、あの夜俺に幸福と喜びが綯交ぜになった笑みを晒したというのなら、女優になれる。プラネタリウムの解説員は止めて、そっちの道を目指した方がいい。
だから結局のところ、咲幸が俺の愚行を知ったのは最後の最後だったのだろう。
正直、心当たりがあった。
「え? つまり健一は二股を掛けてる分際で、通知も切ってねえ携帯を上向きにしてそこらに置いといたのか?」
「……まあ、だな」
「このクソ馬鹿!」
高遠と浦山の声が被る。壁越しから隣うるさくね? という声が聴こえた。
あの夜、俺は携帯を無造作にテーブルの上に置きっぱなしにしていた。巴からメッセージを受信する可能性が大いにあるそれをだ。見てください、と言わんばかりの清々しさで、画面を上向きにして。
普段は離れていたために油断があったのも事実で、しかし俺が呆れるほど無防備で愚かだったのには、別の理由がある。
ぶっちゃけてしまえば、俺は巴の存在を忘れていた。昂った気持ちで欲するままに咲幸を求めていて、気が回らなかった。
目覚めると、巴からからメッセージが届いていた。午前四時だ、意味がわからねえ。そこにあるのは『あけおめ』から始まる、見られたら間違いなく一発で有罪判決を食らう文面。
普段はわりとあっさりしたメッセージを寄越すくせに、その日だけは新年だからかやたらと愛に溢れていた。
俺は慌てて携帯をバッグに放り投げ、隣の咲幸を覗く。まだ小さく漏れる寝息に、胸をなで下ろした。
セーフ。逸る心臓を落ち着かせたが、あれが全然セーフではなかったのだろう。
よく考えればつけっぱなしにしていた照明は消えており、意識が落ちる直前まで足元で丸まっていた布団は、俺の肩までしっかりと覆っていた。
記憶は曖昧だが、咲幸は俺よりあとに寝たのか、途中で起きたのだろう。その時、偶然にも俺の携帯が受信したメッセージを目にしてしまった可能性を否定できない。
確証はないけれど、他に思い当たる節もない。咲幸が俺を責めることも問い正すこともしなかったのは、勝手に覗いてしまった携帯だけが確たる証拠だからなのではないだろうか。
「だいたい健一はなんで理由も訊かずに『はいはい』って別れたんだよ。普通訊くだろ、そこは」
「まあ、なんつーか。放心してて」
街中を歩いていて唐突に背中を刺されたら、え? となるだろう。スカイツリーの最上階から突如蹴とばされたら、は? しか発せなくなるだろう。
俺にとってあの朝の衝撃は、もはや前触れもなく殺された、というレベルに匹敵した。直前まで俺は、世界で一番幸福な男である自信すらあった。浮かれていた。
咲幸と延々と愛を交わし、薄れる意識の中ですら胸は彼女の温もりを感じていた。この熱がこれからは日常的に得られるのかと想像し、弛む表情を治すことができずにいた。
今の俺、多分二トントラックも片手で止められるし、溶鉱炉に落ちても死なねえわ。テンションは上がる一方で、とどまるところを知らなかった。
その上昇からの急降下に、俺の魂は耐え切れなかった。
どこで間違えたんだ? どこまで戻ればいい? どこからやり直せばこうはならなかった? つーか、どうすればいいんだ。
教えてくれ。呼吸を震わせて、遭難者がたどり着いた民家に縋るごとく、咲幸を見つめた。穏やかであると信じていた彼女の表情は、俺から声を奪う。
怒っていたのなら土下座をして謝罪した。泣かれてしまったのなら同様に俺も泣いた。けれどどちらでもない。色がなかった。温度というものも存在しなかった。
無言の咲幸からは、感情と呼べる一切のものが消え、俺は何一つ掴み取ることができなかった。あの咲幸にだ。
瞳は俺を映してすらいなかった。世界のなにものをも映していなかったのかもしれない。
手を伸ばしたらすり抜けてしまいそうなほど目の前は空虚で、俺はそこに存在しているのが咲幸であるかも曖昧になる。
狂おしいほどの幸福を一瞬で失ったのは、俺以上に咲幸だったのだ。
あの瞬間、俺はやっと自分が犯した罪を正確に思い知った。決して戻れない場所の、そのさらにずっと向こうに、たどり着いてから、ようやく。ああ。人の想いを踏みにじるとは、こういうことだったのか、と。
その事実を理解した途端に俺の頭は真っ白になり、脳は思考を手放した。誇張でもなく記憶が飛び、空白ができる。俺は咲幸に別れを告げられた時から数時間の間、記憶のほとんどが抜け落ちていた。
あの、大丈夫ですか? 見ず知らずの通行人に声を掛けられ、俺はぬかるんだ路肩に座り込んでいる自分に気が付いた。尻をどっかりと地面に据えて、ズボンは泥だらけで、パンツまで水が浸みている。冷てえし、どこだよここ。なにもない山林を割った道路。なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。一瞬呆けた。
顔を上げると太陽は南中をしかけており、凍てつく世界は溶けている。
咲幸の姿は、もうどこにもなかった。
俺は咲幸にどんな言葉を返したのだろう。もしかすると、なにも口を開いていないのかもしれない。そんな俺に愛想を尽かし、咲幸は俺の前から去った。
最後に彼女は、声を掛けてくれたのだろうか。それすら俺は、覚えていない。




