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メアテボシのあなた  作者: つめ
第二章 大学生篇
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幸福とは、この夜のために

 あの夜の咲幸は、幸福の海で溺れていた。

 人の心など読めるはずもないのに、不思議と確信できた。俺もまた、彼女と同じだったからだろう。

 ずっと口元を緩め、頬肉を焼きたてのパンみたいにふっくらつやつやとさせている。だらしねえ顔だな、と呆れるけれど可愛い。


 時々俺を覗き見ては、はにかむ。どうしたんだ? と尋ねても一言「内緒」だと。全然内緒にできていない。

 俺が告げたたった三文字の言葉が、どうやら嬉しくて堪らないようだった。


 あまりに幸せそうだから、赤信号のたびに車を停めて、咲幸の耳元で囁いてみる。好き、と。咲幸は耳が弱いのかもしれない。大袈裟に肩を跳ね上がらせたあと、小さな手のひらで顔を覆い足をばたつかせていた。


 落ち着けって、ゴミ箱蹴とばしてるだろ。何度注意しても聞かないから結局ゴミをぶちまけて、片付けている途中でダッシュボートに頭をぶつけた。舌を噛んだと嘆く。相変わらず馬鹿で、けれど俺も懲りずに幾度も繰り返す。


 きっと目の前の信号より、顔を朱に染めているのだろう。耳まで同じ色にさせて。いい年をして反応が子供なのだ。

 しかし俺と同じ想いを返してくる彼女の声色や唇は、不思議と薄暗さの中で艶めいて映る。


 どうしてかその日、車を運転しながら俺は、初めて咲幸と一緒に帰った高校二年生の自分とシンクロした。あの夏の夕焼けの中にいた。


 付き合うことになり、「これからよろしくお願いします」とぎこちない挨拶を交わした、無人駅の待合室。

 砂埃が立ち込める。蜘蛛たちは我が物顔で住居を構えていた。まるで俺たちがよそ者だ。

 俺はそんな思考を一言も口にはしなかったけれど、唐突にお邪魔します、と頭を下げた咲幸が「蜘蛛のおうちだね」とはにかんだ。俺はきっとこの子とずっと一緒にいるのだろうと、直感した。


 ほとんどの生徒が後夜祭に参加しているせいだろう、人影はなかった。

 真夏に向かう中、俺たちの空間だけがぽっかりと世界から抜け落ちたみたいに静まり返り、ひんやりとしている。夏なのに、夏ではない。


 塗料の剥げかけた椅子。どれほどの距離感で座るべきなのか戸惑う情けない俺。珍しく無言で、手遊びを繰り返しては時折頬を緩めているだけの咲幸。そんな彼女に、なにか喋ってくれと心で懇願する、やっぱり情けない俺。


 見かねたように入ってきた巨大な蛾が気持ち悪すぎて、同時に悲鳴を上げた。顔を合わせて、噴きだす。

 やだよーう、こっち来たあ。大袈裟に両手を振りながら蛾を追い払うこの子が、俺の彼女になったのだ。なぜだかほっとした。


 構内踏切を渡る途中、左右に広がる線路が人生のように思えた。過去と未来、そして俺が今立つ位置が現在。ずっとずっと見渡せない遠くから俺の人生は続いていて、同じように遥か先まで線路は延びていく。

 この先の長い長い旅路、彼女が隣にいる。その日の俺にはまだ想像が難しく、けれど幸せな日々なのだと信じた。西日に照らされた線路は、山間に織り込まれていくまで輝いていたから。


 ささやかな始まりだ。けれど二度とは訪れない、遠い夏の夕暮れ。


 付き合いたてのころですらしなかったのに、あの夜一生分くらいの好意を交わした俺たちは、今までにないほど激しく愛し合った。


 うっかり幾度か、意識を手放したかもしれない。白で埋まりかける頭のまま、俺はずっと咲幸を見つめていた。

 見んでえ、と恥じらっていたのは数分で、彼女は速攻で理性を飛ばす。

 馬鹿だからかそれは関係ないのか、笑ってしまうほど簡単に咲幸はアホになる。単純で素直だから、三大欲求に従順なのだ。


 快楽に溺れた咲幸はかつてないほど甘えたで欲しがりな奴になり、とうしようもなく俺を求めた。

 恐ろしいほど可愛くて、ドすけべで背中が粟立つ。脳が溶かされる。

 互いの汗が指先まで伝っても、俺は咲幸の手のひらを離さずにいた。



 よっしゃあ冷蔵庫にコーラあるじゃん。恐らくぼったくられるであろうコーラを嬉々として引き抜いて、一気飲み。盛大にゲップをかましてしまった俺の横で、水を手にした咲幸が微笑んでいた。


 ベッド横のマッサージチェアとか、テレビラック下のゲーム機とか。本物のカップルしか来ないような田舎のくせに、そういうところだけ都会に習って、誰が使用するのだろう。


 この状況で「俺、Wiiはやったことねえんだよな~」って全裸でテレビに向かいだしたら、さすがにアホだろ。

 けれど咲幸は「あたしがマリカやると雲に乗ったキャラがずっと上に居たんだけど、なんでだろうねえ」と首を傾げながらパッケージを取り出していた。

 マジかよ、逆走してんだよそれ。つーか今はやらねえから仕舞え。軽く頭を小突くと、舌を出して笑ってみせる。


 腕、痺れてまうよ。咲幸の頭を腕に乗せた俺に、彼女は視線を寄越したけれど構わない。

 痺れてまってもいいの、むしろ俺の腕やるわ。


「健一くん重いよお」


 ふざけた発言に若干引いた声を上げた咲幸は、腕枕をしている俺の手にそっと自分の指を絡めた。

 恐らく肘を曲げている咲幸も、そのうち腕が痺れてくるのだろう。


「俺の住んでるとこ、大学生多いけどいいとこだよ。この時期だから空きは少ないのかもしれないけど、でもまあ住む所はたくさんあると思う」

「そっかあ。じゃあ近くのアパート、調べてみるね」

「というか親に言ったのか?」

「ううん、まだ。帰ったら言う」

「なんで千葉? とか訊かれるだろ。どう答えるんだよ」

「それはー、彼氏がいるから、よ?」

「……怒られねえ?」

「怒られるだろうなあ、多分。めっちゃ。また馬鹿なこと言いだして! って」


 まったりとした、昼下がりの縁側みたいな会話。俺がずっと欲していたものだ。


「でも反対はされんと思う。ウチの親、完全にあたし見限ったっぽいし。就職決まらんかった時に」

「え? マジで」

「うん。わけわからんことしてないで地元で就職しろーって言われとったのに、あたしが粘るからもう大激怒でねえ。『全部したいようにしろ』だって。『なにも言わないけど絶対援助もしない!』って。……本当になにもしてくれんのよ。さすがにやばーと思って焦ったあ。最初の引っ越しだけでいきなり貯金なくなってまったもん」


 勘当レベルで笑いごとじゃない。こういうところでへらへらできるのは、馬鹿だからだろうか。メンタルが強靭だからなのだろうか。普通は不満を打ち明けるものではないだろうか。


「覚悟見せろーってことなんだろうね、きっと。あ、もちろん仲はいいんだけどね」


 父さんも母さんも、あたし大好きだし。そう付け加えた言葉はきっと本心だ。


「俺、挨拶とか行こうか? 咲幸の家に」

「ええ? なんでえ? 一緒に住むわけでもないのに大袈裟だよ」

「でも心配かもしれないだろ。どこの誰ともわからん奴のとこ行くとか」

「うーん、じゃあ来る? 父さん怖いよ?」

「マジで?」

「顔ヤクザの筋肉ダルマ、元ラグビー部」

「こえーこえー、無理無理無理」

「やめとく?」

「いや、行くから! ……そういや、大学の近くに安くてうまい飯屋があってな」

「え? どんなとこ」

「楽しみにしててくれよ、連れてくから。咲幸、絶対気に入るよ」

「えへへ、楽しみだあ」


 あれやこれやと、彼女とのこれからを想像する。自然と破顔していた。

 脳内は休みなく咲幸との未来を描き、俺は息つく暇もなくやがて訪れる日々たちを語る。その度に咲幸も、大袈裟に期待を膨らませた。


 かつてない以上、浮かれポンチだった。人生で初めて、幸せで死んでしまうかもしれないと戸惑いを覚えた。幸せの供給過多だ。心や体が目に見えぬもので満たされ過ぎて、破裂してしまうかもしれない。そう違うほど喜びが溢れて、一周回り苦しささえ抱く。


 この後の人生、今以上の幸福が訪れないかもしれない焦り。この幸福を、彼女を失ってしまってしまうかもしれない『もし』を想像する恐怖。様々な感情に、心が忙しなかった。


 おまえ、帰ったら巴はどうするんだよとか。咲幸が来る前になんとかしないと詰むぞとか。

 冷静な俺は脆弱過ぎて、浮かれポンチに瞬殺された。もろもろの不安はすべてきれいさっぱり頭から飛んで行った。

 嬉しくて、シャドーボクシングからラリアットを決めた高二の夏を上回る喜びに、俺は少し涙ぐんだ。


 そうして指先を絡めて話しているうちに、俺はまた咲幸が欲しくなる。

 ぴったり同じタイミングで頭を動かした咲幸と、目が合う。示し合わせたようにキスをして、俺たちはもう一度繋がろうとした。


 何回も何時間も繰り返した。時間の感覚などとうにない。いつになっていようが構わなかった。意識がある限り、二人で夜を続けたい。


「健一くん。……好き」


 大好き。あの夜の想いは熱が絡み、likeではなくloveで、好きよりも愛しているだった。


 少女でも大人でもない半端な場所にいる十九歳の咲幸は、みずみずしさと艶やかさをない交ぜにした色を持つ。惑わされた。どちらかが欠けても、多すぎても少なすぎても成り立たない、絶妙な魅力。来年はきっと、触れられはしないだろう。


 やがて襲ってきたまどろみに俺は身を任せた。現実と夢と幸せを混ぜて、淡くふわふわとした温かなものに俺自身を埋める。

 幸福とはきっと言葉にできなくて、それはこの夜のすべてを表すために生まれた単語なのだろう。

 俺はあれから幾度季節が巡っても、あの夜を忘れられない。




 朝を待たず外に出た俺たちを待っていたのは、薄明の中で華やぐ星々。俺は南の空に、咲幸が一番好きだと言った星と、一番大好きだと微笑んだ光を偶然見つけた。

 二つはわずかな距離を隔てて並び合い、白に輝いている。奇跡のような幻想的な姿に、俺は目が冴えて息を飲む。咲幸もただその空を望んでいた。


 俺たちは無言だった。空に光る星を目に、俺と咲幸が黙り込んでいた理由は全く別だったのだと、その時の俺はまだ気が付いてはいない。


 咲幸を家まで送り届ける途中に、遠くで太陽が昇り始める。朝が訪れた。元日の朝はどうしてか特別だ。すべてが息をひそめて、去りゆくものと訪れるものを送り、迎える。静けさだけが満ちる。


 家の少し前で降ろして欲しいと頼んだ咲幸と、なにもない山道を歩いた。

 薄っすらと積もった雪と、一面に降りた霜が織りなす銀世界。それらは朝日を受けて、細氷のように煌めいている。

 吐いた白い息に、俺はふと、ある一文を思い出す。冬はつとめて。早朝の美しさが、初めてこの日胸に落ちた。


 透明な光を纏いながら舞う風花の中、歩く咲幸は天使みたいだった。天使は見た事ねえけど。心で笑いながら彼女の手を取る。


 広がる光景を前に、この手だけを取って生きていこうと誓った。大丈夫だ、今度こそ間違わない。彼女を幸せにするのだと強く決意する。

 だから振り返る咲幸が口にした言葉を、俺は今でも受け入れられていない。

 咲幸は俺の手をそっとほどき、澄んだ大気に声を溶かした。


「健一くん。別れよう」


 あの日から、俺の中でなにかが狂ったままだ。

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